●被爆前のこと
家族で己斐上に住んでいました。当時、一緒に住んでいたのは、父の繁(しげる)と母の富士枝(ふじえ)、そして姉二人です。母親の違う兄が二人いましたが、当時、一回り半以上離れた長兄は九州の知覧(ちらん)にいたと聞いています。一回り離れた次兄がどこにいたかは覚えていないです。当時、B29が頻繁に広島上空を飛行していました。
父は、戦争がひどくなると井口家具百貨店という家具屋さんへ、家具製造の手伝いに行っていたようです。母は主婦で、家のことを中心にしていました。
●8月6日
原爆が投下されたとき、私は母に背負われて、己斐町内で買い物のため、お店の中にいたようです。
当時の記憶はありませんが、原爆による爆風で、私の右側後頭部にガラス片が刺さって、今でも跡が残っています。それから、右の足の膝の外側あたりにもガラス片が刺さり、こちらの方が大変で、一番悪いところに刺さってしまい、一生付き合う傷となってしまいました。
父は、すでに家を出て井口家具百貨店に出勤途中だったようで、福島町で被爆しています。いつ自宅に戻ったかは覚えていませんが、ひとりで帰ってきたようです。姉二人は、自宅に残っていたと聞いています。戦後の話ですが、姉二人から、おそらく爆風の影響だろう、畳が飛んだとか、タンスが倒れたという話を聞いたことがあります。私を背負っていた母は、特に大きな外傷もなかったようです。
己斐は爆心地からだいたい2.5キロの距離にあることもあり、火災の被害というよりも、爆風の被害を大きく受けたのではないでしょうか。
●右足のこと
私の右足のけがが、一向に良くならないのです。ずっと膿んでいて本当に大変でした。終戦後、兄達が戻ってきてからのことですが、ドジョウが傷口によく効くというので、高須の川にいるらしいと聞き、とりに行ってくれていたそうです。ただ、この右足の傷口が、保育園、小学校と、かなり長い間治らないので、常に傷口には包帯を巻いている状態でした。だから、よくいじめられましたが、とにかく耐えてきました。あの頃は、みんな事情も分からず、好き勝手にいうので、「ちんば」とか「ぎったん」とか、今では、差別用語として口にしない言葉でいじめられました。ただ、そのために学校を休んだりすることはなく保育園にも、小学校にも、ちゃんと行きました。
傷がなかなか治らないので、まず小学校2年生の時に県立広島病院に入院して、手術をしましたが、まったく良くなりませんでした。あの頃は麻酔もほとんど効かなかったのか、痛いというものではないくらい、痛かったです。そして、あまり良くならないままでしたが、中学校3年生の時に現在の広島赤十字・原爆病院というのができたので、そこに入院しました。約4か月間の入院中、手術もしましたが、主治医が足の悪い先生で、同じ境遇をわかってくださったのか、大変親身になって世話をしてくださったおかげで、傷口も治りました。
12月ごろ学校に戻りましたが、高校受験を控えた時期でした。そこから私立の高校を経て、当時は広島商科大学と言っていた、今の広島修道大学に進学しました。大学卒業後は、地元の金融機関に就職し、ずっと広島に住んでおります。
就職してからも、自分の足のけがのことがあるので、自分は被爆者で、その時にこうなったのだと隠さずに話してきました。
●戦後の生活
自分の右足の傷がなかなか治らなかったこともあって、家族で原爆の話をすることもありました。母からは、B29が飛んでくれば、非常に恐ろしく感じていたと聞いていましたし、福島町で被爆した父は、いわゆる「ピカドン」の後遺症か、髪の毛は全部抜けて、やけどの跡がケロイドになっていました。
自宅で被爆した姉ふたりのうち、長姉は特に病気をすることもなく、元気でしたが、二番目の姉は、もともと身体が弱かったこともあって、原爆の影響があったかどうかはわかりませんが、24歳の時に腎臓炎で亡くなりました。
兄ふたりは、被爆当時は広島にいませんでしたから、特に被爆の影響ということもなかったのですが、偶然にも二人とも75歳で亡くなりました。
戦後、父は、己斐本町で八百屋を構えて、母もその店の手伝いをしていました。私たちも、戦後しばらくして、己斐上から己斐本町に引っ越して生活をしていました。
父の死後、長兄がそのあとを継ぎました。母は、父が亡くなった後も店を長く手伝っていました。長生きしてくれて94歳で亡くなりました。今は3代目がお店をやっています。己斐で、「わたなべストアー」といえば、誰もが知っているお店になりました。
被爆した家族の被爆者健康手帳は、母が全員分をまとめて申請してくれたと思います。
私は、地元の金融機関に就職することになりましたが、当時、明らかに差別でなくともなにかしらあるような気はしました。足がどの程度悪いか確認する為か、面接で歩いてみなさい、と言われたこともありました。だから、採用が決定するまでは不安な気持ちもありました。
就職して、しばらくしてから、見合いで結婚することになりました。私が被爆していることについては、おそらく仲介人が、多少の話はしていたと思います。家内に直接聞いたことはないですが、家内の家族に、被爆が原因で結婚は難しいのでは、という方はいなかったようです。
生活する中で、確かに足に不自由はあるけれど、戦争が憎いとか、アメリカが憎い、というような感情はあまり起こらず、どちらかというと半ば諦めのような感覚でした。
足が悪いこともあって、自分ができないので、スポーツは、どんな競技でも観るのが好きです。自分がするのは、音楽です。昔からラジオやCDを聞くのが好きで、弟も含め家族全員、音楽は好きです。楽器を弾くのも好きで、最初はハーモニカからはじめて、高校ではブラスバンドに所属していました。大学に入ってからマンドリンをやっていました。自宅には、娘たちが習っていたピアノがあったので、社会人になってピアノも習い始めました。
●これからの時代の人に伝えたいこと
戦争全般に対して、もちろん反対です。特に、戦争によって子どもが被害に遭うこと、これが気になって仕方がありません。今、ロシアとウクライナの状況を見ても、子どもが犠牲になっていることが非常に気になるところです。
そして今は、簡単に「核兵器」という言葉を使っている気がします。原子爆弾の被害に遭った人にしか、その本当の意味はわからないのではないか思います。戦争も、核兵器も絶対にダメです、もうやめてほしいと思います。
※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
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