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一被爆者の独り言 
古市 敏則(ふるいち としのり) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1987年 
被爆場所 広島地方気象台 広島市江波町[現:広島市中区江波南一丁目] 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島地方気象台 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 皆さんは、自分の人生のなかで、ある一日の事だけが、頭から消えないという体験があるでしょうか。大小を問わなければ幼ない時の思い出からはじまり、切々に記憶しているものはあるでしょう。しかし、ある日の一日中の事を思い出すことは少ないでしょう。

66才の私には、昭和20年8月6日の一日は、心のなかに刻みこまれたようになってしまっています。

毎年、夏になると体の調子が何となく不調になり、皮膚に、特に背中に斑点が出たりします。体がおぼえていて被爆月日近くになると、「お前さんは、昔、被爆して、死にかけたんだぞ、油断をしていると昔の二の舞になるぞ」といっているように思えてならない。

昭和20年8月は、米子から広島へ転勤して1年半たった頃、本土決戦が叫ばれていた時で、気象台の職員だった私などは、毎日作成する天気図から、フィリッピンから気象データーが入らなくなったり、連日のB29の都市爆撃で、日本本土決戦しか残されていない。本土決戦やむなし、どうせ召集されれば、戦地へ行って、戦死する人生しかない自分だ。気象要員として、召集を免除されている身なら広島で、死ぬのもいゝではないか、どうせ死ぬならどこでも同じではないかと覚悟だけは早くから出来ていたつもりだった。

気象観測は1分、1秒といえども観測者は気象について注意していて、器械で測定できない現象を観察、記録するように、自分も努め、訓練もしている。このため、メモなどをつける事が習性になっていて、今でもメモ帳に、テレビからの放送内容をメモしたり、難かしいものや絵でないと表現できないことをビデオに録画したりしている。日常で、ビデオテープを買うのが唯一の支出項目といえる。

昭和20年8月6日、当時の出勤時間は8時00分だったので、私も下宿していたアパートを出て、江波山頂への狭く急な裏道を登って、山頂の庁舎に入り、今日からはじまる、広島担当の気象職員になる専修生数名に初めて会い、講義に使う「天気図と天気予報」という大谷東平氏の本を指し、「今日から私、古市敏則が講義を担当する」とあいさつし、「しかし、今朝は、同僚で日赤の病院に入院していて、昨日退院した藤津君が静養のため、故郷青海に帰えるので、今から日赤本社へ行って、米穀通帳をもらってくるので、自習していてほしい」といったとき、ピかっと光った。それが8時15分だったのだ。

異常発光現象だ、確かめなければと思い、窓(北側)に近づきかけたとたん、スローモーションの映像のようにバラバラになったガラスがフワーと自分めがけて飛び近づいてくる――自分の目、耳を両手でカバーしながら、「皆伏せろ、伏せろ」と叫びながらカバーと床に伏せた。

何と表現していいかわからない複雑な音、振動の時間がどれだけ続いたか、今でもわからない。周りが静かになって起きようとしたが、右足が動かない。一瞬、やられたかと思った。よく見ると専修生の一人が、右足にガッチリとしがみついているではないか、「もう安心だ、足を離せ、足をはなせ」といって、やっと自由になった。起き上がって、皆大丈夫なのか確かめて、部屋から出た。前の図書室で、何かさわがしい声がしている。のぞいて見ると職員か誰かか、図書戸棚のガラスの破損したガラス片で負傷している。無傷の人がついているので、急いで階下におりた。廊下は服、ぼうし掛けのついたてが、薬品やインキなど瓶類を入れていた戸棚が倒れていて、私の戦斗帽も赤インキ青インキが飛びかかっていたのがチラッと目に入った。薬品の中にはクロロホルムもあったはずだと一瞬、頭をかすめる。よく映画などで人をさらうときに、気絶させる為に、悪人達が使う薬だがとも思った。

それより何より、観測用の百葉箱2個は大丈夫だろうか。あれが破損していたら大変だ、長く続けてきた観測が途切れる。庁舎を飛び出て、露場を見た。大丈夫らしい、建物の陰になっていたのか、補強の張金が効をそうしたのかと思い、やれやれ一安心。しかし、露場の青芝が点々とこげている。北から南へすじ状に多数の平行線を引いたようになってこげている。

これは、坂道の途中の木の葉にも、半分焼けこげたようになって残りの青い色と妙にコントラストのきいた絵のような葉をみたのと同じ現象である。

今度の爆撃は妙なことばかりだ。庁舎から見た広島市内は砂けむりのような幕がたれ下がっていて、全然見えない。近くの建物は一見何でもないように、屋根の中央部の瓦が浮き上っている。庁舎の北西側の合宿用の官舎は、直撃弾を受けたように、むざんな姿になっている。

初めて死んだ人を見たのは、負傷した本科生(気象技術官養成所:今の気象大学の前身)の実習生の一人を、同僚と一緒に江波分院(日赤の)にはこび入れ、軍医の診察、治療を受けるべく長い順番待ちでならんでいた時であった。少しなゝめ前の所に自転車用のリヤーカー(荷を積んで自転車の後につける2輪車)に、ほとんど全裸に近い女性でした。横に、これも全裸に近いフンドシ一本に日本刀を腰にぶちこんだ男性の妻らしい。女性の裸など見たことのない私達は、見るともなしにチラッチラッと見ていたが、どうも妙に変んな姿で、少しも動かずジッとしているのに、どうしたんだろう、あんな姿勢ではさぞ苦しいだろうにと思ったりしていた。突然、例の男が、「死んでしまったのだよ、入った時は生きていたんだが」とボサッとつぶやいてくれた。「私は警官で、帯刀を許されているので、こうして身一つで逃げてきた」ともいった。

