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生かされて -被爆死した友を悼む- 
兒玉 光雄(こだま みつお) 
性別 男性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1999年 
被爆場所 広島県立広島第一中学校(広島市雑魚場町[現:広島市中区国泰寺町一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一中学校 一年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

―はじめに―
今年も、五十四回目の原爆記念日がやって来る。私はあの日から五十三年間、亡き友たちより「生かされて」きた。ただ「生きて」来ただけでは申し訳ない標(しるし)に、半世紀以上経っても消え失せることのない、生死を分けたあの日の瞬間を、もう一度記録にとどめて、「生かされて」来た者の、よすがにしようと筆をとった。
あれは幻だったのか。たしか原爆投下の数日前、朝の太陽が真黄色に燃えて、級友とまぶしい太陽を指さしながら、不吉な前兆かと憂いあったことを、今でもはっきり憶えている。
 

八月六日は、朝から太陽がぎらぎらと照りつけていた。当時、私は県立広島第一中学校の一年生であった。戦時下の中学校は、夏休みなどなく、学校は七時半始まりである。六学級あった一年生、約三百名余が東校庭に整列し、朝礼をすませると、奇数組は、市役所裏の家屋疎開作業につき、偶数組は、各々の教室に入って、自習ということになった。これが第一の運命の分かれ目になったのである。

私は十六学級で、私達の教室は、学校で唯一の二階建ての本館から、東西に並ぶ教室の東端の方にあった。木造平屋建ての伝統ある「オンボロ校舎」である。朝礼前に発せられていた敵機襲来の「空襲警報」は、いつものことであまり気にもせずにいたら、間もなく解除された。

教室で自習といっても、新しく発表された時間表を写す者、教科書をひろげる者、雑談する者等ばらばらだった。そして誰かが「もうぼつぼつ作業交代の時間なのに、今日は伝令が遅いな」とつぶやいていた頃、又B29の音を聞いた。

私の隣席のI君は「おいB29を見にいこう」と私をうながしながら席を立った。私の席は、最前列南側の窓辺にあった。I君と同じく私も腰をうかしたが、ふとみると、教室の中央部の人だかりが目にとまり、のこのことそちらに歩を進めた。これが第二の生死の分かれ目になろうとは。中庭に出たI君は「おーい!落下傘のようなものを落したぞ」と大声で叫んでいた。私は人垣の中央にいたY君をみると、彼はニヤニヤしながらその雑誌をかくすような仕草をした。それは当時の一中では持参禁止の雑誌「少年倶楽部」である。私も皆に迎合するような笑顔をつくって、人だかりをおしのけ、Y君の席半分に腰をかけようとした――その瞬間だった。

「ピカッ!」あの幻の黄金の太陽が、巨大な火柱となって、南側の窓辺に落ちるのを左目でみた。やられた。伏せろ。中腰だった私は、とっさに机の下にもぐり込むことが出来た……と思った。どのくらいの沈黙の時間が過ぎたのだろうか。

ふと気がつくと、床に這いつくばっていたはずの私の頭は、椅子の上にあり、両手は頭をかかえている。足も動く。しかし息苦しい。目をこらしてあたりをみても真っ暗だ。土埃と粉塵の臭いで、息がつまりそうになる。二度三度と、大きな土の塊のようなものを吐いた。

数ケ月前に、米軍機が一中の校舎に爆弾を落したことがあった。私はてっきりその直撃を又うけたのだ、落着け落着けと自分を励ました。そしてきっと救助に来てくれると信じていた。

しばらくすると、うめき声や「おーい」と低くわななく声も聞える。動く頭をふと上に向けると、ぼんやりとした薄明りのようなものをみた。手を伸ばし天井板をばりばりへし折ると、そこは人間がやっと通れるくらいの穴になった。腰を伸ばし外へ出ようとした途端、左肩にぶすりと五寸釘がささった。気丈にも腰をしずめて釘をぬき、流れる血はそのままに、今度は慎重に、あたりをうかがいながら、恐る恐る倒壊校舎の上に出た。Y君が「オーイ」と叫ぶので、天井板を破り、首をおさえていた少年の腕のようなたる木を馬鹿力で折って、彼を引っ張り出した。「一中だけがやられたにしては、これは変だぞ」近くに立つY君の顔は、ぼんやり識別できるが、あたりは真っ暗である。ふと見上げると、太陽がおぼろ月夜のように、ぼんやりと見える。足もとの級友の叫び声にこたえて、無傷のY君と協力して材木を動かし、竹や板を折って五~六名は助けたろうか。しばらくして、Y君は助けを呼んでくるといって、その場を離れてしまった。

