国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
『就職より軍隊勤務を経て終戦まで』(被爆体験記部分を抜粋) 
藤井 努(ふじい つとむ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1986年 
被爆場所 広島市仁保町金輪島[現:広島市南区宇品町] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 陸軍 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

原爆投下前運命の30分
日本帝国を敗戦降伏に追いやった運命の日の八月六日の朝が何の予告もなく焼け付くような真夏の雲一つない青空の下にやってきた。 営外居住下士官だった自分は平常通り打越の自宅を七時三十分に自転車で出た。 虫の知らせというのはこんな不可思議な運命の巡り合わせを云うものであろうか。金輪島の中隊本部の出勤入門時間は八時三十分なのでいつも七時四十分に家を出れば十分間に合うのだったが、この日に限り焦って十分早く家を出た。従って八時十五分原爆(リトルボーイ1号弾)が投下された相生橋のたもとにあった商工会議所と商工品陳列館(原爆ドーム)の前の道路を通過したのは七時四十分頃だったと思う。もし家に何かの用事があり三十分遅れて自宅を出発していたらこの場所で原爆の犠牲者となり一瞬にして吹き飛んで一塊の肉片となっていただろう。この日は十分に家を早く出たお陰で宇品には八時に到着し早速八時発の金輪島行きの軍の連絡船に乗り八時十分に本部に到着した。

原子爆弾炸裂の瞬間
何時ものように机に腰掛けて今日の事務の準備をしていたところ突然海に面した窓の硝子に一瞬青白い溶接作業の時に出るような閃光が走りピカーと光ったと思ったら次に耳を劈くような爆発音がドーンと来たと思った瞬間、硝子は粉々に飛び散り机の上の書類外紙類その他軽いものは天井まで舞い上がり、我が身は三米あまり吹き飛ばされて何が何だか判らないまま暫く床に伏せたたままでいると傍で山本准将の声で『敵機の投下した特殊爆弾らしい各自持ち場について被害状況を報告せよ』と、その声に我に返って急ぎ自分の机に帰り散乱した書類をかき集めた。幸いに一番大事な陣中日誌は厚い表紙に綴り込まれてあり無事だった。三十分位で事務所内は大方片付いたので窓から戸外を見ても広島方向は見えないので山本准将に報告すると共に許可を得て防空壕のある裏山に事務所から架けられた木製階段を駆け上がった。最初の間は爆撃の後に敵機の機銃掃射があるかもしれないと同僚と三人で這うようにして裏山に上がってみると上空には敵機も友軍機も全然見えず、遙か広島の街の方向を見渡すと、何と天空全体が真っ黒な大きな雲で覆われておりまるで夕方のように薄暗くその中に天空に大きな茸型をした真っ黒な雲が後から後からモクモクと沸き上がりその茸雲の頭の部分が広島の街を包む様に空いっぱいに拡がっている異様な状景が目に飛び込んできた。

斥候隊出動と被爆者の救助
この日に限り宇品の野戦船舶本廠への命令受領には小野少将が行かれた。 原子爆弾が敵機から投下されてから二時間余りしか経過していなかったので本部の発表でも特殊爆弾としか指摘されなかった。広島の軍の施設、人員に対する被害及び民間の住宅、人命の被害の直接調査と船舶本部医療班の救護活動のための派遣準備をすることが緊急発令された。小野少将が帰隊されると同時に十二時過ぎから本部中隊長以下の各将校が隊長執務室に集合し対策戦略会議が開かれた。やがて四時頃まで続いた対策会議がやっと終わり小野少将が憔悴しきった顔で事務室に帰られる否や『 藤井軍曹!! 君は兵六名を連れ、下士官斥候として近藤少将の令嬢の安否を確かめることを目的とし直ちに携帯医療品を持ち水筒、雑のう乾パン三食分との軽装で出発せよ、帰隊はその時の状況に応じ、軍曹の判断に任せる』

