要旨
「広嶋原子爆弾と風水害」は、昭和二十年当時広島県佐伯郡五日市町に住んでいた中村晴子が、原爆投下とその後の敗戦、追い打ちをかけた枕崎台風を中心にわが家やその周辺に起こった事柄を、自分自身及び家族の体験に基づいて和歌で綴った記録です。当時の状況や思いが、その時の生の気持ちで表現されており、戦時下および終戦直後の厳しい時代における一家族の生活と世相をよく表した資料となっています。ただ、元の和歌と詞書だけでは、そこに詠まれている時代背景や固有名詞が分かりにくいと思います。そこで、内容をより良く理解して貰うために、本資料を作成し補足説明とするものです。
まえがき
この和歌による記録「廣嶋原子爆弾と風水害」は、我々の祖母中村晴子が昭和二十年四月広島市郊外の五日市に来てから、昭和二十一年二月そこを去るまでの一年弱の間に経験した様々の事柄や思いを和歌に託した短歌集です。この草稿は広島から郷里に帰った後の、戦後の厳しい時期にまとめられたものと思われますが、日々の生活、孫達の養育に追われてそのままになり、家族の者も詳しくは知りませんでした。そして発表の機会もなく、ようやく世の中が落ちつき始めた頃、祖母は世を去りました。
この草稿が我々の目に触れたのは、大学卒業後ずっと家を離れていた長孫の中村明夫が、平成七年大学を定年退職後、郷里の生家に戻り家の整理を始めてからです。草稿は達者な毛筆で書かれておりくずし字も多く、読んで整理するのに時間が必要でした。そこで、その後やはり定年で職を退いた次孫の中村知夫が読み解きに協力してワープロでの短歌集に整理しました。
読み返してみますと、わが家の歴史の記録としてだけではなく、一国民の見た原爆投下後の状況、風水害の恐怖、終戦後の世相や心情を中心に、昭和二十年当時の生活記録としても興味ある資料といえるのではないかと思いました。また、あの困難な時代に、祖母が短歌に托した思いをもっと広く、出来れば若い人にも、知って貰えればとも考えました。そこで、この短歌集をどこか公的な機関に寄託し、保存管理と多くの人への公開閲覧が出来ればと、兄弟で相談しておりました。
その後、いろいろなご縁で、広島原爆死没者追悼平和祈念館(以下祈念館)の計画を知りました。広島原爆関係の被爆体験手記、追悼記資料を収集・整理されているとのことで、我々の希望によく合ったものと考え、平成十年十二月にこの歌集「廣嶋原子爆弾と風水害」を寄贈させて頂いたものです。
本資料の目的
この時祈念館に納めたものは、歌集の肉筆草稿原本とそのワープロ整理分でした。しかし、もともと本歌集は、和歌による個人的記録の性格を持つので、家族内の事柄や半世紀以上前の世の中の事情は、そのままでは今の閲覧者に分かりにくいと思われます。また、伝統的なスタイルの和歌ですから、文語の語彙や言い回しなど、若い人には難解なものが少なからずあります。従いまして、あるがままの形で和歌を鑑賞・評価される人には蛇足かもしれませんが、当時の様子を少しでも覚えている身内の私どもが、出来る範囲でこの歌集の背景説明を行おうというのが本資料の目的です。
完成するのに時間がかかりましたが、五十四回目の原爆忌に間に合わせることが出来て、原爆で逝った父と今は亡き祖母にいささかの回向になるものと思います。
作者について
作者の中村晴子は、明治二十一年(一八八八年)一月二日に大平力夫・菊夫妻の長女として大阪に生まれました。明治四十三年(一九一〇年)陸軍軍人中村進(陸軍士官学校一六期)と結婚、夫の任地大津、敦賀、台南、静岡、豊橋、浜松、和歌山、大阪、京都を巡り、その間二女(長女千鶴子、次女静子)に恵まれました。昭和六年には、陸軍士官大森重雄(陸軍士官学校四〇期)を長女千鶴子の婿養子に迎え、家を継がせています。
昭和七年夫の退官後しばらくして、滋賀県大津市膳所に家を建て落ちつきました。若い頃から和歌に親しみ、隠居後も夫婦共に湖光会という短歌の同人を中心に、御歌所参候の栗山直扶氏を師として作歌に励んでいます。初孫の明夫は転勤の多い親と離れ、幼いときから祖父母の下で養育されていました。昭和十二年に夫を病で失った後も、晴子は京都や大津の歌友達と交流を重ねると共に、旅行をして歌を詠むのが楽しみでした。昭和十六年次女静子を京都の医者薗田家に嫁がせ、ほっとしたのも束の間、太平洋戦争が始まり他の孫も手許に引き取り多忙な身となりました。
そのあと次項に述べるように、昭和二十年に本歌集の舞台となる広島市郊外の五日市に移り重雄一家と暮らします。ここで養嗣子重雄を原爆で喪い、色々と苦労を重ね、傷心のまま昭和二十一年広島を去って、大津市膳所の家に戻りました。
それからは一家を支える千鶴子に代わって主婦の役に徹し、五人の孫を育てていました。しかし、大戦後の世の中がやっと落ち着き、孫も成長してようやく楽が出来るかと思った矢先の昭和三十年に倒れ、家族の一年余にわたる看病も空しく、昭和三十一年九月十日にこの世を去りました。病床生活のはじめには、不自由な身を看病する孫に、つくった歌を口述し書き取らせていたほど和歌への思いが深い一生でした。
家族紹介と移転経緯
太平洋戦争が終わりに近くなった昭和二十年三月、我々の父中村重雄は東京から広島へ転勤を命じられました。父は当時陸軍憲兵中佐で、東京九段下の憲兵司令部勤務でしたが、本土決戦が近づき米軍が上陸して日本が東西に分断されることが想定されたため、西日本の拠点として広島の憲兵隊が中国憲兵隊司令部に拡充され、その要員として赴任したのでした。
その当時、わが家は、父重雄、母千鶴子、五人の子供のうち四男正夫と五男安夫が空襲下の東京の借家に、長男明夫、次男知夫、三男忠夫が、歌集の作者である祖母と共に滋賀県大津市膳所の自宅に住んでいました。しかし、父の広島転任に際し、時節柄家族が離ればなれに暮らすのは心配とのことで、膳所の家を知り合いに託し、広島にまとまることになったのです。父は先に単身で赴任し、住居が準備された四月始め、新学期に合わせて残りの家族が揃って広島に移りました。
新しく借りた家は、広島県佐伯郡五日市町海老塩浜(当時)で現在はひろでんショッピングセンターとなっている旧楽々園遊園地(戦争中は陸軍船舶部隊 暁部隊の駐屯地として使用されていた)の北西の四つ辻の角にあり、広島在住の人の夏用の別宅を借り上げたと聞きました。
この時晴子は五十七歳、重雄、千鶴子はそれぞれ三十七歳と三十三歳でした。十三歳の明夫は広島県立一中二年に、十歳の知夫は町立五日市国民学校五年にそれぞれ編入学し、七歳になりたての忠夫は国民学校新一年生、正夫は四歳の幼児、安夫は生後四カ月の赤ん坊でした。また、晴子の次女静子(我々の叔母 当時二十三歳)は、結婚後京都に住んでいました。
八月六日に原爆が投下されたとき、重雄は基町の中国憲兵隊司令部の執務室に、明夫は学徒動員の勤労奉仕で地御前にある旭兵器の工場に、知夫と忠夫は朝礼で五日市国民学校の校庭に、千鶴子と正夫は自宅の広島市側に向いた居間、安夫は奥の座敷の蚊帳の中に、そして晴子は自宅近くにある野菜畑の手入れをしていました。