警官といえば、気象台に常駐している隣りの高射砲部隊の連絡兵の一人も上等兵だが「警官だったのですよ」と、二枚目の顔で話してくれたのを思い出した。

しばらく待っていたが進みそうもないので近くにある自分の下宿先のアパートの様子をみたいと思い、同僚にことわって江波分院の門を出た。門の北へ向っている道には、被爆者の長い長い列が出来ていて、どの人もどの人も、まるで、泥やゴミの中で着ているものが切れ切れになるまでころげ廻り、あばれ廻ったあとのようになっている。昔の乞食でももっともっとまともな姿をしていたのにと思えた程である。

あるく姿はいわゆる「ゆうれい」そっくり。魂が抜けていて、足は地につかず、両手は手首からダラリと下げて、そろりそろりと音もなく、フワリフワリとあるいている感じ。自分は一体どうなったのか、何をしようとしているのか、周りにいる人にも気付かない風で何とはなしに、分院の正門に向って、黙々と進むだけ。

私は少しもこわいとも恐ろしいとも思わなかった。一体何が起って、こんなひどい事になったのだろうかという事ばかり考えていた。アパートの2階の自分の部屋をみて、無茶苦茶にはなっているがこれくらいなら恩の字だと思って、気象台に帰えりかけた。分院の門からは、早や死体を急造のタンカにのせて前後2人の男性に、どこへはこばれるのか、次々と門から出てくる所であった。昼すぎになっていた。急いで気象台に帰えり、広島気象台の明治時代からの気象原簿を整理にかかった。気象原簿は永久保存でどんな事があって、消失してはいけない大切な原本で、何冊かを木箱に入れ、十数箱あったように思っているが、はっきり今はおぼえていない。横穴式の防空壕の奥に保管しなおし、二次の空襲にそなえた。

まだ造船所は健在にみえたし、宇品港の暁部隊にもひどい被害はないはず、必ず、今度は一機でなく、夜間多数機で再空襲があると思い、6日の夜は原簿のある防空壕で仮眠することにした。

夕食は、女子職員が江波在住なので、幸にも、おにぎりなどのたき出しをしてくれて、大助かりだった。

夕方になって、露場附近に、死人を焼く煙が登ってきて特有の匂が立ち込めるようになった。江波の海岸で例の分院から出した死体を火葬しているのだなーと思った。

私には、その匂には思い出があった。一つは子供の時、小使いかせぎに…家が貧乏だったので親からの小使などは殆んどもらえず、正月とお盆のときに少しもらっていたくらいで、日常はなし……お葬式の行列の手伝に、楠上の火葬場までともをしていって場内に入ったことがあり、特有の匂があることをはじめて知ったこと。もう一つは、庁舎が分厚いコンクリートで出来ていて季節によっては壁がビッショリと汗をかいたり、冬は腹の底まで冷えるほどの寒さになるので、同僚と、ストーブにくえる木を採ってこようと思い、江波山の山腹にあった古い廃屋(あとで焼場だったとわかったが)から、木や板を取ってきてストーブに入れた。火がつくまで何ともなかったが、火がつくと同時に、特有の匂が部屋中に立ち込めた。びっくりもいい所で、二人で大急ぎで火を消し、寒さの中、全部の窓をあけて、匂を消すのに大変だったことである。

思い出した事を一つ一つかいていくと何枚紙があっても足らないくらい、8月6日の被爆の日の事に関連して、その前の人生、その後の人生がすべて結びついてきて、何が私の人生の原点というか重心というべきか、すべての物事が8月6日に集中される人生になってしまっている感が強い。

それにしても大昔の人間のように、直接自分の体で相手と生死をたゝかわせた時代は、お互に心に感じ、ふれることが多かったと思う。次第に文明が進み、槍、弓矢、鉄砲、機関銃、大砲と近代化して相軍との距離がはなれていて殺傷できるようになるにつれ人間の人の生死への関心がうすれ罪悪感も消え、ついには不感症になってしまって、その極である原爆で広島長崎の非戦斗員である一般日本人を殺傷してしまった。

核は火薬と同じく、人類の幸にも不幸にもする両刃の釼の役をしている。使う人間の心次第で人間を助けもするし、殺ろしもする。

原爆は恐ろしいもので広島をみろ、長崎をみろ、そして被爆者の話を聞けと世間はよくいう。

自分が安全圏にいて、被爆者の体験を聞いても、唯単に「こわい」「おそろしい」「かわいそう」というだけで、あわれみはあっても苦しみはない。当然ではあるが、何か悲惨な劇か物語りになってしまい勝ちである。無理はない、被爆者以外の人には、安全圏にいる見物の立場の方々ですから。

その点被爆者は、永久に安全圏、見物席には心が入れないこまった人間になってしまっている。

核も道具、今のまゝの知識、智恵と心がアンバランスな人類では、核を全廃しても、次の道具を必ず、作るように思う。智恵と心とがバランスのとれた、すばらしい人間に成長しない以上、人類に平和はおとずれない。

人間の心が、すべての極め手になっている人類、いかにして、このバランスを達成し、保つかが21世紀の人類の課題でしょう。

これが、42年目の一被爆者の感想でした。
 
※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
  

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