被爆は広島に於て、新設された女子高等師範学校二階建木造校舎の二階で授業開始を待っていた8時15分にあった。右前方に黄色の尖光に驚いて目と耳をふさいで机にうつぶせとなった。と同時に耳のつぶれる程の轟音と共に熱風が体をふき飛ばし校舎の下敷となり意識を失った。友の叫ぶ声、自分の声にハット驚き瓦礫の中から必死の思ひで這い出すことが出来ました。頭を強く打っている為か血の色も緑の木もすべてが黄色く見えて度々気を失いかける。若かったこともあり又当時の軍国主義の教育の為に、泣き事は一切言わず集団で学校から8K離れた飛行場迄逃げた。途中黒い雨にうたれ、又右往左往する大勢の人々の筆舌につくしがたい惨状は今も脳裏から離れることはない。顔は真黒く焼け、ただれた手の皮はぶら下り、半裸体に近い老若男女子供達の叫びと悲鳴、此の世ではない本当の生地獄であった。目的地について、私自身気を失ってしまい気づいた時は、39度を越す高熱の寒さであった。又自分自身両手と顔面の火傷をしていることであった。右手首にあたる所は早くも黄色の膿を持ち、手はあひるの水かきの様に5本の指はつながっていた。手は心臓より下に下げると気を失いかけるので膝の上に両手をのせ背を防空壕の板にのせかけていた。其の夜から血尿血便高熱と生死をさまよう日が続きひたすら肉親を待ちつづける。終戦の日8月15日善通寺から母が迎えに来て下さり其の時の嬉しさは言葉で言い表すことが出来ない。其の後の闘病生活は、家族の愛情の看護、栄養、そして最後が治療であった。両手はくさるだけくさり骨迄に達した。その臭気は家の前を歩く人が鼻をつまむ程であった。
2度の輸血、植皮手術、1年半後の整形手術2回と、自分の体には其の時の傷と火傷による生々しいケロイドが残っている。右手、くすり指、小指は曲ったままである。結婚後子育も家事も三本の指でした。長女出産の時は奇形児でないかと気もくるわんばかりの不安で夜もねむれなかった。又被爆二世と言う子供の結婚問題等五十年の間にはいろいろと口に出せない心配事はあった。最近NHK映像の世紀(恐怖の中の平和)を見て原爆のおそろしさを客観的に見ることが出来、自分自身よくぞ命があったものと感謝する想いです。
もう広島長崎の惨事はあってはならない。人類の平和の為に声を大にして叫び、平和を心から祈らせて頂きます。
被爆五十年を顧みて
戦後五十年、歳月のたつのも早いもので半世紀を迎えようとしています。現在私は六十八才、四人の子宝に恵まれ孫十人、一人として病弱な者もなくいたって健康であり精神的にも、明るくとてもよい環境に恵まれ毎日を感謝の心を持って生活させて頂いて居ります。
しかし、ここに至る迄何事もなく順風満帆であったかと申しますとやはり人生ですものいろいろとありました。私は当時の善通寺高女、現在の善通寺一高四年生の秋、昭和十九年十一月三日宝塚方面にあった川西航空機工場に学徒動員され、旋盤を使い飛行機の部品をつくっておりましたが、終戦の年三月、動員先の川西航空機工場で一年くり上げ卒業しました。そして学校の推せんもありその年に新設された広島女子高等師範学校に入学することとなりました。四月の入学が各都市の度重なる空襲の為、延び延びとなりましたので母を始め家族は相当心配し反対もしましたが、私は向学心に燃えて七月十九日の入学式に臨みました。当時の広島は夾竹桃の花が咲き川の多い美しい町があり緑のとても豊かな大都市でした。然し連日連夜の空襲のサイレンに脅やかされ勉強らしい勉強も出来ないうちにあの運命の八月六日を迎えたのでした。
その日は朝のうちに警戒警報があり、八時頃解除となりました。何時ものように八時三十分始業のため教室に入り第一時限修身を担当しておられる、校長先生の御来室を待っておりました。静かな一刻でした。コツコツと言う教室の扉に近づいて来た校長先生の靴音は今も私の耳に残っております。其の時です。腕時計は八時十五分を指していたと思います。一番右側の窓に近い列に坐っていた私の右前方の空で「ピカリ」と黄色い閃光が輝きました。「ハッ」として反射的に眼と耳を蔽って机の上にうつぶせました。と同時に何とも表現の出来ぬ様な恐ろしい大きな音と共に熱い熱い炎の様な風が襲いそれと同時に私は校舎もろとも無意識の世界に迷い込んでいました。けれども、ヂリヂリと私のお下げ髪を焦したあの音と匂いは今もはっきりと覚えております。