歌集の性格
本歌集の和歌はいわゆる現代短歌のような芸術表現としての歌ではないかも知れません。当時の御歌所派系の伝統的な表現は、時には技巧的、類型的にも感じられます。ただ、これは、自由な表現が許される現代から見て言えることで、時代的制約を考えると、晴子は馴れ親しんだ手法で、これまで経験したことのない情景や、その時々の心情を表現せずにはいられなかったものと思います。元々作者自身は作歌が生活の一部となっており、人に鑑賞して貰うことを考えていたのかどうかも分かりません。歌の芸術性は読む人の判断に委ね、あの時代の一つの韻文による記録として、その内容への思いを感じとって貰えれば良いと考えます。
歌集の構成
本歌集には全部で一六八首の短歌が含まれています。そのうち、初めの一三八首が原爆投下から広島を去る時まで半年余り、激動の時の状況や心情を詠んでいます。七一の題あるいは詞書が付けられており、原爆の爆発時の情況、悲惨な被害の様子、遺骨収拾、看護奉仕、終戦と引き続く混乱、連合軍の進駐、娘の来訪、枕崎台風による風水害、病と人の情け、広島との慌ただしい別れ等の和歌による記録になっています。
これらの歌は大まかには時間を追って述べられていますが、必ずしも厳密に起こった順序ではありません。また、その場で浮かんだものを書き留めたり、後で思い出した事を詠んだり、まとめた時点で修正加筆あるいは推敲した部分もありますので、詞書の記述には一部時間的に合わなかったり、分かれて記述されている所もあります。
後の三十首は、十四の詞書にあるように時間を遡って、晴子が広島に来てから原爆投下までの折々に見た光景や心情を詠んだものです。戦時下の緊張やその間の束の間の安らぎが表現されていて、平和な時代に育った人達にも歴史の一駒として併せて知って貰いたいものです。
背景と補足説明の構成
この背景と補足説明は全体的な事項を本資料に、個々の詞書や歌については、後続の第二部に大意と必要な説明・補足を、歌集の原文と共に示してあります。この資料は、知夫が素案を作り、明夫が全体をチェック、加筆修正した後、知夫が再編集したもので、兄弟の共同作業です。
第二部の構成は、おおまかに詞書毎に分けて、原文と書かれた内容の大意説明を左右に対照してあります。原文にはありませんが、便宜のために、詞書には*、歌には・印を付けてあります。・印の部分は、草稿に合わせて、二行目を一字分下げてあります。また、若い人に分かりにくいと思われる文語の語句や読みには、初出の和歌の大意の後に「・・・」で語注をつけました。
必要に応じて、背景説明や感想をその後ろに付記してあります。ただ、戦争直後および終戦直後の生活環境は、現在の豊かな時代のとあまりにも違いすぎるので、どこまで意が伝わるか心配です。
大意は、あくまで大まかな内容を説明するために加えたもので、忠実な意味での現代語訳ではありません。是非原文を見て、自分の感性で理解していただきたいと思います。古典的なやまとことばは、論理的ではないかも知れませんが、現代語で表現しにくい微妙な心情を簡潔にかつ含みを持って表現するものだなと、大意を作ってみて感じました。
文語の語注には、主に「岩波古語辞典」を参考にしました。
むすび
亡祖母の短歌集を読んでみて、当時の苦難を思うと共に、あらためて現在の平和の有り難さを感じました。一方、一部に心ない人はいたものの、あの困難な物資欠乏の時代にも、苦しいなりにお互いを助け合う人情の暖かさや思いやりは、現在の社会に少なくなっていっているのではないかと気にかかります。
本資料の説明に関しては、当時を知る母も叔母も既に亡くなっていて詳細な点は確認できません。私どもも当時年少で、また五十年以上前のことですから、記憶の不鮮明な所や覚え違いもあると思います。その点はご寛恕下さい。なお、関連資料として、同じく祈念館に収録されている手記「父と米軍捕虜の最後(原爆で逝った父親と米軍捕虜の思い出の記)中村明夫」を併せて見て頂ければ幸いです。
余談ですが、平成十年十二月広島市役所の祈念館準備室に歌集原本他を寄贈にいった帰りに、当時住んでいた楽々園の思い出の地を兄弟二人で訪れました。周りの家はすっかり建て替わっていたのに、その家はほぼ当時の面影を残して建っており感激したものです。
最後になりますが、あらためて広島原爆の犠牲者および関連物故者のご冥福を心からお祈りいたします。
(平成十一年七月 五十四回目の原爆記念日を目前にして)
短歌集「廣嶋原子爆弾と風水害」中村晴子の和歌による体験記の背景と補足説明(第二部)
廣嶋原子爆弾と風水害 晴子
歌集の表題 広島原子爆弾と風水害 作者 中村晴子
*廣嶋原子爆弾の思出
広島原子爆弾についての思い出
*爆裂の時五日市海岸の宅にて八月六日
五日市楽々園の海岸近くの自宅で八月六日の朝、原子爆弾爆発を目撃した時の様子。
原子爆弾が炸裂した時、作者の祖母晴子は家の前にある小さな野菜畑の手入れをしていた。楽々園の家は海岸に近接し、当時は近くに高い建物もなくかなり遠望がきいたので、晴子は爆発直後の様子をよく観察している。閃光とともに白い大きな球が現れ、巨大なくらげのように見えたと言っていた。
・まなこ射るひかりと共に大空に
けぶりのたまはあらはれにけり
・眼を射るような光とともに大空に煙のような球が現れた。
「けぶり」:けむりの古形
原文の草書では、濁音の濁点は付けられていないが、ここでは読みの便を考えて補っている。
・大空にけぶりのたまと思はれし
くしきすがたは火とひろがれり
・大空に現れた煙の球のような奇妙な形は、たちまち火の玉になって広がった。
「くしき」:奇(くす)しの形容形 不思議な、奇妙な
・見るうちにけぶりは空に廣がりて
おとすさまじくむらくものたつ
・みるみる煙の球は空に広がって、すさまじい音がして入道雲のように立ち昇った。
「むらくも(群雲)」:集まり群がった雲
*ウラニウムの雨ふり市内山手己斐のわたり大雨となる
爆発の後しばらくして市内山手己斐のあたりに降った激しい不思議な黒い放射能の雨のこと。
「わたり」:漠然と広い地域を指す語
・黒雲のおほひかゝれるひろしまの
やまては奇しき夕立のあめ
・黒雲が覆い被さった広島の山手に奇妙な夕立の雨が降った。
市内山手の方角に黒い雲のかかるのが見えた。晴子は後日黒い雨が降ったと聞いて、このように表現したものと思われる。
*爆裂さるる市内
爆発後の市内の様子
*八月九日千鶴子明夫現場に行きし時の有様を聞きて
三日後の八月九日千鶴子と明夫が広島市内に入って目撃した様子を聞いて詠んだもの。
母千鶴子は広島が爆撃されたと知って夫の身を案じたが、このような時の軍の多忙な活動も知っており、市内の状況も定かでないまま、自宅で待機していた。この時はまだ希望は持っていたと思う。しかし、連絡もなく被爆者が続々五日市方面へ逃れてくるのを見て、いたたまれず、広島市内へ向かおうと思った。しかし、この間に、市周辺の軍隊が応援に駆けつけ警戒線を敷いたので、己斐の手前で止められ爆心地へ入れないとのことであった。その前に市内に入り強い放射能を浴び倒れた人々が大勢いたと聞く。