準備して出発には午後六時頃と夏の日は夕方になった。広島の町は真っ黒な茸雲と未だ燃え盛っている炎が天空を焦がしていた。六時過ぎなのに宇品から市電の線路伝いに比治山下に到着した頃は太陽の光はなく暗闇に不気味な人や動物の唸り声がし、熱風と火の粉が我らの顔に降り注いできた。 自分は咄嗟に今から突入する市内の灼熱地獄を予測し全員に京橋川に飛び込ませ全身をズブ濡れにしてから少将の令嬢の通学されていた縮景園の傍に位置する広島女学院(ミッション) に向け前進した。宇品を出発した頃から早くも安全な所へと逃げてきた火傷の人々を見たが 、的場町から中国新聞社の社屋と福屋百貨店の高いビルを目標に歩き出した時、そこには全身火傷で男女の性別も判らない黒焦げになった死体が累々として横たわっており足の踏み場もない程で電柱が倒れ電線が垂れ下がり木造家屋の焼け落ちた残骸が道路いっぱいに散乱した状態で未だ 燃え続けている場所も点々とあった。ふと見ると新聞社の前の軌道上には焼け焦げた市電が一台何人かの焼死者を乗せたまま止まっていた。そして電車軌道上には逃げ遅れた人々が木炭の様に真っ黒に焼け焦げ折り重なって死んでいるのが目に入った。流川町の交差点を縮景園方向に左折しようとしたら道路脇の大きな防火用水槽に頭から顔を突っ込んだ人が下半身黒焦げになり焔に焼かれる断末魔の苦しみを水で避けようとした五、六人の死体に目を覆わざるを得なかった。

この世の地獄
我々は夢中で女学院まで障害物を取り除きながら進んだが広い校庭には人影一人としてなく校舎は燃え尽き余燼が燻っていた。令嬢は逃げられたのか又は被爆地中心に近いため広島歩兵隊全員が朝礼と体操の最中に全員玉砕したと同様に全生徒も助からなかったのではないかと直感的に判断したが学校に近い大きな池のある浅野公屋敷跡の園内に逃げ込んでるのではないかと万が一の望みをつないで兵を連れて入って行ったが其処にはこの世の地獄と思われる惨憺たる阿鼻叫喚なる状況がこの目に飛び込んだと思う間もなく、あちらからもこちらからも大勢の火傷の酷い被爆者たちが『兵隊さん 、水をくれ、喉が焼ける様だ、早く助けてくれ!!』と群がってきた。兵隊たちがいっぱい水を満たした水筒は瞬く間に空っぽになった、この時火傷の患者に水を飲ますと死期を早めると云うことは全く知らず、すぐ兵隊は死体の浮いている池の水を水筒に汲み上げて息絶え絶えの人達に、手の皮膚が火傷でむけて指先に垂れ下がっているため自分では水筒を掴むことが出来ないので口を開けたままでこちらで水を流し込んでやった。そんな動作を一時間余り続けていたろうか、いくら池の水は不潔で泥水になっていても際限なく渇いた咽喉を潤して満足そうな微笑みを浮かべる姿や人々の欲求と云うか死に水を飲ませてくれという願望をむげに断わることも人情として忍びないので兵隊達は手が疲れて動かなくなるほど汲み取りと流し込みの動作を続けていた。ふと我に返り腕時計を懐中電灯で照らしてみると夜中の十一時を回っているので、斥候長として決断を迫られた。無情の様だがこの場の人々を振り切って園内から脱出する外に道はないと思い、大声で周囲に群がる重症の者、軽症の者、老若男女様々な被爆者に向かって叫んだ。『 皆さん残念ながらわずか七人の少数の手でこんなに沢山の犠牲者を助け出し看護手当することができない、今晩は無理かもしれないが我々斥候が方々に派遣されているので宇品にある陸軍船舶本廠に今被害状況を刻々と連絡されているので宇品から上陸用舟艇が太田川を逆か上り救出にやって来る筈だ、早かったら夜半、遅くても明日は皆さんを宇品から似島の病院に運んでくれると思う、それまでお互い助け合い元気をつけ合って待っていて下さい、宇品は爆弾でやられていないので必ず救出に来ると信じて頑張って下さい。』では『兵隊は直ちに集合次の目的地に向かって出発する』と号令をかけた。整列して前進を始めようとしても被害者の群れが『兵隊さん助けて下さい、我々を放りぱなしにしないで下さい!!』と縋りついて離れない、仕方がないから心の中で手を合わせて許してくれ!!許してくれ!!と叫びながら突き放しながら前進した。 縮景園(当時は浅野の泉庭と呼び藩主浅野公の別邸であった)をやっとの思いで抜け出して向島町を通り抜けたが道路は焼け落ちた家や壊れた石垣等が瓦礫の如く道を塞いで歩き難いので山陽本線の列車のストップした軌道上に全員が上がった、そこで自分は決断した。線路上に兵隊を集め、『ここまで決定的に敗戦に追い込まれては最早勝ち目はない、米軍が本土上陸するのも近いだろう本土決戦になるまで我が家 、我が家族の安否を知りたいのは人情だ、自分もすぐ近くの横川に家があるので家族の安否を探したい、みんなも広島や近郊に家族があれば そこで本斥候班を解散するから各自の判断にて安否を確かめて帰隊せよ、責任は自分が負うから安心して行け遠方の者は各地から救援部隊のトラックが市内に向けて通るだろうから帰隊の足は確保できる筈だ。では貴様達の幸運を祈る』今にして思えば一軍曹の身分で実に大胆な命令を出したものだ。