やがてぼんやりと、あたりの様子が見え隠れしはじめた頃、一中校舎の本館は消え失せ、その向こうに立っているユーカリの大木が幽霊のようにみえた。広島の街は消え失せ、ぼんやりと地平線が見透かせる感じがした。その処々に狼煙(のろし)火のような炎が、ちらちらと見えだした。近くの中電ビルの各階の窓が、一斉にオレンジ色の炎に染まった。北の方に立つ福屋とおぼしきビルや、中国新聞社のビルも、窓が炎に染められている。遠くのものが、こんなに手にとるように近くにみえるなんて不思議だ。やがて足もとの倒壊校舎の土埃もおさまりだした頃、助けを求める友の声をたよりに、精いっぱいの力をふりしぼって、何人の友を救け出したであろうか。なかには、耳の鼓膜が損傷したのだろうか、名前を呼んでも無表情で返事をしない者、肩を脱臼したのかだらりと片腕をたれた者、足を負傷したのかたる木を拾って、両手で杖代りに支えながら足をひきずっている者、級友は皆放心状態で、その場を離れていった。埃のおさまった倒壊校舎の下をのぞくと脳天を倒れた柱で割られたのか黒髪が真赤な血で染まり、白桃色の脳みそがとび出し、もうぐったりした友をみた。

校舎の底の方からは、重苦しい声で助けを求める声にまじって、「天皇陛下万歳」「お母さん」「広島一中万歳」と切迫した叫び声が聞こえる。死を覚悟したのだろうか。やがて苦しそうに「君が代」を歌うと、一層低い声で「鯉城の夕、雨白く…‥」と校歌の合唱に代わった。その頃、私は大きな柱や、梁の交差した倒壊校舎の下にもぐり込む気力を、もう失っていた。

「それにしても、上級生や、救助隊の到着が遅いな」とぶつぶつ言いながら、ふとみると、O君が大きな梁に右太腿部をはさまれて、助けを求めている。梁と太腿の間には、アルミの水筒がはさまれている。「この水筒さえのけてくれれば脚はひき出せるから」と懇願するO君に励まされて、渾身の力を込めて梁をあげるよう試みたり、水筒を除こうとしてもぴくりとも動かない。O君の顔は無傷で意識もはっきりしている。仲の良かった友だ。

頑張れよと声を掛け合って、梃子(てこ)代わりのたる木を捜し、それで梁を持ち上げようとしたが、たる木が折れてしまった。万事休す。よし!助けを呼んでくると励ましの声をかけて倒壊校舎の上を離れた。私もその間、血と土の塊のような痰をはきながら、弱っていく自分を感じていた。

プールの方に人影をみて、よたよたと中庭に出た時、上級生らしい姿をみて「友達を救けて下さい」と膝をついてお願いしたが、彼も顔半分は真赤にただれて、制服の半分がやけている。彼は無言で手をふって行ってしまった。その時の彼の右手先は、ボロ布をさげたようにみえた。あたりはすっかり明るくなって、又ぎらぎらと太陽が焼きつくように、照りはじめた。その間どの位の時間経過があったのか。一時間経過でも、私には一〇分位にしか感じられなかった。

あちこちに上った火の手は、勢いを増してこちらに迫って来る感じだ。あの中電ビルも、福屋も炎は窓の外にふき出して、ビル全体を包むように、中天高く舞い上がっている。同じような姿の大小のビルや建物が、それに協調したように炎につつまれ天を焼きはじめた。

目を転じて北西の方をみると、己斐の山々がここ雑魚場町から、手のとどく距離にみえる。その間にあった建物は、瞬時にどこへ消えたのだろうか。天から舞い下りた黒い雲は、己斐の山々をおおい、その黒幕のような雲をつたって、煙と炎が競って天に昇ろうとしている。これが灼熱地獄図というものかとわが目にやきつけた。