やっと市内に入れたのはここに詠まれた八月九日、三日後のことであった。
・ときのまに草木も人もをくるまも
家居もみえず倒れ盡せり
・一瞬の内に草木、人、車、家屋全てが倒れ伏してしまった。
「をくるま」:ここでは車両類一般を指す。語調を整えるため、文語で物に親愛あるいは賞愛の意味をこめた接頭語「を」をつけている。
「家居(いえい)」:住居、家
・はしは落ち水の流れは見えぬまで
川に屍のうかぶあはれさ
・川を見れば橋は崩れ落ち、水面が見えない位多数の屍体が浮かぶあわれなさまよ。
「屍」:死体、しかばね、ここでの読みは「かばね」
「あはれ(哀れ)」:悲しみ、切なさなど深い感動や情趣を表すことば
・足いれむところ無きまで馬くるま
ひとの屍にうづもれにけり
・地上は地上で足を踏みいれる場所もないほど馬や車の残骸、人の屍体で埋まっている。
・川筋はやけし屍を山とつみ
ながき堤につゞくあはれさ
・川沿いに焼死体が積み上げられて長い堤のように続いている悲惨さよ。
明夫は、福島川の堤防での光景と記憶している。
・行くほどに焼けし屍は骨となり
たむろのわたり灰となりぬる
・さらに爆心地に近づくにつれて、焼死体も肉が燃え切って骨を残すだけとなり、目的地の憲兵隊司令部のあたりでは、その形も崩れた遺灰となってしまっている。
「たむろ」:人の集まる場所で特に陣営、兵営の意味で用いられた。ここでは重雄の勤務していた憲兵隊司令部を指す。
「わたり」:付近、あたり
・さまざまの屍をこえてすぎゆけば
靴にあつさを猶おぼえけり
・様々なかたちの犠牲者の屍体を目にしながら歩を進めると、まだ靴を通して地面の熱さが感じられる。
「猶」:なお、まだ
*半月あまり後にゆきみしさま
原爆投下後半月余り経って、作者晴子自身が司令部跡を尋ね弔った時に見た情景。
*電車は軌道上に乗用車、荷物自働車、其他各種一切、そのままに道路上に焼け残れり
行く途中まだ線路上に市電が、乗用車、貨物自動車そのほかあらゆる物が焼けただれ、そのままの状態で道路上に残っていた。
・まがね路も走るくるまもそのままに
焼きつくされしあとぞとどむる
・線路もその上を走る電車もそのままの状態で焼け尽くされた姿を曝している。
「まがね路」:真金路(まがねじ)で、鉄でできた線路を指す。
「くるま」:ここでは路面電車のことを指す。
*中國憲兵隊司令部に行きみれば重雄の乗用車、自転車、乗馬何れも車庫に厩にあとをとどむ
中国憲兵隊司令部跡に行ってみれば重雄の公用車、自転車、軍馬がいずれもそのまま当時の場所に焼けた残骸をさらしている。
「厩(うまや)」:軍馬の厩舎
後のことだが、知夫は軍馬の大きな肋骨が骨格模型のように、そのままの形で並んでいたのを憶えている。
・門入れば君が車ものり馬も
あるじと共に骨を残せり
・営門を過ぎると貴方の乗用車も乗馬も主人と同じく骨だけを残している。
*門札の灰の中より出でしを見て
司令部の建物は完全に焼け落ちて灰となっていたが、石造りの門柱に掛けられていた中国憲兵隊司令部と書かれた木の門札は、焼けずに残っていた。
爆風で飛ばされたのか、大きな木の門札が燃えずに瓦礫の中にあり、墨で書かれた字の部分だけが消し炭のように焦げているのを不思議に思ったことが、知夫の記憶に残っている。
・いかめしきたむろは消えて名札のみ
灰の中より見ゆるさびしさ
・あの人を威圧するような軍の建物は無くなってしまって、ただその門札だけが灰の中に焼け残っている。この荒涼たるありさまよ。
「さびしさ」:本来あった生気が失われて荒涼としているさま。現代語のさみしさとは異なる。
*九十名余りの人の中より自室にて身につけし腕時計、鍵、卓上の双眼鏡、短銃其他により骨を確認せられければ
司令部に勤務していた軍人、軍属など九十人余りの人のなかで、重雄は自分の執務室で、身につけていた腕時計、鍵、卓上に置いてあった双眼鏡、拳銃他によって遺骨がはっきりと確認できた。
・数多き屍の中にさだかにも
しるしのこして逝きし君かな
・数多い遺骨の中で、明確に自分の目印を残して貴方は逝ってしまった。
完全に焼けて灰に近い遺骨がここかしこに散乱していた。重雄自身の執務室にも、打ち合わせ中だったのか複数の遺骨の塊があったが、自席と思われる場所の遺骨に身につけていた腕時計や、鍵、近くに拳銃や双眼鏡などの残骸が見つかり本人のものと確認出来た。
部屋跡は一階、二階の遺物が重なって被爆前とすっかり様子が変わっており、たまたま前日にここを訪れていた明夫の目印の記憶が無ければ遺骨の収拾は困難だったと思われる。他の方々の遺骨が当時の混乱のなかでどうやって確認され回収されたかは分からない。
*女軍属等の死せしあととおぼしくその当時を偲るゝ
司令部に徴用されていた事務補助の女性たちと思われる遺骨の残っているのが見つかり、当時の様子が想像されて詠んだもの。
・少女等の集いしあとと思はれて
かざしのはりの散れるあはれさ
・徴用の乙女達が集まっていた跡らしく、髪を止めていた金属製の止めピンが焼け残って散らばっている。可哀そうなことよ。
「少女」:読みは「おとめ」
「かざし(挿頭し)」:髪飾りや髪止め具
遺骨の中で髪止めの金具が散らばっているのが見える。徴用された若い女性の事務員や現在で云うアルバイトの女の子のものだろう。そのような遺体が複数見えるのはお茶の準備で集まっていたのか、仕事の指示を受けていたのか、あるいは束の間のおしゃべりの最中だったのか。戦争中のことだから現在のような派手なアクセサリーではなく、ごく質素なピンや止め具で髪をまとめたもんぺ姿の少女らのひとときの談笑を、原爆が一瞬に押しつぶす。同じような情景がほかの幾多の事務室、学校でも見られたと思うと誠に痛ましい。さらに晴子は、知人の娘さんを紹介して司令部の雇員にして貰ったばかりで、そのお母さんからお蔭で学徒動員の工場労働より楽だと感謝されていたところであった。親切が仇になって特別な思いがあったのであろう。
*静子と明夫と三人現場に故人を弔ひ讀経す
晴子の次女静子が京都から安否を尋ねて来てくれたので、孫の明夫に案内して貰い、三人で司令部焼け跡におまいりに行った。
・ながめやる焼野の原はくれゆきて
手向くるのりのこえぞしめれる
・遮る物もない焼け野原に日が暮れてゆき、手向けるお経の声も湿りがちになる。
「のり(経)」:お経、読経
・焼け残る金具のたぐひ集めつつ
そのかみしのび袖しぼりけり
・焼け残った遺品の金具類を集めながら往時の故人のことを思うと涙がこぼれる。
「たぐひ」:類
「そのかみ」:其の昔、以前のこと
「袖しぼり」:袖が絞れるほど涙を流して
*偕行社跡をみて前日迄通いつる診療所歯科を偲びて
陸軍将校の倶楽部である偕行社のあったところをみて、そこの原爆前日まで通った診療所の歯科を偲ぶ。
「偕行社」:陸軍の将校を会員として親睦、相互の扶助を行った団体。ここでは診療所も含んでいたその施設。司令部のすぐ近くにあった。
・日々に来しくすしの館はあともなく
いしずえのみぞ今は残れる