家族の安否確認
兵隊達と別れて時計を見ると夜中の一時半だった。既に身は軍人であることを忘れ駄々家長として人の親として夫として無我夢中で家族の安否を確かめるため横川駅に向かって線路上を走った。横川駅も焼け落ちて残骸だけであった。プラットホームから道路に飛び降りて我が家のあった打越町に走ったら何処もかしこも焼け野原になっており我が家のあった処は招集を受ける前一週間かけて門前の道路を掘り作った防空壕の跡を見てやっと判別することができたほど無惨な姿になっていた。生けるものは猫の子一匹も見つからず暫く茫然と立ち竦んでいた。十分位立ったであろうか向こうからフラフラとお爺さんが歩いて来たので呼び止めてここに住んで居た人達はどちらの方向に逃げたかを聞いたがお爺さんは怪我をしておりやっと細い声で電車の線路を伝って三瀧の方へ皆逃げて行ったことを教えてくれた。そこでやっと自分でも気がついた。いつも爆弾が落ちた時には線路を伝って荷物を疎開している西原の石田家の家を頼って行くように指示していたので町内会の事務所で働いていた義母と一緒に子供を一人ずつ 背負って歩いて西原へ行ったことは間違いないと判断した。駅まで線路をはやる心を静めながら石田家に着き石田家の一階に元気な姿に再会したのは夜も明けた早朝の五時半頃だった。広島菜の見渡す限り一面に植わっている畑を縁側から眺められる六畳一間の部屋で石田君の奥さんやお母さんが炊いて下さった銀飯と美味しい広島菜の漬物で朝御飯を一家五人揃って食べ始めたのは朝七時頃で昨夜の悪夢の様なことを一切忘れ無事だったお互いを喜び合い元気に美味しそうに白い御飯をパクついている子供達の顔を見た時は神に心から感謝した。そして石田家の皆様のご親切に対して地獄で仏のように有難かった。

帰隊までの3日間
家族の無事を確認したので未だ中隊本部を出発した時の斥候長としての責任と任務を果たし得なかったが報告の義務は残っているので一時も早く本部に帰隊しなければならないと思いながら兵隊達に自分の口から言ったように近隣部隊からの救援の軍のトラックは翌日もその次の日も一台も国道を走る姿が見られなかった。一番近い救援が予想されるのは島根の松江歩兵部隊である、宇品の陸軍運輸部隊も我々の中隊本部も恐らく昨夜の特殊爆弾の投下の一瞬から大混乱に落ち入り命令系統も錯乱して首都にある大本営からの陸海各地方部隊に対する救援、派遣部隊の出動命令も徹底しないのではないかと自分ながらに予測し軍のトラックが来るまでは宇品までは歩いて帰隊も出来ず、腹を据えて国道の見える日当たりが良い縁側に軍服を着た儘、子供たちと遊びながら松江部隊の軍用トラックの通るのを待った。従って後で判ったことだが一番放射性物質の濃度の強いものが低迷した数日間又原子雲から降った黒い雨を浴びることのなかったことが一家が一同に原爆病にかからなかった原因であり全くの幸運であった。

松江部隊トラックで帰隊
山陰地方の鳥取、松江、浜田の各部隊から救援物資と医薬品と軍医、看護兵を積んだ車のトラックが国道に姿を見せたのは西原に来てから四日目の朝だった。因縁と云うものか自分が現役で服役した松江部隊のトラックに乗せて貰い宇品の野戦船舶本廠に到着し直ちに金輪島行の連絡船に乗船し本部中隊に帰隊したのは斥候に出発してから四日目の八月九日の頃だった。隊には幹部将校が殆ど全員不在で留守番役の小野少将に斥候任務途中にて帰隊が遅れたことを謝罪したところ同少将よりいかに非常事態で不可抗力とは云え無断にて軍務半ばにて隊を離れることは処罰者だ、しかし現状は一人でも多く市内での救援活動に手がほしい時なので直ちに市内舟入本町の舟入小学校救援部隊山本准将以下一個中隊の班長として急行せよとの命令を受けた。

