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被爆について思うこと 
山口 昇(やまぐち のぼる) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島陸軍兵器補給廠(広島市霞町[現:広島市南区霞一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 原子爆弾が投下された時、私は比治山の山蔭にある陸軍兵器廠に居た。暑い中、私たちは裸で仕事にとりかかったときだった。私たちは山かげに居たために助かり、一級下の2年生たちは反対側の陽にあたる中で働いていたため全員が死んだ。私の母は隣家の奥さんと背中を陽当りに出して話していた。背中全体にやけどを負って死んだ。父は自転車で徴用先に向かっていたが、どこで死んだのか今でも不明だ。時間から推察して元安川の橋あたりではなかったかと思って、その辺の河原の小石を持ち帰った。その日は広島市内に入れず、友人の郊外に残った家に泊めてもらい、2日後市内の焼け跡を、母をたずねて歩きまわった。黒焦げになった大人の死体は子供のように縮込んでいた。死にきれない女性が私のズボンのすそを力なく握って、学生さん水を下さい、と言った。尋ねあぐみ疲れた私は川の土手に腰を下ろした。河原には川の水を飲むため這い寄って一口飲んで死んでいった。苦しいうめき声を聞きながら眠った私は翌朝目覚めて下の河原を見た。私はあっと息をのんだ。あれだけいた多くの人々が夜中の満潮で、生きた人も死んだ人もきれいに海に流され、真っ白な河原がそこにあった。私はそこに白砂の墓標を見た。
背中にやけどを負った母は、町中をふらふら歩いているところ、陸軍のトラックに拾われた。臨時野戦病院となっていた安佐郡の亀山小学校に収容され治療を受けていた。たまたま母のとなりにいた陸軍の軍医中尉が、私たちの親戚のM少尉とたまたま友人であることが分かった。
母は3日前に死んでいたが、その中尉は私に、お母さんはあなたのことをずいぶん心配していましたよ、と言ってくれた。当時私は三次市の近くの親戚に居たが、母がその親戚あてに出した手紙が着いたちょうどその頃に母は死んでいたのだった。
白木の遺骨を胸に抱いて亀山小学校を出た私は、途中の人家で天皇の終戦の詔勅を聞いた。ラジオの声は雑音でよく聞き取れなかったが、何で母が、父が生きている中に戦争を止めてくれなかったのか、私はくやし涙を流す一方、ああやっと終わったんだと思うとうれしさがこみあげてきた。
昭和4年生まれの私は、成長とともに世の中は戦争へ戦争へとつき進んでいった。支那大陸で日本は勝った勝ったと沸き立ち、ちょうちん行列や千人針、戦地に行く兵隊を送る軍歌の中で私は育ったような気がする。
広島で被爆した私は原子爆弾で一気に10万人かもの殺人をやった米国に対して許せない気持ちだ。私は7~8才位の時、銭湯で母からアメリカという大きな国と日本は戦争するかもしれない、と話され、そんな大国と戦って日本は勝てるのかと本気になって聞いたのを75才の今でもはっきりおぼえている。
今靖国問題が論議されている。私は、この戦争は明治維新から積み重ねられたもので、途中でやめられる流れではなかった。いくところまでいくしかなかった。英国の阿片戦争はどうなのか。二度と決して戦争をしない「不戦の誓い」こそがもっとも大事なことだと思っている。

※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。

  

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