・毎日通っていた病院は跡形もなく消え、ただ基礎の石だけが今は残っている。
「いしずえ」:建物の石の基礎
「くすし」:医者
「館」:やかた、高い建物、ここでの読みは「たて」
*各隊各廠其他各学校悉く焼失す
広島に数多くあった軍の施設、学校も総て焼け落ちた。
「廠」:軍関係の大きな建物施設
「悉く」:全部、読みは「ことごとく」
・数多きたむろのにはもまなびやも
ひともろともに灰となりけり
・数多くあった軍事施設や学校も全て中の人もろとも焼失し灰になった。
「たむろのには」:営庭、軍営、兵舎
「まなびや」:学舎、校舎
*立町の宅の焼跡に庭の石燈篭のみ残れるをみて
重雄が多忙で自宅に帰れぬ時のために市内立町に宿舎(青雲荘)があった。ここも焼け落ちて庭の石燈篭だけが残って故人の住処だったことを示していた。
・石燈篭のこるも淋しやけあとに
きみがやどりのあとをとゞめて
・石灯篭だけが残って立っているのも淋しい。これで焼け跡が貴方の宿舎だったと辛うじて分かる。
「やどり」:宿るところ、仮の住処
*一望の焼野の原にたちて
広島は家が倒れ焼け落ちて、遠くまで見える焼け野が原になった。
・波よする岸よりやまのふもとまで
やきつくされし廣しまのまち
・海岸から山の麓まですっかり焼き尽くされた広島の町が一望の下に見える。
・廣しまの市につゞける村々も
家居たふれて焼けうせにけり
・広島市内だけでなく隣接する村々でも家が倒れて焼け落ちた。
「家居(いえい)」:家、住居
*爆裂の時光りと共に新庄村の辺わら屋よりけぶりたち火を発せしよし聞く
原子爆弾への畏れを表した歌。
爆発の光が煌めくと同時に新庄村のあたりの民家のわら屋根が煙を出してやがて燃え出したという話を聞いた。
実際このようなことがあったかどうかは知らないが、このような噂話が素早く語り伝えられていたのは事実である。
・まなこ射るひかりとともに市遠き
わらやのやねのもゆるかしこさ
・眼も眩む光と共に市内から遠く離れた所の藁屋根が燃え出すという。恐ろしいことだ。
「かしこさ」:今で言う頭の良さでなく、原義では、身の心もすくむような畏怖をいう。恐ろしさ。
*一発の原子爆弾の威力を思いて
五十年前の人にとって原子爆弾の威力は想像を絶するものであった。
・時のまに世はことごとく破れけり
ただひとつなるたまの力に
・たった一発の爆弾で一瞬の間に都市が全滅する。すさまじい威力だ。
「破(やぶ)れ」:壊滅
*爆裂当時の五日市海岸の宅爆風がために戸障子を倒し破る
原爆炸裂後の五日市楽々園の家の様子。
爆風の圧力のため、広島市の方向を向いた窓や戸のガラスが飛び散った。
・あし入るるところ無きまで破れ硝子
かべに襖にとびちりにけり
・足の踏み入れ場もないほど、ガラスの破片が室内の壁やふすまに飛び散った。
「破れ(やれ)」:壊れた、割れた
その時千鶴子は居間で窓を大きく開けて朝の掃除中で、外からの光を感じ窓際に寄った。東の空に奇妙な雲を見つけ声を掛け、近くで遊んでいた幼児の四男正夫を抱き寄せた。その直後遅れて来た爆風が窓を襲った。正夫はその瞬間の情景だけは、おぼろげながら憶えていると言う。幼心にも、よほど衝撃的な経験だったのだろう。また、赤ん坊の五男安夫は奥の座敷の蚊帳の中で眠っていた。その蚊帳に割れたガラスの破片が幾つも当たっていたという。
皆、傷を負わなかったのは誠に幸運であった。
*庭の隅に大穴を掘り破硝子を埋む
庭の隅に大きな穴を急遽掘ってガラスの破片を埋めた。
「破」:読みは「やれ」
・幾度か桶に運びて大洞を
うづみつくせりやれし硝子に
・大きな穴も何度か桶に入れて運んだガラスの破片で、すっかり一杯になってしまった。
*五日市海岸より廣嶋市を望む
五日市の海岸から広島市方面を見て。
・倒れたる家より出づる火かげにて
けぶりにつつむひろしまのまち
・倒れた家屋から出た火事のあかりで広島の町はすっかり煙に包まれているのがみえる。
「火(ほ)かげ(蔭)」:火の光
*燈火管制中空襲警報を聞きても焼土となれる廣嶋市は空紅なり
夜になって空襲警報がでた。燈火管制でこの近所はあかりを消しているが、焼かれた広島市の空は真っ赤に映えている。
・いましめの笛のねひゞく闇の夜も
紅染むるひろしまの空
・空襲警報のサイレンの音が鳴り響く。燈火管制下の闇夜に東方の広島市の空だけはあかあかと紅に染まっている。
「いましめの笛」:空襲警報や警戒警報を知らせるサイレンのこと。カタカナ語や流行語などを安易に使えない伝統的な当時の和歌での苦心の造語と思われる。
「いましめ」にはもともと警戒の意味がある。
*八月九日憲兵中原氏に伴はれ母子司令部跡に骨拾ひにゆくを送りて
八月九日部下の憲兵の中原氏に付き添われて、千鶴子・明夫母子が司令部跡に遺骨の収拾に行くのを送り出して。
中原博志氏は当時陸軍憲兵上等兵で父重雄が広島へ着任した当時当番兵を勤めた方であり、可愛がっていた部下であった。八月六日は外勤で司令部から離れた場所に居られ爆風で吹き飛ばされたものの無事であった。父の死後も色々と面倒を見て頂いた。
・骨拾ふ母子おくりて門にたつ
わが衣手に露ぞこぼるゝ
・骨を拾いに行く母子を送って玄関に出れば思わず涙がこぼれでる。
「露ぞこぼるる」:涙がこぼれる
*母子出でし後に空襲警報を聞く
母子が出かけた跡に空襲警報の鳴り響くのを聞いた不安な気持ち。
・焼けあとに行きし母子をまつ夕
こころにひゞくいましめの笛
・焼け跡に出かけて行った母子の帰りを待つ夕方、心臓に響くように警報のサイレンが鳴り、心配が募る。
*みどり子安夫の母まちわびて泣けるがやがて安き眠りに入りけり
赤ん坊の安夫が母親の乳を欲しがってぐずっていたが、しばらくしてすやすやと寝入ってしまった。
「みどり子(ご)」:嬰児、赤ん坊
・かへりくる子等まちわぶる夕まぐれ
ちごはやすげに肩にねぶれる
・子どもたちの帰りを待ちわびている夕暮れ、乳飲み子は私の肩で安らかな寝息をたてている。
「ちご(乳児)」:乳飲み子
*重雄の遺骨を千鶴子、明夫同伴仮司令部に安置しあるを受けてかへりしを迎へて
千鶴子が明夫を伴って仮司令部に安置してある重雄の遺骨を受け取りに行き、帰って来たのを迎えて。遺骨は一旦仮司令部に移し、後日横川に引き取りに行った。
・ありし日の姿は夢かささげつる
白木の箱を今ぞ迎ふる
・生きていた日の姿は夢だったのか、今家族の胸に抱かれた遺骨の入った白木の箱の帰りを迎えようとは。
*焼香
遺児達の焼香。
・立ちのぼるけぶりの前に幼子は
かしらならべてぬかづきにけり
・立ち昇る焼香の煙を前に、幼い子供たちが頭を並べてお参りをしている。
「ぬか(額)づく」:額が地面につくほど丁寧に頭を下げる。
*霊前に手向く
霊前に手向ける。父重雄を悼んで、終戦の頃に詠んだものと思われる。
・仇の火に身はやかれても国のため
あかきこころはかがやきにけり
・敵の爆弾に肉体は焼かれても国守る貴方の赤誠(まごころ)は輝いている。
「仇(あた、あだ)」:敵、害を与える者、攻めてくるもの
・大やしまけがす仇をも知らずして
みくにのために君は逝きけり