舟入救援部隊任務に就く
そして小学校の庭に天幕を張り班十五名の長として被爆患者( 患者の大部分は火傷だが中には負傷した者、病気に苦しむ者等老若男女、幼児に至るまで)を校舎が殆ど焼失しているので校庭に茣蓙を敷き詰めてその上に露天で収容した。火傷の負傷者の茣蓙の上に携帯用天幕のシートをシーツ代わりに一人一枚宛支給して傷の痛みを少しでも軽減する様に配慮した。傷の手当と云え夜中も苦しみ喘ぐ声が広い校庭に充満し本当にこの世の地獄の様を目の当たりに見る様な悲惨さだった。軍医は宇品と似島の軍の収容所に全員集結されているので現場の一時的な収容場所での手当は看護兵三人だけの治療なのでとても次から次へと運び込まれる負傷者には手が回らなかった。 仕方がないので素人の兵隊達も見様見まねで手当ての加勢をした。一箪校庭に運び込まれても軽症の者は二、三日置いて重症者はトラックにて直ちに宇品に運んだ。又死亡者は日本赤十字病院の広場に急設された死体焼却場に運びこまれ深く掘られた穴の上に鉄棒を渡した上に魚を焼くような形でガソリンをかけて其の場で焼却され身元の確認が病院の検死員で行われた。死亡者が増加して行くので街の中で焼却するのは中止になりトラックの輸送で宇品に運ばれそれから船で似島の軍の火葬場に送られた。

焼死の弟を背負った兄
小学校の救援部隊に派遣されてより三日目の朝校庭に立って道路を大井町の方向に歩いて行く被災者の哀れな姿を見ている時ふと小学生位の男の子が右手に妹らしい五歳ぐらいの女の子を手を引いてとぼとぼと歩いて行く悲惨な光景が目に止まったのでその男の子を呼び止めて子供だけでどこまで行くのかと聞いたところ 『お父さんお母さんとも家と共に焼け死んだ。己斐に居るお爺さんとお婆さんの家に行くのだ』ふと背中の男の子を見ると全身火傷で既に死んでいる、小さい兄も妹も顔や手足に火傷をしてビッコを引きながら一生懸命に歩こうとしていた背の弟は死んでるからここへ下して行くように言ってもお爺ちゃんに死に顔だけでも見せたいと言うので取り敢えず火傷の薬を塗布してやり乾パン一袋持たしてやった。この子供達には何の罪もないのに戦争とは無慈悲で残酷なものだとつくづく思った。

玉音放送
やがて舟入本町の救援所も一時的な被災者の収容だけになり殆どの負傷者は直ちに宇品の似島に運ばれるようになり、やっと落ち着いて皆んなが ほっとして平常心に帰った時に始めて衣服がボロボロに焼け半裸体同然の人々の中には下着をつけていないのが大部分で女性も沢山収容されていたことが判明し慌てて局部を覆い隠すため軍用の褌を男女(子供を除き)全員に配給した。夜は伍長を長とする衛兵(長以下十名)と看護兵三人のみを救援部隊の警備と看護に当たらせ宿泊設備がないので夕方六時には中隊本部に帰隊し明朝八時に又トラックで現場に来る日が一週間ほど続いたが突然八月十五日の朝礼にて救護部隊全員の中隊本部への帰隊が発令された。我々は何事かとお互い不吉な予感を感じたが、午前十一時三十分営庭に集合各隊の点呼、やがて部隊長閣下の全員に対する訓示が終わると共に営庭に設備された拡声器よりラジオの正午の時報が流れ君が代奏楽が終わると共に天皇陛下の戦争終結の詔書の御朗読の玉音が放送された。心なしか玉音も恐れ多きことながら御涙声であらせられ、我々は不動の姿勢を取ったまま両目から涙が溢れ感泣する。