プールにたどり着くと、水の中は火傷を負った生徒達でごったがえしていた。プールの水も茶色になっている。プール際では嘔吐をする者、上半身の上衣はボロボロに焼けて、ただ一中制服の裾の白線だけが目立つ者、顔を真赤にやけどして、破れた水道管から吹き出す水に顔をあてて冷やしている者等、近くの作業場から逃れて来た生徒達は、水のあるプールサイドをひと時の休息所として寄り集まって来たのだろう。ポンプ室の方からは、しぼり出すような声で、軍人勅諭の朗読をはじめた者がいる。「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし…」火傷を負っているにも拘らず、直立不動の姿勢である。それにつられるように、ポンプ室の陰で休んでいた負傷者も、ポケットから手帳をとり出すと、直立して、かかとをきちんとつけ、火傷でボロぎれがぶら下がったような手をきちんと前に伸ばして唱和をはじめた。

こんな負傷者ばかりの姿をみて、私はやっと、倒壊校舎の中の友達の助けを求めるどころでない事がわかって来た。

校舎の方にひき返してみると、同じ学級のT君は、顔中ガラス破片がささり、血で染まった顔は、はれ上がり頭にはゲートルをまいて出血を止めようとしているのか、それでも血は耳を伝って肩を真赤に染めている。彼は私の学級の級長だ。私はゲートルをもう一度まき直して止血してやろうと言ったが、彼はそれを制止して、努めて何でもないよと言いたげな笑顔をつくって、「大丈夫、畜生畜生」と言いながら気力だけでつっ立っているようにみえた。彼がしゃべる度に口から血をはいている。その形相をみて「逃げよう」「火が廻ったぞ」と声を掛け合い、その場を離れた。その瞬間は、梁にはさまれたO君のことは忘れていた。T君ともすぐに離れ離れになり、煙のない方はと捜すと、学校の東側に墓地がある。そこをめざして倒れた小屋のトタンや板材をふみながら進むと柔く弾力のあるものをふんだ。ギャーと鳴き叫ぶ声で、みると大きな豚である。負傷はしているようだがまだ生きている。とにかく道路に出ようと努めたが、倒れた建物は道をふさぎ、倒壊建物の上を用心深く進むより他はなかった。行く手に四つ足を天に向けてあばれている馬に驚いて、しりぞくと、やっと細いドブ川沿いの道に出た。

ふと子供の頃の遊び場だった比治山の緑の樹陰を思い出した。暑くて、日陰が恋しい。竹屋町には親類もある。比治山をめざそうとその方向に歩いて行くと、幅広い道路の両側の家々は、燃えさかり、大きな炎のトンネルになっている。これでは比治山にたどり着けないとあきらめて、きびすを返し、とにかく火のない方向をめざした。

やっと広い道路に出ると、そこは人々の長い行列である。人は皆申し合せたように両手を前にだらりとたれて、顔や体のいたるところや、手の先までボロを纏っている。よく見ると焼けただれた皮膚がぶら下っているのだ。一様に低いうなり声を出しながら、煙のない方に延々と続いている。私もその列に加わった。飛び出した眼球を左の手のひらで受けたまま、右手は木ぎれを杖代わりに持って、さぐりながら黙々と歩く青年。赤い坊主頭は、頭の皮がむけたのか、首にだけ残ったセーラー服の襟が、女学生だったことを推測させる。戦闘帽をかぶっているが、軍服の半分は、黒く焼け焦げ、銃を杖代わりに片足をひきずっていく兵隊の群、それをみた時、はりつめていた心もゆるんで「ああ日本は敗けた」と心で叫んだ。

倒れた長いレンガ塀に両足をとられて、横たわっていたモンペ姿の婦人が、咄嗟に手を伸ばして、私の足をつかもうとした。私は、反射的にその手を払いのけ、その場を逃れた。自分だけが助かろうとしている行動に、自らを恥ながら、もう理性は失っていた。大人の五~六人が同時にレンガ塀をもち上げれば、婦人の足はぬけたかもしれない。婦人の髪をふり乱した必死の形相は、O君の懇願する瞳の中に、悟ろうとする諦観的で、おだやかな顔つきの面影と共に、生涯私の脳裏を離れないだろう。