・日本本土をついに敵が汚すのを知らないままに、国のために貴方は身を奉捧げて逝ってしまった。
「大やしま(八州)」:日本の古称
・ふねよする仇をもしらで廣嶋の
たむろのにはに消えし君かな
・船で押し寄せる敵を見ることもなく広島の司令部で亡くなった貴方よ。
*高級部員兼廣嶋地区隊長としての君を偲びて
中国憲兵隊司令部の高級部員兼広島地区隊長としての貴方を偲んで。
・君あらばいかにこころや砕きなむ
あきつしまねに仇波のきて
・貴方が生きていたらどれほど心を砕いただろうか。日本に敵が乗り込んで来て。
「あきつしまね」:日本列島の異称
*家と両親を失ひ来れる、明夫の學友田頭君、毎日両親の骨探しに早朝より出で日暮れてかへる。
八月九日広島市からの帰途、明夫は広島一中の同級生田頭潔君に行き会った。家は全焼し、両親は行方不明とのことで、母が家に来るように誘った。数日後、楽々園の我が家にきて泊まり、両親の遺骨の捜索を続けていた。その後彼は、叔母さんに引き取られ広島を去った。
・垂乳根の行方たづねて今日もゆき
さびしくかへる友を迎ふる
・孫の友達が消息不明の父母の行方を尋ねて今日も出かけていったが、手がかりもなく空しく帰ってくるのをやるせない気持ちで迎える。
「垂乳根(たらちね)」:主に母を指すが、父母、親の意味もある。
*同運命の友人結城君
田頭君と同じように両親を捜していた明夫の同級生結城君 結城君のその後の消息は分からない。
・たらちねをさがしもとめて淋しげに
空しくかへる友ぞかなしき
・父母を一日中探し求めたがその消息も分からず、悄然として帰ってきた友を見る。悲しいことだ。
明夫の同級生で、自身は学徒の工場勤労動員で郊外に出ていて原爆の難を逃れたが、家族が広島市内の家で被災した人が何人かいた。彼らは近郊の友人、知り合いの家に一夜の宿を借り、家族の手がかりを探して焼け跡、遺体収容場所を回っていた。祖母晴子は、孤児となった孫の友達の姿に深い哀情を覚えていた。
*負傷重患者を五日市暁部隊に収容す
当時楽々園遊園地は軍に接収され、暁部隊(陸軍の船舶部隊)が駐屯しており、市内で被爆した兵士達が収容された。
・傷つきし人を車に絶えまなく
のせてたむろの門に入りゆく
・被爆して傷を負った兵士を載せた車輌が次々と駐屯地の門を入って行く。
負傷者をのせた担架がひっきりなしに入ってゆく一方、死者をのせた担架が次々と出て行く様子が自宅からよく見えた。
*原子弾のため応戦の時なくいたづらに倒れし将士を思ひて
原子爆弾のために応戦などするすべもなく倒れた将兵の無念さを思って。
・むかへうついとまもあらで仇の火に
やきつくされし恨みつきせじ
・迎え撃つ間もなく敵の爆弾で焼き尽くされた将兵達よ、恨みはつきないであろう。
・如何ばかりくやしかるらむ太刀つるぎ
ぬくひまぞなき弾の力は
・反撃することも出来ないすさまじい威力の原爆では、やられた兵士達はどれほど口惜しいことだったろうか。
*五日市収容所なる国民学校に勤労奉仕に看護に行きて
被爆直後、五日市地区では五日市国民学校の講堂が市民の負傷者の収容所になり、各戸から一名看護奉仕に出ることが義務付けられた。我が家では五男の安夫がまだ乳飲み子であったため、母千鶴子にかわって祖母がその役目を引き受けた。奉仕活動はかなり長期にわたり、ここで詠まれたような収容所の悲惨な光景を毎夜遅く帰って家族に語ってくれた。
「国民学校」:今の小学校を昭和十六年四月から戦争が終わるまで国民学校と呼称した。
・衣さえ身にまとはねばやむ人の
男女のみさかひも無し
・衣服さえ満足に身につけず、火傷を負っているので、運び込まれた患者は、男女の見分けもつかない。
「男女」:「おとこおみな」と読む(旧仮名遣いでは、をとこをみな)
「みさかい」:区別、見分け
・親をよび子を偲びつつただひとり
さびしくよみにゆくぞはかなき
・子供は親の名を呼び、親は子供を心配しながら、逢うこともなく孤独に死んで行く。この儚さよ。
「よみ(黄泉)」:死者の国、あの世
・次々にこえは聞えず玉の緒の
たえてはかなくなるぞ悲しき
・枕を並べて横たわる負傷者が家族を呼ぶ声やうめき声が、次々に途絶え、命の火が消えて行くのを見るのは悲しい
「玉の緒(たまのお)」:いのち、生命
「はかなくなる」:死ぬ
*重患者と死者と枕並ぶるあはれなり
重傷患者ともう既に息絶えた人が枕を並べて横たわっているこの悲惨さ。
亡くなった方は、早々に遺体置き場に運び、患者と隔離するのが普通だが、当時は混乱の極みで人手も場所の余裕もなかったための悲惨な光景だと思われる。
・玉の緒のたえなむ人の枕辺に
香のけぶりのなびくあはれさ
・もう命は長くはないかも知れないがまだ息ある人の枕辺に、既に亡くなった人に供えた線香の煙が棚引いてくる。なんと哀れなことか。
生きながら弔われているような重傷被爆者の最後の思いはどのようなものであったろうか。
・立ちのぼる香のけぶりの数まして
あはれ身にしむたそがれのころ
・亡くなって枕辺に立てられる線香の煙の数が次第に増え、日が暮れてくると哀れさがいよいよ身に沁みる。
・つかのまの夢さまさじと祈りつゝ
追えども追えども蝿ぞとびくる
・うとうととする病人の眠りを少しでも覚ますまいと願うが、追い払っても追い払っても傷口に夏の蝿がたかってくる。
・来ぬ人を今もまつらむかすかにも
よぶこえのしてよみに行くなり
・もう来ない人を未だ待っているのだろうか、かすかな声で呼んでいたと思うと息が止まっている。
・朝すくひ夕たふるる人を見て
はかなき露の命しらるゝ
・朝に助けられ治療を受けて元気にしていた人が、夕方には倒れて亡くなるのを見ると、如何に人の命がはかないものかを悟らされる。
*給食不足を生じ我もてる辯当を興へたり
収容所での給食不足で、自分の弁当を収容者に提供した。
「辯当」:(昼食の)弁当
・乞うままに我もつ飯を興ふれど
よろこぶさまを見るぞ嬉しき
・懇願されて自分の弁当を収容者にあげたけれども、その喜ぶ様子を見てとても嬉しい。
「飯」:読みは「いい、旧仮名遣いでは いひ」
・いたましき姿の人の中にいて
みとる我身の幸ぞ知らるる
・悲惨な姿の収容者の中にいると、看病する側にいる自分の幸せが実感される。
「みとる」:看病する
通院で広島市内に連日行っていた祖母晴子にとっては、運が悪ければ立場が逆転して収容される側となっていたかも知れないので、率直な思いだったと思う。
・小夜更けてかへるやみよにやれや
よりともしもれて袖ぬらしけり
・夜遅く(看護奉仕を終わって灯火管制下の)闇夜を家に帰る途中に、(原爆の爆風で窓の壊れた家から)かすかに燈火が漏れるのがみえて思わず涙がこぼれた。
*傷いえ自由に歩行等せし人程経て倒る
負傷が治って自由に歩き回っていた人がしばらくして倒れる。
「いえ(癒え)」:治る
「程経(ほどへ)て」:暫くして
近所でも、市内で被爆したが外見は無事に見え、本人も幸運を喜んでいた人が、突然倒れて重体になったのを憶えている。
・きづいえてよろこぶ人もときのまに
病の出でてたふれゆくなり