義父母の発見
八月十五日より救援活動は近隣部隊から続々と派遣された軍医、看護兵、陸軍病院の看護婦達により本当の救護所となり一部衛兵、歩哨勤務者のみを残して八月六日 原爆投下直後に派遣された 救援部隊は山本准将以下中隊本部に帰隊となった。
自分は未だに営外居住の勤務だったので毎日は西原の家族の許には帰れないが四日に一日ぐらい帰宅を許されて家族と団欒出来た。帰る時は配給になった軍の砂糖や毛布、軍服、外套等を自転車にて持って帰れるだけ積んで帰り家族を喜ばせた。
八月の二十日過ぎに我々が招集になった時仮の宿舎になった宇品の小学校の校庭に千田町一帯の被災者が収容されていることを宇品の運搬部の情報係にて聞き兼ねがね気になっていた義父がもしかしたら収容されているのはないかと思い早速行ってみることにした。案の定我々が駐任した舟入の小学校と同じように校庭に此処でも茣蓙を敷き詰めて、あの広い校庭には火傷の患者が累々と横たわっていた。義父を見つけるのは時間はかからなかった。義父は火傷を上半身に受けていたが歩ける程の余力はあったが義母は茣蓙の上に横たわり背中の火傷が茣蓙にぴったりひっついて顔はあの美しかった面影もなく焼けただれて水膨れになり白い薬を塗布して貰っても痛みが激しく又発熱しているらしく義父が一生懸命に水を濡らした配給の日本手拭いで冷していた。義父は重症に拘らず意識はハッキリしており建物疎開にて千田町の隣組の一団と勤労奉仕にて南千田町一帯の疎開現場に到着した直後に被爆したらしい。早速この救護所の運搬部営下の軍医(見習士官)と看護兵に面接して診察を嘆願したところ快く見てくれたが義母の方は全身火傷で化膿も進んで居り心臓も弱ってるので後数日の命しかないと宣告された。何でも食べさせて良いから美味しいものをあげなさいとアドバイスされたので明日又来るからと義父に言って直ちに自転車を飛ばして西原の我が家に帰り小野の母や家内に話したら、石田のお婆さんや奥さんにも頼み銀飯を炊いてくれ又畑から広島菜や白菜、大根等野菜を取ってきて貰い翌朝 自転車に詰めるだけ着る物や毛布と共に米、野菜、調味料( 塩、砂糖、醤油 )等を入れて朝十時頃到着したら義父母が待ち構えていてくれて嬉涙を流し久し振りに見る食物と着物を手を合わせて喜んだ。ご飯は炊いたのがあるので早速義父の用意していた炭火に鍋をかけて野菜のごった煮を作り横たわっている義母を静かに抱き上げて横向きにして食べさせたところ痛みも忘れて美味しいと言いながら涙を浮かべて少し食べてくれた。義父は沢山の食物を持って行ったので周囲の人々に分けて上げると
喜んでいた。然し自分も軍務があり何時軍命令で仕事が待っているか判らないので名残惜しそうに見送る二人を後にして金輪島に帰隊した。

戦争終結と招集解除
その後は戦争終結に依る大本営陸軍命令に依る軍の解体準備のため各種兵器類の海中投棄や秘密書類の焼却及び倉庫に蓄積されていた軍事物質(食糧、被服、弾薬)の整理搬出等に将校以下兵に至るまで忙殺されたので九月十一日の招集解除になるまで宇品の救護所を二度と訪れることはなかった。招集解除後救護所を訪れた時は被災者全員は似島に移され宇品は閉鎖されていた。運搬本部の救護担当の係員に調べて貰つたら義母は小生が再会して喜んでくれた数日後に死去し義父も似島の病院に収容された後九月の始めに死亡されたことが軍の記録で知ることが出来た。

九月十一日 船参動第四十七号により招集解除となり昭和八年十二月一日に現役入営してから昭和二十年九月十一日の招集解除になるまで途中何回かの招集除隊を繰り返したが実に六年間の長きにわたり苦難多き軍隊生活に縛られて来たがやっと母国の敗戦という運命によりピリオドが打たれやっと我が生涯の中で二度と再び兵役という人権無視した義務を負わされることはなくなった。

今まで松江歩兵隊入隊から始まりハルピン守備隊勤務、南京城攻略二次隊での出兵、内地帰還後日米開戦と広島での原爆の体験等の数々の苦難を経験し乗り越えて来た。子供や孫の代に再び世界に戦争のために日本が巻き込まれて軍隊に強制的に徴兵されることのないことを心から神に祈る、このような悲劇は自分一生だけで十分だ。

自叙伝 第二巻『 就職より軍隊勤務を経て終戦まで』(全350頁中被爆体験記部分を抜粋)
完結  昭和六十一年十二月十日                        藤井努

※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針