●被爆前の生活
父・勝人(かずと)と母・マツ子、長男である私と、年子の弟である久吉(ひさよし)、その下に洋子(ようこ)と睦枝(むつえ)という妹がいました。父や母の年は覚えていませんが、父は、もともとは米屋をやっていて、戦時下で配給制になったこともあり、被爆当時は、食糧営団に勤めていました。そのころは宇品に職場があったように思います。妹2人は、集団疎開で広島県双三郡(現在の三次市)に行っていたので、自宅には、父と母、私と弟の4人がいたことになります。
私は当時14歳、市立第一工業学校の2年生で、翠町に住んでいました。今で言うと、電車を県病院前で降りて、県病院側に進むと、大きいマンションや郵便局があり、その前の緑地帯の裏側に、実家がありました。実は、被爆する1週間前まで、今の市役所裏通りの国泰寺にいました。父が、翠町にいい場所があるからというので、そこに引っ越しました。もし、あのまま国泰寺にいたら原爆投下時に家にいるであろう母は死んでいたかもしれないので、それは鮮明に覚えています。
当時、学徒動員制度によって、私たちは学校で勉強することはほとんどなく、農繁期には農家に宿泊して稲刈りや麦刈りといった、食糧増産のために田畑を耕しに行っていました。また、軍から教官が来て、軍事訓練や軍人勅諭を覚えさせられたり、夜には、夜間行軍があって、一人でも脱落者がいると全体責任と称して、みんなが殴られたりしていました。中学校2年生からは、東洋工業(株)に動員されていました。1日の労働時間は詳しく覚えていませんが、食べるものがないながらも、当時はお弁当を持って行っていたと思います。工場では飛行機エンジンの内面を研磨するためと言われ、旋盤を使って作業していましたが、機械に腕があたってしまい、皮膚がシューっと飛んで右腕にけがをしました。パーンと火の粉が飛んだのを覚えています。このようなことを14歳の子どもがしていました。
あの当時、みんなが無我夢中で目標に向かって何かをする、という教育というか洗脳というか、そういう状態だったと思います。その目標が戦争だということは本当にだめですが、とにかく、全員が1つの目標を目指して努力する、という姿勢だけはよかったと思います。1人でも悪い人がいると、そこは全体責任ですから、みんなで責任を取る、そうしてみんなが一致団結して戦っていました。当時は、みんなが一生懸命、お国のために戦うのだ、と言う風潮だったと思います。
それと、少年航空兵というのがあって、ポスターに、飛行機と白いマフラーを巻いて乗り込んだ姿が書いてあり、それに憧れて、母に少年航空兵になりたいと言ったら、反対はしないまでも、もう少し待って行ってみたらどうか、というような内容のことを言うのです。特攻に行かせたくない親心が出たのでしょうか。7つボタンの海軍予科練習飛行生(海軍の少年航空兵)はどうかといったような感じの勧め方でした。お国のために戦うことが重要だとはわかっていつつも子どもを戦地に送りたくない、そんな母親の心情を子ども心に垣間見た思いがしました。
●8月6日
前日の5日に、仁保町向洋の山に工場を建てるから、そのためには鋼材や材木などの資源が必要だというので、建物疎開をしているところへ取りに行くよう指示がありました。
そして、6日当日は、まず広島駅に集まって、先生はいなかったので、時間になったら、電車通りを比治山方面へみんなで歩いて行きました。何人で集まって行ったのかも、定かではありません。そうやって歩いて、比治山のふもとの今でもある交番の前あたりで、被爆しました。まっ黄色い閃光とでもいえる光でした。当時は、空襲などにあったら、目と耳と鼻を自分の指で押さえるということを教育されていました。それをして、気がついたら、もともと歩道を歩いていたはずなのに、もといた歩道ではなくて、電車の軌道のほうにいました。
確か、あの当時、電車の比治山線が出来て間もなかったのか、まだ軌道に石は敷いておらず、その鉄道のそばのレール下に草が生えているのを見た時に、助かったな、いったい何が起こったのかな、ということを考えていました。私は、工業学校の電気科に通っていたので、電車関係の何かがショートして、こんなことになったのかな、なんて考えていました。当時は、原爆なんてわかりません。
時計も持っていませんから、時間がどれだけたったのかは定かではないけれど、時間がたってうんと明るくなったら、周りのみんながばたばた死んでいました。そして、ピューピューと何かが飛んでいましたので、おそらく瓦が爆風で飛んだのではないかと思います。死んでいる人の頭に穴が開いていました。