低くうめき泣く行列の流れは、御幸橋あたりに着くと、分散していった。

「水をください」「看護婦さん助けて下さい」「兵隊さんお願いします」臨時救護所の設けられた御幸橋のたもとは、あちこちに人だかりが出来て修羅場と化している。水を求めて川に飛び込もうとする者を、必死で止めようとする血染めの手袋をした警察官、力つきて丸太のように炎天下の路上に並べられた人間襤褸(らんる)、看護所の油の匂いに交って、死臭さえただよいはじめた。私もそれまで幾度となく血の交った咳のようなものを吐いていたせいか、喉はからからだった。暑い、日陰はどこにもない。そこへ元気な兵隊を乗せたトラックがやって来て、負傷者にのるよう促した。「似島に行くぞ」の声に、トラックに人だかりが出来ていたが、兵隊はそれを制して動かない丸太のような黒い人間を積みはじめた。

あたりの光景を坐りこんで眺めていた私は「どうして御幸橋の欄干は、こんな倒れ方をしたのだろう」と考えている内に、意識が遠くなり出した。欄干のない橋からは、川面がよくみえる。黒い死体が幾体も、ゆっくりと流れていくのを、ぼんやりと眺めていた。「どうしても母のもとまでは帰ろう。戸坂をめざそう」と気力を再びふるい立たせて、よたよたと夢遊病者のように歩きだした。もう煙は追って来なかった。ただ自分との闘いだった。ふと気がつくと、宇品線の丹那駅がみえる。戸坂に疎開する前は、出汐町に住んでいた。子供の頃はトンボ釣りでよく遠征したなじみの蓮田風景である。「これで道しるべがはっきりしたぞ。戸坂へ帰れる」と思って気がゆるんだのと、焼けつく暑さで、又血と土の塊のようなものを吐いて、気が遠くなった。どのくらい倒れていたのか。気がついた時は、近くの民家に担ぎ込まれていた。「気がつかれましたか。一中の生徒さんですね」民家の人は、親切によごれた顔を冷たい水で拭いてくれた。

「井戸水は冷たいからこれで体をふきなさい」と真新しい手拭を差し出してくれた。「私の親類にも、一中の三年生がおるんですが、どうしましたかの」といいながら、いつまでも気楽に休んでいけという。これが地獄に仏というものか。もしあのまま炎天下に倒れていたら脱水症状で命はなかったかも知れない。

太陽がやっとかげり始めた頃、どうしても母のもとに帰って、早く家族を安心させてやりたいという気が一層つのって、戸坂へ帰りたい意志を告げると、白米とカボチャの弁当を作って「これを持って行け」という。

当時は、白米の御飯などみたことも、口にしたこともないのに全く食欲がわかない。でも腹はペチャンコである。しかしこの井戸水はおいしいからといいながら、冷たい水をたっぷりご馳走になって、気力が回復した。おまけに「この宇品線づたいに行って、広島駅の一つ手前の大洲から矢賀に向いなさい。矢賀駅からは、芸備線が動いているから」という情報まで聞いてきて、見送っていただいた。

矢賀駅から負傷者ばかり積んだ列車が動きだした頃は、あたりもとっぷり暮れていた。中山トンネルをぬけて次の駅・戸坂駅におりたって恐る恐る広島の方をみた。広島方面の山々の稜線は、赤黒い色に染められ、炎はオレンジ色に輝いて、黄金の火の粉を巻きあげながら、天空高く達していた。広島一中の校舎の方に向かって、手を合わせ、O君すまぬと合掌した。

帰宅すると母は、「お帰り、お前は必ず助かる。きっと無事で帰って来ると信じていた」と、さも助かるのが当り前のような顔をして、努めて冷静に迎えてくれた。でもあとで、そっと涙をふいて嗚咽している母をかいまみた。あとで聞いた話だが、母はその日は家から一歩も外に出ないで、神に祈るのだといいながら、日暮れに息子は助かるというお告げがあったという神がかり的な話を、妹から聞いた。

同じ一中の同級生で、戸坂から仲良く通学していたD君の母親が、昼間から度々我家に来て、一緒に探しにいきましょうと母を誘われたが、母が動かないので、いらいらしておられたらしい。私が無事に帰宅したのを聞いて「私の息子も一緒に逃げてくれたのでは……」とすがるように尋ねられた。私は正直に、D君は一五学級ですから疎開作業の当番に当たっていました。外にいましたから私と被爆状況が違うのでわからない旨話した。しかしとても作業班が逃れて来たであろうプールサイドの阿修羅の惨状は、話す気にはなれなかった。

