原爆投下の当日、姉が学徒動員で出かけるので、母親は、早朝より弁当を作って送り出しました。そのあと、朝ごはんを食べようと、おぜんに向いましたが、一才の妹が泣くので、再びねむりにつきました。それから、どのくらいたったのか、突然「ピカッ」とフラッシュをたいたような光がして(目をつむっていても分かる様なせん光)、目をあけたとたん、ドカーンと大きな音と共に寝ていた畳がふわっと浮き上り、次いで上からおおいかぶさるように、柱や壁が倒れて身動き出来なくなりました。
しばらく無言のままでしたが、そばに寝ていた母が「孝雄ちゃん、台所のくど(かまどのこと)の火は大丈夫ね?」と聞きました。僕は、身動きが出来ないので、顔をねじって、かまどの方を見ました。「大丈夫、火は見えないよ」と言うと、母は静かな口調で「吉田へ帰っとったら、良かったね、手を伸ばしてごらん」と言って、手をにぎってくれました。会話は、それを最後にとだえました。
お母ちゃんと呼んでも、答えてくれませんので、不安になり、泣きながら、倒れた柱をのけようともがきましたが、動けませんでした。あとから聞いた話ですが、近所の人が、子供の泣き声がすると言うので、兵隊さんと一緒に掘りおこして、助け出してくれました。しかし、母は柱が倒れて、既に死んでいました。自分と妹は母の両側に寝ていたので、母のおかげで助かりましたが、妹は顔に大けがをしていたそうです。自分も頭に大けがをおっていましたが、掘り出して頂いて、トタン屋根の下のむしろの上に寝かされておりました。しばらくは目が見えておりましたが、ガスを吸った為か、次第に顔がはれあがり、見えなくなり、そのうち気を失ったようです。
母が、死ぬ前に「吉田に帰っとったら良かったね」と言うのは、母の里が、広島県高田郡吉田町にありましたからです。母の姉妹が多く、食べ物にも困る状態でしたので、そかいせずに広島に残っていたと、兵隊に行っていた父から、あとになって聞きました。
又、姉は中島町(原爆投下の中心地)で家屋の引き倒し作業中になくなりました(当時十四才)。死体は、いまだ見つかっていません。
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