そして、比治山には確か防空壕が2つ、3つほどあったと思うのですが、その防空壕の中にけがをした友人を連れて行き、防空頭巾を枕にして寝かせ、私たちはその場を去りました。あとから、彼らのお母さんたちが、死体を引取りにきたとご挨拶がありました。
当時は、防空頭巾を持って歩くことが常です。その防空頭巾をかぶって、今までなら、飛行機を眺めることもありましたが、これ以後、怖くなってしまい飛行機を見ることもありませんでした。
比治山をもう少し上がり、今でも行けば場所がわかるところで、市内の方を見ていた母親と子どもの姿を忘れることが出来ません。お母さんは顔から全身にかけてやけどを負い、モンペも服もボロボロに焼けた姿で、子どもの手を引いて、市内をただ茫然と見続けていました。それから、比治山の松の木がポロポロ燃えているのを見て、なぜこの松が燃えているのだろうと思いました。生木の松が燃えるほど、何かひどいことが起こったのだと感じました。そして、比治山の一番上には、確か茶店があったと思うのですが、その茶店は既にぺしゃんこに崩れていました。そこで、助けてくれ、助けてくれ、というのを聞きましたが、自分たちも恐ろしいので、そこを通り過ぎて、今度は少し下がって見ると、広島市内を一望できる展望台がありました。
そこから市内を見たら、自宅のある翠町の方は、方向が違うので見えなかったのですが、もうすでに市内は火の海でした。自宅に帰れるのかどうか考えながら、比治山をずっと下っていくと、段原に出ました。段原でも倒れている家があって、助けてくれ、助けてくれって言うけれど、自分も逃げるのに必死で、それどころではありませんでした。
その時のことでよく覚えているのは、広島駅の構内近くに出た時だと思いますが、駅の操車場があって、ちょうど機関車が停まっていました。やけどには油が聞くと母から聞いていたので、服が汚れるかもしれないけれど、油を手に取ろうと、車輪に手を伸ばして、その油を自分の右側の顔半分と体のやけどに塗りました。それから、ぼうっとしていたのか、少し時間がたってから、芸備線の列車がきました。ただ、広島駅構内には入れないので、折り返しで運転していたのだと思います。乗りたい人は乗ってよいというので、どこに行くわけでもないけれど、その列車に乗りました。
広島県安佐郡深川村下深川(現在の広島市安佐北区)にある駅で、婦人会を掲げた方が、負傷した人は小学校で診てもらえるから手当てをしてもらいなさい、ということを言っているので、そこまで一緒に逃げていた友人ふたりと下深川駅で降りました。小学校の生け垣があったり、木が植えてあったりする場所に座って治療を待っていたら、自分たちよりもひどいやけどやけがをした兵隊さんたちが目の前を通るわけです。自分たちのけがはかなり軽い方だと思うような人たちがぞろぞろと来るのを見て、座って待っていても治療は受けられないし、お腹はすくし、どうしようかと3人で話をして、三々五々に分かれることになりました。
私は、本家が広島県安佐郡祇園町西原(現在の広島市安佐南区)にあったので、下深川から太田川を泳いだり、歩いたりしながら、なんとか西原の本家までたどり着きました。そこには、すでにたくさんの親戚の人が来ていて、もう入れないというので、本家から200~300メートル離れた分家に行きました。それが8月6日です。
●家族との再会
私一人が、西原の分家で世話になっていて、ほかにもその家には親戚が多くいました。みんなで話していると、市内のどこには誰がいて、別のところにはほかの誰がいる、となって、私も家族が市内にいるかもと思い、翌日の8月7日に、市内の様子を見に行こうかと思ったのですが、行ったら帰れないかもしれない、と言う話もあって、恐ろしくなり、市内に行くのをやめました。ただ、おじたちは、市内の様子を見に出かけました。
その頃、翠町の自宅にいた私の父は、原爆投下後、私が自宅に帰らないので捜しに行かねばという状況だったようです。そんなときに、様子を見に出かけたおじたちと私の父が、偶然市内で出会い、私が西原にいるということが伝わり、父と母と弟が私のいる分家にやってきました。
私の年子の弟は、当時、比治山下にあった県立広島商業学校に通っていて、学校の水飲み場にいたそうです。そこでほかの生徒がキャッチボールをしているところを見ていたところ、被爆したそうです。帽子をかぶっていた弟は、帽子をかぶっていないところから背中全体、そして半そでだったために両腕をやけどしていて、その部分がケロイドになり、ウジがわきました。父は、弟のそのやけどの手当てをするのに、確か、炭酸水を消毒液の代わりに使ったと思います。炭酸水が傷にしみるため弟がとても痛がっていたことをよく覚えています。