疎開先の戸坂で休養して、大分元気も回復した八月十日頃、田舎の従兄弟が訪ねて来た。「被爆した広島を案内しろ」という。学校へも行ってみたい気も手伝って、混雑する列車で広島へ出て、駅前に降り立った。すると、私は次々と嘔吐を催して一歩も歩けない。従兄弟もあきらめて、一緒にすぐ戸坂まで帰ると、私はケロリと生気を回復した。広島には、目にみえない不思議な魔物が住んでいるように思えた。それから二~三日滞在した従兄弟と山際にある広い溜池に泳ぎに行った。帰って頭を洗うと、いくらでも髪の毛がぬける。変だなと思ったが、前日散髪に行った時、髪の洗い方が悪かったのだろうと、あまり気にもとめないでいた。八月十五日の天皇陛下の敗戦の詔勅放送を聞いた頃は、熱が出て来て、おぼろげな意識で聞いたのを憶えている。敗戦の衝撃と合わせるように床に伏せた。熱は日々に高くなり、歯ぐきや、鼻粘膜、目じりから出血がはじまった。髪の毛は完全に抜け落ち、看護する者がいくらふいても、血は止らない。父がどこで手に入れて来たのか「家を買うのと同じ位の値段だというペニシリン」を、医者に打ってもらったが、一向に熱は下がらない。それどころか、そのあとが化膿して、かえって容体は悪化してしまった。二〇日を過ぎた頃は、熱は四〇度を超えていた。当時使っていた体温計には、四〇度までの目盛しかなかったので、推定して、四十一~四十二度までは、達していたようである。

母は、体の毒を追い出すのは、ドクダミ草が一番良いと、それを煎じて水代わりにせっせと飲ませた。葉はやいて化膿したあとの毒をすい出すからと貼っていたら、ペニシリンあとの化膿も、これで大分癒えて来た。出血のあとは、煎汁を脱脂綿にふくませてふいてくれると、血の匂いが消えてさっぱりした。

医者は、異常な高熱に驚き、近寄らなくなったという。医者に見放された母は、近所の神社にお百度をふむかたわら、昼夜を分かたずドクダミ草による必死の看病をつづけてくれた。高熱にうなされていた私が、ある日神のお告げがあったと、うわ言のように「八月三〇日を越えたら生きのびる」と口走ったそうである。その予告通り、八月三十一日になると高熱は下がりはじめ、九月一日には平熱近くにまでなった。そして九月中旬に中国地方を襲った台風による太田川の氾濫状態を、窓辺の手すりにつかまりながら、やっと上半身をおこしてみることが出来るまでに回復した。

十二月上旬になって登校した。頭の毛は、赤ちゃんのうぶ毛のようだったけれども、誰もからかわなかった。引揚者等の転校生にまじって、直接被爆しながら、生き延びている者が数名いた。彼等は皆、校舎内被爆者で、外の作業に出ていたものは、皆無だった。

今でも確かなことは解らないが、原爆投下の日、登校した一年生が三百名余。その半数約百五〇名が校舎内にいて、直接被爆しながら生き残った者は、十八名とも十九名とも聞く。しかしその後、病が再発して、若くして亡くなった者、還暦近くまで生きながら、冥土に旅立つ者など、そのほとんどが、癌におかされていた。私も六〇才を過ぎた頃から、相次いで、大腸癌・胃癌・二度の皮膚癌手術を受けながら、未だ「生かされて」いる。そして今生き残っている者は、十名になってしまったのではなかろうか。

 
―おわりに―
「生かされて」いる者達の中には、いまだに業界の第一線で活躍している者から、社会の責務を終え、次なる命題を求めて模索している者など、彼等は絶えず「何故生かされているのか」と自問しながらも、生き永らえた者の共通の思いは、「志高く、志清く、そして志豊かに」与えられた人生を全うしようとしているのである。
私も「貧しくても恥ずるに足らず、恥ずべきは、「志」なきなり」の言葉を肝に銘じ、老いても虚しく生きることなきよう、広島一中精神の「質実剛健」を糧として生きていきたいと思う。
いつの日か彼岸に達した時、若くして無念の死をとげた友たちの前で「オイ、君達のしたかった事、出来なかった事を、私は君達の代わりにして来たよ」と胸を張って言えるよう、「我が人生集大成の報告書」を纏めあげることに専念したい。

                                                                                                                                                         以上
平成十一年七月二十八日 記

*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
  

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