どの位時間がたったことでしょう。「お母さんお母さん」と無意識に呼んでいる自分の声、お友達の声に気づきました。早く此処から出なければならないと思いましたが体が何処にあるのか真暗でわからない上に体の上下左右全部校舎の頑丈な柱や板に囲まれ身動も出来ない有様でした。必死の思いでどうにか右足が動きそれにつれて体も少しづつ動き出して来ました。「しっかりしっかり」と自分自身を心の中で励ましつつあたり一面が黄色く見えるぼやけた中を、明るい所へ、明るい所へと出て行きました。「あっ誰々さんお元気だったの」と手を取りあって喜びあったその友達の手や足から流れ出る血の色を見て又危うく失神しそうになりました。土人の腰蓑の様になっているモンペをさいて止血してあげたり、又私自身もお友達から頭からひどく血が出ていると言われ、大急ぎでモンペをぬぎ細く細くチ切って頭に巻きつけました。そして先生が二、三人「早くこちらへ」と呼んで下さっている方へと集合して行きました。一人二人と集まって来る方の顔は皆一様に悲痛に蒼ざめ、負傷をしていない方は一人もありませんでした。
そのうち町の人々は、右に左に何やら叫びながら歩いたり走ったりする様になりました。其の痛ましい姿…男も女も全裸に近く両手をだらりと前に垂れ髪を振り乱し、はだしで狂った様に走って行く人もあれば茫然として夢遊病者の様に歩いて行く人もあります。地獄とはこんな有様を言うのでしょうか。「お願いします」と言う声に後をふり向くと頭がパックと割れ白い脳が見えるようになった老婆を抱く一人の青年が立って居り「弟が家の下敷になっているから助け出すまで母をお願いします。」と言うのです。私も友達も余りにもむごたらしい悲惨な姿に声も出ずうなずくだけでした。
そのうち二里余り離れた飛行場迄避難することになりましたが、あの青年は中々姿を現わしません。イライラしていると泥にまみれた虫の息となっている弟を抱いて息せき切って帰って来ました。「母さんしっかり」「母さんしっかり」と肩をゆすって叫び続けていた青年はそのあとどうなったのでしょうか。遠い道を走り途中突然降り出した黒い雨にうたれ、又メガホンを持った救護班の方から海水に入る様言われ、満潮になっていた海水につかり、其の間半裸になったり、手の皮のぶらさがった人々、大勢の避難者の方々と目指す飛行場に辿り着き衛生隊の兵隊さんの壕の中に入ると、私はそのままばったりと倒れてしまいました。
真夏というのにがたがたと全身を震わす様な寒さと、友の呼ぶ声に我にかえった時は、陽はすでにとっぷりと暮れて私は壕の中に寝かされていました。思わず胸に手を組み合わせようとした時の驚きと悲しみ、私は初めて自分の手の焼けていることに気がつきました。ふくれ上った指と指との間は団扇の様に隙間もなくなって曲げることも下に下げることも上に伸ばすことも出来ぬ激痛、既に点々と膿を持ち悪臭が鼻をつきます。
「水が欲しい」咽喉が焼ける様な思いです。
「寒い寒い」「水を水を」と叫ぶ負傷者のあわれな声、その中にあって私はこんなことでは、駄目だ、「意気地がない。頑張るのだ。負けてはならないのだ」とどれ程自分自身を励ましたことでしょう。この様な悪夢の様な一夜は明けました。その夜兵隊さんから君達は新型爆弾にやられたのだと聞かされました。
そして兵隊さんからは水は絶対にのむなと言われ其の代りに凍ったみかんを唇の上に置いてくれました。私はそのおかげで助かったのだと思います。水をのんだ人々は全員亡くなられました。治療しようにも消毒薬もくすりもなく、砂の上にむしろを敷いて全員寝かされ塩水で腐って行く手のうみをピンセットでこすってのけてそのあとヒマの油をぬるだけの治療でした。熱の為体は寒く食べることも手がつかえない為配給のおむすびも一口口に入ればいい、その上三日目から血尿血便が出て体力はなくなり気力だけが私を支えておりました。