・傷が治ったといって喜んでいた人が直ぐに発病して倒れ亡くなって行く。
「ときのま」:わずかの間、たちまち
・助かりて喜ぶ人の次ぎ次ぎに
よみに急ぐぞあはれなりける
・助かったといって喜んでいた人が次々に亡くなって行くのは、大変悲しいことだ
「よみ(黄泉)に急ぐ」:急死する
・古郷によるべたづねてかへりゆく
親子の上に幸いのるかな
・故郷に親戚知人を頼って帰って行く親子が無事であるように祈る。
「よるべ(寄る辺)」:知り合い、身を寄せて頼るところ
・千万の屍は街によこたはり
やけ野の原となれる廣島
・何千何万の死体が街に横たわって焼け野が原になってしまった広島市よ。
*終戦
終戦昭和二十年八月十五日、終戦の詔勅を聞いた後の晴子の心境。当時の普通の国民に共通のものではないだろうか。
・天地もくづれむばかりおどろきぬ
わがみいくさの仇にくだると
・天地がひっくり返ったほどに驚いた。正義の戦と信じていたのに、憎い敵に降伏するとは。
「天地」:読みは「あめつち」
・我耳をうたがふべくもなかりけり
らぢをによりし玉のみこえに
・自分の耳を疑うわけにはゆかない。ラジオから天皇陛下のお声が聞こえてきたのだから。
「らぢを」:旧仮名遣いでのラジオ
「玉のみこえ」:玉音、天皇の声
・勅なれば今は是非無し軍人
なみだをのみて鉾やをさめむ
・天皇の詔だからもう今は良いも悪いも無い。軍人達よ涙をのんで戦争をやめなさい。
「軍人」:読みは「いくさびと」
「鉾(ほこ)やをさめ(収)む」:武器を引く、戦いを止める
当時一部の軍人が無条件降伏を潔しとせず、徹底抗戦を叫んでいた。
*残弾
本土決戦に備えて備蓄していた砲弾や地雷の類を占領軍に渡すまいと爆破処理した様子を詠んだもの。
・思ひきや仇うつたまに諸人の
家もこころもゆられなむとは
・敵を討つために用意された弾丸の爆破音で、我々の家も心も揺すぶられるとは思いもしなかった。
*江田嶋の山形変りしと聞きて
砲弾処理で江田島の山の形が変わったぐらいだと聞いて。
・数しらぬたまをあつめて捨つるため
やまのすがたもかはるうたてさ
・数多くの弾薬を集めて爆破処理するので、山の形も変わるほどだという。情けないことだ。
「うたてさ」情けなさ、何ともしようのない気持ち
*残弾爆破
残弾の爆破は、軍人の妻だった祖母晴子にとって、日本の軍隊の崩壊を表すものとしてやりきれなく感じたのであろうか、数多く詠んでいる。
・ここかしこ残れるたまはすてられて
音すさまじく火柱のたつ
・あちらこちらで残弾の廃棄処理が行われて、すさまじい音と共に火柱が上がる。
*廣嶋練兵場にて爆破
広島の西練兵場は、重雄のいた中国憲兵隊司令部の真ん前にあった。焼け跡を訪れたとき見た光景か。
・もののふのいくさならしのひろにはに
日毎たまやくひばしらのみゆ
・かつては兵隊達が訓練した練兵場に毎日砲弾を処理する火柱が見える。
「もののふ」:武人、軍人
「いくさならしのひろには」:練兵場
*日々爆破の音を聞き悲しき事のみ耳に入りくる
毎日爆破の音が聞えるし、その他にも悲しいことばかり耳に入ってくる
・うららかに日は照りながら此ころは
やみ夜を歩むここちこそすれ
・うららかに太陽は輝いているが、このごろは闇夜を歩いているような暗澹たる気持ちがする。
*宇品港に行きて
祖母晴子はそれまで広島に住んだことは無かったが、娘時代に日露戦役に従軍する父親を宇品に見送ったことがある。その時のことを思い出しながら敗戦直後の様子を詠んだものと思われる。
・数知らぬ我もののふの船出せし
港に仇の旗ぞ見えける
・日清、日露の戦役からこれまで大勢の日本軍兵士が出発した軍港宇品に今は敵国の旗が揚げられている。
・外国のはたひるがへす船みえて
ゆきかふさまぞうたてかりける
・外国の旗をはためかす船だけが往来するのが見えて情けないことだ。
「外国」:読みは「とつくに」
「うたて」:不愉快、情けなさ
・もののふのものみのあとをたづぬれば
洞の奥にも机みえけり
・港の看視哨の跡に行ってみると、洞窟の奥の方に兵士が勤務した机が残っているのが見える。
「ものみ(物見)」:看視哨
・沖遠く雪の朝も雨の夜も
ものみはねふるひま無かりけり
・少し前までは、雪の朝も雨の夜も眠むらず、沖の遠くまでを兵隊達が看視していた。
・外国のつはもの多く行きかひて
かぜおこしつつ車走れり
・外国の兵隊達が多く往来し、風を起こして軍用車が走る。
「つはもの(強者)」:兵士、つわもの
・さまざまの飛行機低くまひさかり
道行く人を追かとぞみゆ
・一方空にはいろいろな型の飛行機が低空を我が物顔に飛んでおり、まるで地上を歩いている日本人を追い立てているように見える。
・をくるまはかたぶく家の軒すぎて
焼野が原を走りゆくなり
・占領軍の軍用車は、原爆で傾いた家の軒先をかすめて、焼け野が原をとばして行く。
・立ならぶ宇品の庫は残れども
外国人のみゆるかなしさ
・立ち並んでいる軍用倉庫はそのままに残っているけれども、見えるのはこれまで敵だった外国の兵士だけであることが悲しい。
「外国人」:読みは「とつくにびと」
*電車は一部開通すれど河川多く橋皆落ちいれば渡舟通ひ、所々折返し運転せり
市内電車は一部開通したけれども、川にかかる橋が落ちているので、不通個所は臨時の渡し船が通い、電車は折り返し運転をしている。天満川の電車の鉄橋が不通だったのを憶えている。
・わたしぶね車にかはり浮びけり
水の都に橋の無ければ
・水の都といわれた広島の街に橋が無くなってしまったので、渡し船が車に代わって働いている。
・限りある舟に諸人打ちのりて
くつがえりしときくぞ悲しき
・定員の少ない舟に乗客が殺到して転覆したと聞いて悲しく思う。
「諸人」:多くの人、読みは「もろひと」
*老松八月六日よりもえつづけ半年余り、今に消えず、地下に入り盛んに火をふき煙を望す
天満町のあたりだったかと思うが街道沿いにあった松の大木が、原爆で焼けた幹から根の中まで火が回り、八月六日から半年以上煙を吐いてくすぶり続けた。市内に行く度に煙が見えて印象に残っている。「消えずの松」と言われて有名だった。
・一年の半あまりももえにけり
仇の火うけし松の大木は
・原爆の火の洗礼を受けた松の大木は怨みを抱くように半年あまりも燃え続けた。
*救命帯を薪にと配給を受く
不要となった軍の救命帯を家庭用の燃料用薪の代わりとして配給を受けた。太い竹を両端に節を残して筒状に切り、しゅろ縄で結びつけたものを救命胴衣として使用するため、陸軍船舶部隊暁部隊が多量に保存していた。戦後これが薪として付近の家庭に配給された。
「救命帯」:現在でいうライフベスト
・水に入り身をまもるべき品ながら
いまは薪となるぞかなしき
・水に入った時兵士の身を守る救命具として作られながら、いまは哀れなことに薪となっている。
*思ひがけなく京都より静子、雨ふる夜半に訪れ来れり
八月下旬、京都の医師の家に嫁いでいた晴子の次女の静子が、雨の降る暁に一人で突然訪ねてきた。
