当時、広島高等師範学校の二年生であった私は、学生寮の幹部として東千田町の校内にいた。二年生以上の学生は、軍需工場に動員され、新入の一年生も見習の目的で、当日は向洋の東洋工業に出発していた。寮には自給菜園の農作業要員のほか、体調をくずした新入生たち十名余が残留していた。自室で書物を見ていた私は、八時を少し過ぎた頃、突然部屋の中がぎらぎらと直射日光に照らされたように眩しく光った。反射的に立ち上がり、右手の窓(北側)を見ると、もう外の景色は全く消え去り、ただ一面黄白色の閃光一色で目も開けられない。とっさに校内で何かの爆発があったと直感した。しかし私の意識もそこまでであった。
それから、どれ程の時間が経過したのであろうか。倒れたまゝ、ゆっくりと意識をとりもどしたのは、自室から幾つもの寮舎を越え、数十メートル離れた南門の外であった。すでにあたりは、まともな形の家などどこにも無く、渦高く散乱した木片や瓦礫の山、押しつぶされた屋根がうねるように続く廃墟。校内からは黒煙があがり、無気味な静けさの中に影絵のようにうごめく僅かな人影。突然異様なうめき声とともに人影が近づいた。ちぢれた髪の毛が顔にかぶさり、どす黒く泥にまみれた衣服らしい布切れが、無惨に引き裂かれて、僅かに身体の一部を覆い、両手を前に差し出してよろめくように歩いてゆく。男女の別も判らない。よく見ると、同じような人影がまだ幾人かうろついている。思考力のうすれていた私にも異常な状況におかれていることに気がついた。
正門の方に急ぐと、農作業の指揮にあたっていた同僚に会った。そこに倒れていた用務員のおじさんを日赤まで運び、とりあえず、南の宇品方面を目指して退避することにした。途中、電車は放置され、馬の死体がころがり、広い道路も飛散物が散乱し、倒壊した家々が道中にはみ出し、各所に黒煙があがっていた。とぎれとぎれながら同じ方角をめざす人々の列が現われはじめたが、それはまさに地獄絵そのものの異様な人達の流れであった。
すぐ前を泣きながら歩いていた小学三・四年生ぐらいの女の子が「お母ちゃん、目が見えないよ」と叫び出し、やがてくずれるように座りこんだ。母親らしい姿は見えない。幸い救護に駆けつけていた兵士に出会い少女を託した。時計も止まり、歩いた時間も、距離もわからぬまま、ただ南の方を目指して歩いた。かなりの人影が集まり出入りする一軒の開業医の家があった。しかし中は戦場のように混乱していた。「もうダメだ」と言われながら、お腹の異常に膨れた、小さな子供を抱きしめて、おろおろと佇む父親の姿もあった。私は消毒薬のしみた脱脂綿をもらい、自分で傷口を手当しながら外に出た。友人は腕や胸にかなり大きな火傷の水泡があり、手当をうけるため残った。(彼は収容先で死亡。)
近くの空地に象の形をした滑り台があり、その陰に身を寄せてしばらく眠ったようである。偶然一人の一年生が私を見つけて声をかけてきた。その時「学生さん、これ二人で食べなさい」と、声とともに差し出された手に、大きな円い白米のおむすびが一つ載っていた。見上げると朝鮮の白い民族服を着た年老いた男の人が一人、お釜をかかえて立っていた。そして礼を言う私達に手渡すのももどかしそうに、次の人達のむれの方へ歩いて行った。私は今もその声と、民族服の姿をはっきりと思い出すことができる。私たちはしばらく純白の円いおむすびを眺めていた。 |