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運命を胸に抱いて 
小嶋 和子(こじま かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(胎内被爆)  執筆年 2024年 
被爆場所  
被爆時職業 胎児 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
納得ができないまま使命や定めを背負うことほど、辛いことはない。

原爆詩人、栗原貞子(くりはらさだこ)の代表作「生ましめんかな」。自分がその赤子のモデルだということを、私は十代の半ばで初めて知った。誕生にまつわる悲惨なエピソードを幼い時分には知らせたくないと配慮した母が、私の成長を待って教えてくれたのだった。それから5年ほど経った1966(昭和41)年8月、新聞に「原爆詩“生ましめんかな” -広島の主人公母子わかる」と題した記事が掲載されると、テレビや週刊誌もこぞって取り上げ、以降、毎年8月の式典が近づく季節になると、頻繁に取材を受けるようになった。中学生になって初めて平和記念資料館へ行ったほど、原爆の知識も十分でない私は、「平和の使者」として祭り上げられることに当惑するしかなかった。
 
1945年8月6日、当時、我が家には、父・母と長女、三女、そして伯母(母の姉)の5人が暮らしていた。

1945年8月6日も、私の母、平野美貴子(ひらのみきこ)(当時36歳)は、自宅近くの広島貯金支局(以下、貯金局と記す)へ出勤する夫の富夫(とみお)(当時38歳)をいつものように送り出した。

高等女学校1年生の長女、玲子(れいこ)(当時12歳)は建物疎開へ、母の姉で、広島中央電話局の電話交換手をしていた佐藤冨士子(さとうふじこ)(当時39歳)も元気に出かけていった。

皆を見送った後、美貴子は2階の物干し場で洗濯物を干し、三女の美子(よしこ)(当時3歳)は隣の部屋で遊んでいた。実はこの日、美貴子は私の出産の予定日をむかえていた。

8時15分、1階の台所から煮豆がふきこぼれる匂いがしてきた。美子と一段落していた美貴子が急いで1階へ続く階段を駆け下りようとしたその瞬間、轟音と共に階段の真下に作ってあった防空壕へと突き落とされた。2階からの悲鳴でやっと我にかえり、駆け上がると美子が仰向けになって「目が見えないよう」と叫んでいた。

当時住んでいた東千田町(現広島市中区東千田町一丁目4辺り)は爆心から約1.7キロ。家の倒壊は免れることができたものの、部屋の窓ガラスは爆風で粉々に砕け、壁土が畳一面に積もっていた。幸い美子は目に壁土の埃が入っただけで無事で、二人で京橋川の西岸の土手へ逃げることができた。家はその後、急速に押し寄せてきた火事で焼け落ちた。

貯金局で重傷を負った父は、貯金局の緊急の場合の避難所として指定されていた御幸橋で陸軍のトラックに乗せられ、救護所となった似島へと船で連れて行かれた。

爆心地から500メートルしか離れていない場所で建物疎開の作業をしていた姉の玲子は、遺骨すら見つけ出すことができなかった。玲子が通っていた広島市立第一高等女学校(通称、市女)の1・2年生のほとんどは建物疎開に駆り出され、生徒666名全員が亡くなっていた。

川べりの土手にいると、ほどなくして美貴子の姉、佐藤冨士子が大やけどを負いながら這うようにして電話局から戻ってきた。冨士子の状態は、日赤病院の医者に「死ぬに決まっている患者に貴重な薬はやれない」と言われたほどだった。

川べりでふた晩野宿した後、美貴子の夫の部下が迎えに来てくれ、避難所となっていた貯金局の地下へ8月8日に移った。そこは30畳ほど畳が敷かれていて40人近くの負傷者が収容されていた。

夜も0時に近づいた頃、美貴子が産気づいた。すると部屋の奥にいた女性が「私は産婆です」と声をかけてくれた。自身も背中と腕に大やけどを負い、高熱で意識がなかったほど重傷だったその助産師が、力を振り絞って(私を)「生ましめんかな」と立ち上がった瞬間だった。

比較的元気だった女性たちが湯を沸かし、男性たちは焼け跡からなんとかタライを探し出してきた。ロウソクの灯りすらない暗闇の中、元気な産声と共に私は生まれた。

その時の状況を美貴子が短歌に残している。 

         点眼の薬さへなく 生湯なく
             みつむる吾の 胸うつろなり
 
        赤くはれし乳首求めて みどりごは
             あはれ泣けども 乳ひとしずく出ず
                                                                                                       歌集廣島編集委員会編『歌集 廣島』1954年

建物疎開中に亡くなった姉の玲子が、「もしこんどの赤ちゃんが女だったら、必ず和子と名付けてね」と口ぐせのように言っていたことから、私は「和子」と命名された。

てっきり亡くなったと皆が思っていた私の父は、1カ月ほどして無事帰宅してきた。私が生まれたことを知るや、焼け跡に出来ていた市役所の仮出張所に出生届を出したそうだ。

母の出産を助けた助産師の所在は父が探しても分からず仕舞いだったが、その後の週刊誌の取材で、三好(みよし)ウメヨ(当時39歳)さんであることが判明し、誌上での対面が実現した。被爆から22年経った1967年のことである。これを機に、新聞やテレビの取材が殺到するようになり、時には配慮に欠ける質問を受けたり、覚えのない発言を記事にされたりすることもあって、私はいつしか詩のモデルであることから目を背けるようになった。

栗原貞子の「生ましめんかな」では、“あかつきを待たず産婆は、血まみれのまま死んだ”とある。実は、伯母の冨士子が勤務先の電話局で、私が生まれた経緯を同僚に話したところ、その人が帰宅後にご近所の方に話しているところを、たまたま栗原貞子が聞きつけ、インスピレーションを得て作った詩なのだそうだ。事実と異なることもあって、「自分でありながら、それは自分ではない」。その感覚が常につきまとった。教科書にも掲載され、多くの外国語へも翻訳されたその偉大な詩の重さに耐えかね、私は栗原貞子の作品に目を通すこともしなくなった。
 
私は一度、体調を崩し入院している栗原を見舞ったことがある。その際、自分が大した平和活動も出来ていないと告げると、「あなたは元気で生きていることが、一番なのだから」と励まされた。

それから程なくして、原爆投下から60年の2005年、栗原貞子が亡くなった。「生ましめんかな」に込めた栗原の思いを尋ねることもしなかった自分だったが、長女の眞理子(まりこ)さんから聞く機会があり、その時から私の中で何かが変わった。

「死んだ産婆は“ヒロシマ”。被爆死した多くの人たちを表している。生まれた赤ちゃんは“(未来の)広島”なのだ。私たちは、この“広島”を育てて、世界中にもう再び“ヒロシマ”が起きることがないようにしなければならない」と栗原が生前語っていたことを眞理子さんから教えられ、彼女が純粋に平和への希望を表現していると感じ取ることができた。その瞬間、詩のモデルであることの重圧から解き放たれ、わだかまりも消えたような気がした。

三好ウメヨさんは1971年(享年65歳)、母の美貴子は1981年(享年72歳)、栗原貞子さんは2005年(享年92歳)に亡くなった。大切な三人の母親を亡くした今、私は、求められれば、栗原さんが詩に込めた平和の願いを多くの人に伝えていこうと思っている。彼女が言ったように「一度目はあやまちでも、二度目は裏切りだ」といった事態に世界が陥らないよう、自分なりに静かに、微力だとしても平和につながる活動を続けていきたいと思っている。運命を胸に抱きながら。
  

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