昭和20年8月6日午前8時15分頃、広島に投下された爆弾が原爆であった事が判明する迄我々は「ピカードン」と呼んでいた。世界で唯一日本が被害国となった。その一人として何時迄も語り続ける事が大切であると感じ、60数年前の事を想い起こして身体の続く限り一般の方々に知ってもらう事が任務というか、天命かと思う様になった。
戦後、復員復学し同僚達に話す事ぐらいで、細々と語っておりましたが、私は一軍人として救助に約一週間野営をして過し、被害の大きさを知る一人として、何としても世界平和の為に語り部になり喋る事を決意した。其の一端として堺の某高校へ語り部に行く事になり、息子達に話しをしたら「親父の時代と異なり、現在の高校、中学生はその様な話を聞くかなあ」と言われた。教員である息子2人の言葉だけに本当に聞いてもらえるのか一抹の不安を以て語り部に参加しました。
「兵隊さん助けて」の一声より話し初めて約一時間、生徒達は誰一人として質問を受ける迄、横見する者もなし。4、5人の女子生徒が涙を流しながら聞いてくれていた。アッと言う間に受持った時間が過ぎ、担任の先生に質問を受ける時間の延長許可を貰うくらいだった。有難うとの感謝の礼書を数十人から頂き、先生方からは「この様な落着いた授業をして見たい」と言われた。その後、他の方の語り部を聞いて、思い直しました。今後は何を差し置いても、依頼があれば喜んで参加すべきと考え、友人に依頼された兵庫県の女子大学の希望者数十人に語った処、話しが広がって三回位語り部を続けて、「良かった」と言われた事が何ともいえず数十回以上足を運びました。
私は昭和四年生まれで旧制中学二年生の折、学徒動員令が発令され軍需工場に。亦、学徒兵として軍隊にと次々に。当時は徴兵制度であり先生方も軍隊へと進めて居られ、陸軍幼年学校を始め、少年兵、海軍予科練習生(乙、甲、種あり)陸軍特別幹部候補生等々あり、予科練習生として入隊したが身体に一寸した個処があり、整備兵とされ除隊し、陸軍特別幹部候補生受験に合格。直ちに香川県小豆島土庄町の船舶兵教習所に入隊。3ヶ月教育を受け種々の試験を受け、㋹要員として広島呉江田島幸浦の㋹攻撃隊特別訓練所で同年兵数10人と共に教育を受けた。㋹とは正式名称を四式肉薄攻撃艇という。
陸軍で唯一の量産特攻艇で、比島決戦以後使用されていた。自動車エンジンを用い、速力20ノット以上、120キロ爆雷を両舷に各一個持った特攻艇であった。
卒業前に沖縄が米軍に占領され、内地の空襲が毎日の如くあり、米国太平洋艦隊攻撃隊員として特別訓練が毎夜々、夜間訓練で八月六日は基地に帰る折、空襲警報が発令され数十分で解除されたが、その折、B29が西部方面に一機飛んで行くのを確認し上陸した。落下傘がヒラヒラ降りてくるのを見て、まさか原爆が落下傘でとは思わず、兵舎に入り朝食を食う瞬間、稲妻の如き光があり、熱さは経験した事のない熱さ。飛び上がった瞬間、あの「ドカン」と爆音でガラスは破れるし、出入口のドアは飛び散るし、何が何だか判らず表に出ると、御承知のキノコ雲が「もくもく」と空一杯にあった。何事か判らず「直ちに軍装して宇品基地に集合の命令。直ぐ㋹一人乗りであるが爆雷を上げ四人程度乗り込んで直行した。約25〜27ノットの速力があり、舟艇の一角を摑まえ無ければ海中に落とされる位、舟艇が立ち上がる為、20分位で宇品桟橋上陸、と同時に女子中学風の生徒が「兵隊さん助けて」と泣いており、白い半そでから両手の腕の薄皮が指先に垂れ下がっており、肩、首等は赤茶色で痛々しい限りで、如何にすべきかと考えている折、上官が「衛生兵が後から来る。直ちに現在のドーム迄早駈け」の命令で約20キロ程度の荷物、銃と共に軍服迄汗だく。到着と同時に作業服に着替え、大田川に浮かんでいる死体、数えきれない位浮き並んでいた。一人一人を背に上陸。水を呑んでいる為重かった事は今でも忘れる事は出来ない。
2日位は死体収容と共に、焼け残ったり壊れたりした民家の柱等々を井桁に組んで火葬する事が任務であり、3日目位は地上の死体を収容。3日目になれば異臭で何ともいえず、命令とあらば断る事は出来ず唯、佛様の方々を焼却する。食事は当番制で、持参の米を飯盒で炊いても一般の人々が立寄って来るので皆さんで分け合って食う様に渡し、自分達は倒れた民家から食糧品を探して拾い喰うのが精一杯、当時、車も無い頃に呉市国防婦人会の欅掛けの数人より「ニギリめし」の差入れがあり、衛生上云々は別とばかり、手掴みで口に入れたうまさを今でも忘れず、にぎりが好物になった一種でもある。