戦争終結前後、郵便及び交通事情は極端に悪く、特に広島は原爆のため遠くから連絡の取れない状況であった。肉親の安否を尋ねて、静子がやっと広島に来られたのがこの時であった。この一連の数首は、思いがけず肉親に会えた喜びと、旅路での娘の苦労を思いやる親心が率直に吐露されている。
・門たたく音は嵐か松かぜか
都の我が子夜半に来れり
・夜中に戸がかたかたと鳴るので風のいたずらかと思ったら、思いがけず京都に住む我が子が訪ねてきて玄関を叩く音だった。
・さらぬだに淋しき夜半に都より
夢かとばかり嬉しかりけり
・そうでなくても淋しい夜中に京都から娘が訪ねてきた。夢ではないかと思うぐらい嬉しかった。
・夜もすがら語りあかしてもろともに
そのかみ偲び袖しぼりけり
・夜を徹して積もる話をしたが、共に往事のことを想い出して涙にくれた。
*途中汽車とまり、乗り換へ、或は歩行などして来る
静子が五日市へ来る途中、汽車が止まってしまって乗り換えたり、線路不通の所は歩くなど大変な苦労をした。
・ここかしこをくるま下りて歩みしと
聞くだに憂さを思いこそやれ
・途中あちこちで列車を降り、歩いて乗り継いで来たとのこと、聞いただけでもその苦労が思い遣られる。
「憂(う)さ」:つらさ、苦労
*闇の夜五日市駅に下車、家もなく人影もなく道さへわかず。暗をさまよひ、漸く一つのともし火をみつけて訪ひ、役場に行き、折しも来合わせ居られし町長に送られて来れり
静子は闇夜の五日市駅に下車したが、不案内な土地で淋しい夜に道を尋ねる家や人も見当たらずさまよっていた。やっと明かりのついている家を見つけて役場を教えてもらい、運良くその時間に役場におられた町長に案内して貰って来ることが出来た。まさに地獄に仏の気持ちであっただろうと思う。
・一筋に親はらからをたづねつつ
ゆくても知らぬやみに迷へり
・ただ一途に親、姉の安否を尋ねて、行く先の分からない夜の闇をさまよった。
「はらから」:兄弟、姉妹
・なきたまの導きしかと思ふかな
夜ふかきやみ路送り受けしは
・亡くなった人の魂の導きによるものだろうか、遅い夜の闇路を親切な人に送ってもらったのは。
*静子を五日市駅に明夫と共に送りけるとき汽車に燈火なく暗き中にて別れ、又やみ路を十数町帰る
再会を喜んだのも束の間に過ぎ、帰途につく静子を送って五日市駅に行った。駅にも列車にも明かりが無く暗闇で別れを告げ、また真っ暗な道を一キロあまり歩いて帰ってきた。
・ともし火も無きをくるまにかなし
子を送りてやみ路たちかへりけり
・愛しい我が子が、燈火もつけていない列車に乗るのを送って、また暗い夜道を帰ってきた。
「かなし(愛し)」:いとしい
・むつかしき鉄路の旅をただひとり
かへりゆく子のさち祈るかな
・困難な鉄道の旅をただ一人ではるかに帰って行く我が子、ただ無事を祈るだけである。
*風水害の折りに詠める
昭和二十年九月十七日の枕崎台風は原爆に打ちひしがれた人々に追い打ちをかける災害であり、我が家にとっても忘れられない試練であった。「風水害の折り詠める」とさりげない副題がついているところに抑えた強い感情を感じる。
・破れたる家にあらしのふき入りて
むすぶまぞ無き夜半のゆめゝゝ
・窓を破られた家に暴風雨が吹き込んで、一晩中まんじりとも出来なかった。
・水かさはいよいよまして三筋川
橋もあやふく聞ぞ悲しき
・三筋川の水かさはどんどん増えてきて河口近くにかかる橋も危なくなってきたと聞くのも心細い。
三筋川は楽々園の家から五十―六十メートル離れた所を流れている川で、台風の時決壊が心配された。
・高浪は今宵や来むと伝うなり
やから集ひて風の音聞く
・今晩は大潮と重なって高波が来るだろうとの噂だ。家族皆寄り添って風の音、波の響きに神経をとがらせている。
「やから」:一家の親族、家族
海岸の堤防より家の敷地の方が低いため、高波が一旦堤防を越えれば回りは確実に水浸しになった筈であり切実な心配であった。それだけは避けられたのが不幸中の幸いであった。
・すきまもる風をさけつつう孫等を
ふすま重ねてねぶらせにけり
・あちこちの隙間から吹き込む風を避けながら、濡れないところに布団を重ねて孫達を寝かせつけた。
「う孫」:孫の古い言い方
「ふすま(衾)」:寝具、ふとん
*本家の倒れし時入る防空室の今は浸水して内部の備品皆或は沈み或は浮出で居れり
母屋が危なくなったとき避難するために作られた防空壕だが、今では水浸しになってしまって、中に置いてあった備品類は重い品物は沈み、軽い物はぷかぷか浮いている。
・弾さけし室は水のみちみちて
家は動けど入るよしもなし
・敵弾から身を守るために作った壕室に水が一杯になって、家が暴風で揺れ動いても避難することもできない。
「よし」:手段、手がかり
・西東河水ましてかなぢきへ
わがやのわたり嶋となりぬる
・西も東も川の水かさが増え、後ろを通る鉄道の線路も水没して、わが家の周りはまるで島になったように水に取り囲まれている。
「かなぢ」:鉄路、鉄道線路
北側は上流で三筋川が氾濫し、山陽本線の線路の土手でやっとせき止められていた。南側は海、西側は三筋川、東側も小川が満水で、一時は誇張でなくこの歌の通りであった。
・ともし火は夜毎に消えてものすごく
たゞ浪風の音ぞ聞ゆる
・毎晩停電で明かりもなく、ただ波、風の音だけが物凄い。
*数日来の降雨と風も静まり漸く安堵す
数日続いた雨と風はようやく静まってきて、やっと安心できた。
・打ち寄する波は静かになりぬれど
ぬれしたもとはかはかざりけり
・打ち寄せる波や雨風はやっと収まってきたが、悲しみに満ちた心はこの濡れた着物と同じように乾かない。
・今朝みればねやの破れ戸に朝日さし
心の雲も晴るる嬉しさ
・今朝になって寝ている部屋の破れた雨戸から朝日が射し込み、これまでの暗い気持ちがやっと晴れるようで嬉しい。
「ねや(寝屋)」:寝室
*大竹の陸軍病院全部山つなみの為に崖下に落ち、京大より来られし真下博士以下一行もうづもれ原子爆弾によりし患者をみ、研究の処空しく他界誠に惜しき極みなり
この暴風雨によって広島県大野浦(大竹は隣町で、晴子の書き誤りか)で山津波が起こり、陸軍病院が崖下の海に流された。
この災害で京都大学医学部から原爆被爆患者の治療と研究に来ていた真下博士の一行ほか多数の入院患者が遭難した。
晴子の次女静子の夫は京都大学医学部出身の内科医であったので、当時一般にはあまり知られていなかった真下博士一行の遭難に強い関心と同情を寄せたと思われる。
なお、同じ時海まで流されながら九死に一生を得た木村毅一助教授(当時)(放射能調査で広島入りした京都大学理学部グループのリーダー)は、後に晴子の孫知夫の大学での指導教授であった。何かの因縁かも知れない。
・山つなみ起こりて家ももろ人も
がけより落ちてうづもれにけり
・山津波が起って建物も中にいた人も崖から落ちて埋もれてしまった。
・世に高きくすしの君もつはものも
館もろともに消えし悲しさ
・高名な医学者である真下博士も、入院していた被爆将兵も建物もろともに消え失せた。なんとも切ないことだ。
