私は、陸軍船舶特別幹部候補生として志願して江田島幸ノ浦基地で㋹攻撃隊として訓練をして居り8月5日夜間攻撃訓練より基地に戻り朝食の最中に激しい光線と爆風でバラックの兵舎がグラグラとなり同時に非常召集が掛り兵舎外に出る折、あのキノコ雲が目の前にあった。何が起ったか判らないが直に「宇品迄急行せよ」との命令で一人乗り舟艇に4、5名乗船、宇品に上陸。目の前に―般の民間の人々が「兵隊さん助けて」の声であのヤケただれた手、足を見て、驚きで一瞬何がどうした事かと一応の救急をしたが次から次へと助けを求められ、手の付け様がなく、何如にすべきかと考へたが亦命令で広島の火の海の街を現在の原爆ドームの基までかけ足で集合すると同時に一般の方々の救助命令が下りて、川に浮んだ人々を広場まで揚げ廃材を拾い集めて井枠にして、胸の名前を書いた布を一人づつ命令下紙に控え火葬の準備ほう助、死体収集を休む暇も無く続け、食事する事も出来ず2日目は死体を火葬しなければならないので準備に追はれ、収容した人数も数え切れず広いグランドで戦時中でもあり朝から日暮迄に処理する様に云はれ夜間は死かばねの不寝番で今想えば良く体が続いたと想います。
毎日毎日同じ事を約十日間続き一応の作業を終えて、似島へ健康診断で2、3日滞在し現地部隊へ帰った。
あの爆弾は何かと当時話し合ったが判らず、終戦后、原子爆弾と聞かされ20~30年間は草も生えないと教へられ驚くばかりであった。
9月復員して暫くすると体全身に「しっしん」が出来、町の医者では判らず阪大病院で診療して貰ったが判らない為一週間毎に薬が変わり何時の間にか治った。しかし、現在もヒフが弱く、はり薬等に負けたり切り傷で治りにくい等々があり50年たった今でも不安な日々を送って居るのが現況である。 |