道路の市電は横倒しのままで乗客の方々を一人ずつ表に出し、焼死している方々もあり、中でも御婦人が身持であったのか出産されており、まだ臍の尾が繋がったままであり、二人一緒に火葬し、別に上官に渡した折は胸が一杯で涙が流れた事を想い出す。亦軍需工場の土塀で空襲解除で防空壕より出て一列に並んでおった折、爆風で土塀が倒れて数十人が頭だけ出して下敷になり兵隊さん水をくれという事で呑ますと、数分で死んでしまうという状態であった。時間が早ければ多少の方は助かった可能性がと思った事もあり、塀を割って引出したが胸より下は殆ど潰されておった。
心の痛む思いが毎日で、我等は一日も早く沖縄攻撃に参加して此の皆様方の仇をと同僚と語り合った時もあり、自分の兄はフィリピンで戦死、ガダルカナルで義兄が戦死しており、何としてもと思った時でもあった。
米国から投下された一発で一瞬にして水槽や川、池と、水の有る箇所で多数の犠牲者が出た。屍をみる度に腹立たしく思うばかり。亦中年の奥様が子供を抱え「兵隊さん子供を一緒に連れて帰りたいが」と尋ねられ、見た処すでに他界しており「列車には死体は載せません、何処迄」と聞いた折、奈良迄と言われ、小生も奈良出身であり上官に話した処、火葬して持ち帰らせと許可を受け、トタン板で十分位で火葬し梅干し壷を拾って来て持ち帰らせたが、復員後親父より、実は広島でお世話になりました。と御礼に来られたと聞いて、小生は沖縄に行く体で自分も奈良ですと言ったが、住所も何も言って無かったが、県庁市役所等々で問い合わせて来たとの事で、何処でも困っている人の身になって、親切にする事の大切さを知った一言でもあったと思う。
亦、野井戸に落込んだ死体を引き上げるよう、命を受け、機械も無くロープ一本で引上げる難しさも知った。陸上で2、3人にロープを引上げて貰う事にして、井戸に入ったところ、2、3人重成って井戸で死んでおり、死体にロープを結ぶ苦しさを想い知らされた事は今でも忘れる事が出来ず、夢を見る事もある。
亦、広島刑務所より応援に来たが、仕事にならず腹立たしくなって銃で叩いた事もあった。上官に叱られたのは自分であったが、銃を使用した為で忘れない一貢であった。この様な悲惨な原爆は二度と起こさない、起こさせない活動が大事であると思う。
亦、戦後昭和36年位から平成10年位迄、小さな個人店を開いておった。来客に米国より来た英語の高校教師がいた。そのデーブと呼んだ青年が、親父が広島の原爆に関係があり、如何に「極秘」であっても知らぬでは通らないと自責の念を持っていると聞いて、一度来日をする様種々話し、その機会を得る事が出来た。話して判った事は、本人も原爆とは知らず日本上空で晴れた日にボタンを押せとだけ言われたとのこと、終戦後事情を知ったとの事で重量7トン弱の爆弾で、落下傘で落とす事で空中時間を稼いでおったとの事であり、直下すれば与える被害範囲が限定されるとの事であった。
そして、ここまで種々書き述べたが、自分で考え乍ら亦被害状況を見て黒の被服等々、頭髪にしても殆ど焼けており、麦ワラ帽子の黒いアクセサリーが焼けて、麦ワラだけ残っているのも見て不思議に思っておった。現在北朝鮮、中国、ロシア、印度と近くの国々が所持しておるとの事で、特に北朝鮮は何を起すか判らない国であり、如何にファッションの世の中でも夏の暑い日に黒の日傘、黒の衣服で世間をカッポしている若い女性を良く見るが、それこそ一瞬にして黒コゲで殺されると思う。白い三角布亦は白いタオル一枚を持ち歩く事が自己防衛に成ると思う。
ここまで種々書いたが書き述べる事の出来ない事情も多々経験した。上官の命の兵として八十数年を数える年令で話しても判って貰えない事も多いので、一応理解して欲しい。まずは参考にしてください。
出典 堺原爆被害者の会(堺広長会)編 『つたえる 未来を生きる子どもたちへ1945 ヒロシマ・ナガサキ 被爆の証言』 2011年 pp.24~27
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