又私達動けなくなった生徒の面倒を助かった寮母さんが看病して下さっておりましたが教室で私の席の前の方が生きうめとなって亡くなられたと知りました。その方は私と名前が同じ幸子という方でした。飛行場では毎日毎日何十人の方が亡くなられました。そして身元のわかった方から死体を焼くんです。板の上に人をのせ又板を乗せて油をかけて荼毘にするとゆうことを聞かされました。善通寺に早く帰りたいとどれ程思ったことでしょう。
九日の後八月十五日軍の命令で己斐の小学校に収容されるという朝、母がやっと迎えに来てくれました。変りはてた私を見て母は泣かず、私と兵隊さんはオイオイと声をあげて泣きました。後で聞いたところ、私の命は、もうあと数日とゆうところだったとか、兵隊さんは母に私を渡すことの出来た嬉しさと安心から泣いたのだとゆうこともわかりました。母は私を死なせてはならぬと一心から涙も出なかったと言うことをあとから聞いて深い親心に只々有難いと感謝しております。八月十五日の終戦の詔勅は己斐の小学校の校舎で母にきかされました。今の今迄勝つことのみを信じ教育されて来た私でしたから、生死をさまよっている者として、これからどの様にしていくか等考えることも出来ず、くやしさで涙するのみでした。
母は一日も早く郷里に連れて帰り充分な看病をしてやりたいと考えたのですが診療に当って下さっていた医師は今動かすと死んでしまうと言われたそうです。母はその夜から七日間の塩断と私の大好物の桃を断って、私の熱の下るのを祈りつづけ下さいました。不思議にも被爆してから十六日目にしてやっと四十度近くの熱が下り平熱となりました。歩くことの出来ない私を乗せる為に母は農家の方に頼んでリヤカーを借りそのリヤカーで広島駅迄私を乗せて押してくれる方も探して歩いて下さいました。
駅までの途中の広島の市内には無残にも焼けてしまった無蓋の電車が放置され、又川の中には真黒く焼けた死体が浮いていました。
尾道から今治までは連絡船に乗り多度津までは汽車に乗り換えその間大勢の善意の方々に見守られてやっと善通寺の我が家にたどり着きました。幸にも国立病院が近くにあり(当時は陸軍病院)私の病院通いが始まりました。医師は一に愛情、二に栄養、三に治療と言われ治療のほどこし様もない私の手を見て男泣きに泣きながら「なおしてやる、なおしてやる可愛想に」と言われました。そこで全身を診て下さり腕や背中にガラスの破片がささり、くさっているのを見つけて下さりその度に破片を抜いて下さいました。然し治療とは言えリバノール液の治療のみで、ガーゼを二十枚から三十枚を重ねて焼けただれた両手にのせるのですがその翌日迄にはドロドロになって、腕の下のカッパにうみがたまっている。道を通る人が私の家の前に来ると魚の腐敗したような匂いがすると言っていたとかをあとで聞きました。
母は私の顔と耳の焼けてひどいのを気づかい神戸から大金をはたいて火傷に効く、くすりを取り寄せ毎日毎日顔にぬってくれましたが、ある時そのくすりが目に入って失明するかもしれないとゆう事態もおきました。昔から漢方薬に使った「毒だみ草」は毒を消すといわれていますが、朝昼晩食前にどくだみの葉を十枚位小さなスリ鉢ですって、飲まされました。そのためでしょうか二ヶ月位たった頃全身から塩がふいた様に体中が白くざらざらになりその皮が落ちた時から体の皮膚が奇麗になりました。両手のドロドロした肉は三ヶ月経っても腐敗がつづきとうとう、骨迄腐ってにわとりの足の骨に油の黄色味がある様な状態になってしまい、医師は輸血しかないと判断して母と私が同じA型なので母から血をもらいました。取った血をそのまま私の静脈から輸血をすると血と血が交った時に体中にふるえがきて大人二人が私に馬乗りになって押えるとゆうこともありました。母からは、二度血をもらいました。輸血のおかげで焼けた肉に血がかよい始め十二月には自分の大腿部から皮をとって植皮手術を右手にし、やっと治療のめどがつき始め、その頃からスプーンをにぎることが出来る様になり食事も自分でひとさじひとさじ食べられる様になって来ました。しかしトイレでは自分の手で用を足すことが出来ませんでした。手が後に廻らず指がつかえなかったのです。四月頃になって両手の肉もついてくるし皮膚が大分きれいになって来ました。右手はひきつりがひどく特に手首のところはケロイドがかたく魚のアジの尾の部分の様になっていました。手首の上下前後に手が廻らない為もあって、昭和二十一年九月整形手術をしました。自分の左大腿部の肉厚さ一・五センチ横十三センチ従二十センチの肉を手首のところに乗せ約十日間手を動かさず、辛抱しました。しかし小指とくすり指は曲ったままの状態になりました。