8月15日の玉音放送は、西原の分家で聞いたのだと思います。それから9月はじめ頃まで、西原でお世話になって、あまり長居をしてもいけないということで、翠町の自宅に帰ったのが9月半ばごろでした。翠町に戻ってきた同じころに、学童疎開で郊外にいた妹二人が帰ってきました。二人には、全身シラミがたくさんいて、母がすぐ風呂を沸かして、着ているものからすべて熱湯消毒していたことも覚えています。
翠町の自宅は、現在の翠町中学校にほど近いところにあったのですが、あの当時もまだ死体を校庭で焼却していました。また、近くの土手でも夕方、死体が運ばれてきて、油をかけて焼いていました。その両方から、何ともいえない死体を焼くにおいが夕食の時間に漂ってきたことを覚えています。
●戦後の生活
被爆したことで父や母、そして弟が一番、やけどの被害が大きかったかもしれませんが、自分は特に影響があるとも思っておらず、とにかく毎日、前を向いて、懸命に生きるという日々でした。
戦後は、広島工業高等学校に入学しました。戦時中に通った市立工業でもそうでしたが、電気科で勉強していました。工業系が得意だったわけではないのですが、戦争中は、工業系の学科が役に立つかもしれないというので、行っていました。そして、戦後は、大学に行くために高校へ通いました。
高校在学中は、サッカーも頑張っていました。そして、夜は、イエズス会がやっている音楽学校(現在のエリザベト音楽大学)に行き、ピアノを習っていました。昔からピアノをやっていたわけではないのですが、御縁があって習うことになり、先生のレッスンが1週間に1回、その度に曲を1曲仕上げていかなければいけないので、1日が24時間では足りないほどでした。とにかく、なんでも一生懸命やりました。
その後、武蔵野音楽大学に入るために上京しましたが、肺の病気をして、一度広島に戻り、約半年間の入院生活を送りました。その時、右側の肺の機能が著しく落ちてしまって、いわゆる癒着してしまったことで、今でも右の肩が下がっているのが分かりますよね。当時は、音楽と生きていくと思っていたところに大病を患い、精神的にも動揺して死も考えました。そんな時に、坂口安吾の「堕落論」を読み、彼が東洋大学の哲学科を卒業していたことを知り、東洋大学に進学したいと思いました。そして、病気が治ったとき、また東京に行ってみたいという希望を母に伝えて、3つの条件のもとに上京しました。まず1つ目は、長男なのだから結婚相手は母が認める人でないとだめだということ、2つ目が学生運動に加担しないこと、そして3つ目は、山登りをしないこと。3つ目に関しては、私は肺病をしているので、登れるわけがないでしょう。そして、東洋大学に入り直しました。東京では、肺の病の後遺症もあって、駅の階段を一気に駆け上がることが出来ず、一度階段の途中で休憩してから、ホームまで上がる、という状態でした。
大学卒業後は、日本水産に就職して、捕鯨船のクジラの解体場がある宮城県石巻市にいました。大学に行き、就職してからは、特に家や家族のことを考えることもなく、生活していました。確か30歳になったころだと思いますが、父から手紙がきました。封書で、広島に戻ってこいという内容の手紙でしたが、その文字がにじんでいました。それを見て、広島に帰ろうと決め、それからずっと広島にいます。私が長男だから、と言う世間体もあったのでしょう。そして、30歳で結婚しました。
●これからを生きる人に
ウクライナとロシアの戦争における、核兵器使用についての報道を見ましたが、核兵器を使うぞなんて脅しは、非常に子どもっぽい考え方だと思っています。
ご存知だと思いますが、平和公園内には学徒動員の碑(動員学徒慰霊碑)があり、私は、この碑に毎日お参りしますが、この碑を前にすると、戦時中の犠牲のことを必ず思い出します。こうした方々の犠牲の上に、現在の平和な生活があることを改めて感じます。公園内にはいろいろな碑があるので、そこを訪れて、今の平和が当たり前でないことに思いを馳せてもらいたいです。
戦時中の犠牲には、本当に数多くの一般市民、それも学生や女性、お年寄りなどが巻き込まれることを知ってもらいたいです。
この体験記を読んでくれた人、一人一人が、平和とは何か、そのために何をすべきかということを考えてくれたらうれしいなと思います。国籍にとらわれず、グローバルな感覚を持って、各国の人が、共通の認識を持って、世界の状況を考えることが必要なのではないでしょうか。
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