若い時は皮膚も白く焼けたところは冬は紫色となりケロイドのところが痒くなる状態が大分永く続きました。向学心に燃えて入学した学校も生死をさまよっていた私に相談もすることなく両親は退学届けを出しておりました。私は音体科でしたので指の曲った手でピアノを弾くことが出来ず、又機械体操も出来ない状態でしたから已むを得ませんでしたが本当に今も無念とゆうより他ありません。
治療しながらでしたが町の青年活動に加わりそれが縁で昭和二十三年主人とめぐりあい、理解してもらって結婚することが出来ました。主人の勤務の関係で東京に約二十年間住みましたので其の間慶応病院、慈恵医大病院等に受診して、くすり指と小指の曲っているのを診断してもらい出来れば整形手術と思っていましたが腱の切れているところがどこかわからないから、又家庭の事が出来るのであればこのままがいいのではないかと言われ断念しました。長女を妊娠した時は奇形児が生まれるかもしれないと思うと夜も眠れず、主人も私も両親も本当に心配しつづけましたが幸にも未熟児でしたが健康な子供で生れて来てくれました。何が一番淋しかったかつらかったかと申しますと銭湯で自分の体を人前にさらすとゆうことでした。子連れで両手にひどいケロイドですからジロジロと穴のあく程見られることです。蛇口が一緒になった時も私からきたないものから逃げる様に遠ざかる人もありました。一言どうされましたのですかと聞いて下さればいいのにと思い又その一言で救われる思いがしたものです。
歳月は流れ四人の子供達に結婚適令期が近づくと子供達から「私達は世間さまでゆうお見合結婚は出来ない。何故なら被爆二世だから、ゆうまでもなく聞き合わせでおことわりよ。母さんのせいよ」と言われた時は口に出さないまでも顔で笑って聞き流し、心で泣くとゆう言葉がありますがまさにその通りでした。
私が被爆者の「語り部」をしたのはもう十年位前のことでした。次女が東京で小学校の教師をしており教科書に戦争のことが詩によって掲載されていましたが生徒達には戦争の理解が出来ないから上京して私の体験談を聞かせて欲しいとのことでした。上京し三年生から五年生迄約百人位の子供さん方に私の被爆体験を聞いて頂き子供達から澤山の感想を頂きました。其の中の一つですが、三年生のある女生徒は「げんばくと言うことは口ではかんたんに言えるけど、とてもこわくておそろしいものと思いました。先生のお母さんのお話を聞いてよかったです。せんそうはいやです、なんにもわるいことをしていない人が死んでしまいます。先生のお母さんのうでを見てよくわかりました」と書いていました。
又最近、近所に住んでいる三女の三才になる孫娘が「私が大人になってお医者さんになって、おばあちゃんの手きれいに治してあげるよ」と言いながら私のケロイドの手をさすってくれます。なんて可愛いいんだろう、この子達に私の様な体験を二度とさせてはならないとつくづく思います。私がこれ程の負傷をして助かったのも自宅が広島でなかったので十分な治療を受けることが出来たからと思います。又一心に愛情をそそいで看病して下さった両親多くの方々からの善意のたまものであったと感謝にたえません。今や世界には、ヒロシマや長崎に落した原爆の何倍もの威力を持った核兵器が何万発も貯蔵されています。被爆体験者の一人としてこれからの世界が平和でありますようそして二度とヒロシマ、長崎のような街をつくってはならないと心から祈らせて頂きます。
最後に昭和六十三年に次女が朝日新聞歌壇に入選した私のことを歌った短歌をご紹介して私の拙い被爆体験を終らせて頂きます。
おわり
「反戦をあえて唱えぬ母なれど母のケロイド反戦を語る」
平成六年十二月
【体験記中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま使用しています。】
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