*中原氏公用にて上京の途、京都に立寄り下さる旨、廣島駅まで伝言あらばとの事に薗田に托し度事のあり明夫に持来させしに、帰宅の汽車に乗り後れ闇黒の焼原廣嶋市をすぎ、己斐よりも電車なき為歩行してかへる時、夕暮帰宅の筈乍夜更けてもかへり来ず案じわずらふ折しも漸くかへり来て一同安堵す。語り出づるを聞けば
京都に住む娘に托することがあり、明夫が広島駅まで祖母の使いで行った時の出来事である。明夫の記憶によると、この頃はようやく汽車が動き始めていたが、まだ不定期であった。帰路は汽車が無くなり、知っている道をたどる以外方法はなかった。広島市内を横断する道筋をとったが、途中で完全に日が暮れてしまい、人影もない暗闇の焼け野が原を一人歩くのは実に不気味なものであった。天満川の鉄橋を渡るとき、枕木が焼けて角が無くなっていたので足を滑らせて危うく転落しそうになった。焼け跡で野宿している人が焚く火が鬼火のように見えたものである。
家では夕方の予定の時間になっても帰ってこないので大変心配したが、夜中になって帰宅し、途中の経験を話したのを歌に詠んだものである。
中原博志氏は元陸軍憲兵上等兵で、父重雄が広島へ着任した当時当番兵を勤めた方である。氏は終戦後残務処理でしばらく司令部に勤務されていた。その公用で上京の機会があり、京都にも寄れるので、伝言があればとのことであった。それで明夫が広島駅まで托するものを届けに行った。台風以前の九月前半の出来事であった。
・水深き天満の川の橋くいに
身をささへられ渡りしと聞く
・深い天満川を橋杭に掴まって身を支えながら渡ったと聞く。よく無事だった。
・くれはててあやめもわかぬ焼野原
ここにかしこに青き火のもゆ
・日が暮れ真っ暗で周りの見分けもつかない焼け野原のあちらこちらでちろちろと青い火が燃えているのが見える。
「あやめ(文目)もわかぬ」:模様、色合いも分からないほど暗い
・今も猶屍しづめる天満川
聞くだに寒きここちこそすれ
・今もまだ屍体が沈んでるかも知れない天満川(を橋杭に縋って渡ったとは)、聞いていても身の毛がよだつ気がする。
「屍」:読みは「かばね」
・小夜更けてかへりし見れば衣さけ
きづつき居れど勇み語れり
・夜遅く帰ってきたのを見ると、衣類は破れ、あちこち傷を負っているが、元気に途中の出来事を語ってくれた。
「勇み語れり」という表現に、大試練を乗り越えて気分の高揚した明夫の報告を聞く、祖母晴子の安堵した気持ちが表れている。
・ここかしこあやしき火かげもえ
消えて闇の焼野の風ぞふきくる
・あちらこちらで不気味な火が燃えたり、ふと消えたりして、暗黒の焼け野が原を風がわたって行く。
*東、西、共に数ヶ所、出水、山くづれにて鉄道不通となりし由聞き、静子を早く京都へ帰らせし事を喜べり
枕崎台風で五日市の東西共に数ヵ所で川の氾濫や山崩れが起こって山陽本線が不通になった。これを聞いて娘の静子を台風の来る前に早く京都へ帰らせたことを喜んだ。
・ここかしこ出水に車とまれども
都にかへししあとぞ安けき
・あちらこちらで水が溢れて汽車の交通が途絶したが、娘は京都へ帰した後だから心安らかでいられる。
・世のこえはらぢをやぶれて新文も
出水に今はとまる淋しさ
・ラジオも故障し、新聞も出水で配達されず、世の中のニュースが分からなくて淋しい。
・古郷のおとづれまてばかすかにも
かりがね遠くなきわたる見ゆ
・郷里からの連絡を待っていると、かすかな鳴き声が聞こえて、雁の群が遠くを渡って行くのが見える。
「おとづれ」:便り、手紙、音信
雁は遠くの便りを持ってくると言われる。郷里の大津からの便りを待ちわびている晴子の気持ちが分かる。
・さらぬだに淋しき秋の夕ぐれは
焼野をわたる風ぞふきくる
・普通の時でも淋しい気持ちになる秋の夕暮れだが、焼け野原の広島を吹く風でなおさら淋しく感じる。
・ひるは水夜はともし火になやみつゝ
すきもるかぜに心くだけり
・昼は断水、夜は停電と悩みは尽きず、隙間風にも心くじける思いである。
*宮嶋のいたく風水害に荒れたるよし聞けるが千鶴子参拝してかへり厳嶋神社の損じはげしく海岸旅館など多く流れ失せし旨語りぬ
枕崎台風は宮島に大きな被害をもたらした。風水害後、千鶴子が所用で神社を訪ねた時の光景を聞いて詠んだものである。
晴子は厳島神社の神官に知り合いがいて、原爆投下の前に一家を連れて参拝昇殿したばかりのこともあって気にかかったのであろう。
・潮みてば水に浮かべるみやしろの
あけの渡殿流れうせけり
・潮が満ちてくると海に浮かぶ厳島神社の朱色の廻廊が流されて失くなってしまった。
「あけ」:赤、朱色
・高楼のならびしはたご大波に
のまれてあともとゞめざりけり
・高い建物の並んだ旅館街は、大波に呑まれて跡形も留めないほどだ。
・波よする浜のやかたはここかしこ
海の藻屑とながれうせけり
・浜沿いに並んだ家があちこちで流失して海の藻屑となってしまった。
*廣嶋郵便局に行きし折、最後のお詣りにと司令部跡に行きける折
帰郷を決意した後、広島市に行ってお別れのお詣りをした司令部跡で詠んだ歌。
・かへり来ぬ人を偲びてたたづめば
やれしたもとに時雨ふりくる
・もう帰ってこない故人を想い出して亡くなった場所に佇んでいると、時雨と涙が着物の袖を濡らす。
・ふるさとに帰らばとはむよしもなし
名残をあとにかへる淋しさ
・遠い故郷に帰ってしまったら、再び訪ねてくることもできない。心を残しながら帰るこの淋しさよ。
「と(訪)はむ」:訪れようとする
*瓦斯にあてられし孫、忠夫今日より学校に行く
原爆直後から国民学校一年生の三男忠夫の体調がすぐれず学校に行けなくなった。原因はよく分からなかったが、爆発後広島市内で吹き上げられた塵や色々なものが空を舞って五日市にも降ってきたので、人々は有毒なガスを吸ったと噂し、晴子もその為だと信じていた。やっと回復したとき詠んだ歌。
・嬉しげに友と文屋に急ぐなり
たまのけぶりにきづつきし孫
・原爆のガスで病気になった孫はやっと回復して、友達と嬉しそうに学校へ急いでいく。
「文屋(ふみや)」:学校
*陸軍倉庫を人の襲うと聞きて
この当時、陸軍は本土決戦に備えて色々な物資を周辺の山に横穴を掘ったり、学校の倉庫を借りて分散貯蔵していた。終戦後軍が解体されて管理が混乱した時、これらが心ない人によって略奪され持ち去られた。ここに詠われたことが総て事実かどうかは分からないが、晴子はここで戦争直後の一世相を感じたままに詠んでいる。
・磯ならで野にも山にもみいくさの
たむろのあとによするしら波
・(盗賊のことを白波というが)この白波は浜辺でなく、平地や山中の軍の施設跡にまで押し寄せている。
*国民學校の教員が校内倉庫の品を運ぶと聞きて
知夫の通っていた国民学校近くにも横穴倉庫があった。学校の先生までが、倉庫の品を運び出していたというのは、多分知夫が聞いてきた噂によるものと思われる。当時無責任に様々な噂が飛び交っていたので、今となっては真実かどうかも分からない。
・残されしたむろのあとのしなじなは
導くひとの家に消えゆく
・旧軍の施設に残された品々は、子供たちを導くべき教師の家に消えて行く。
*附近の町村民がまた盗み、争ふと聞きて
いろいろとこのような話があった。
・猶のこるたむろのあとの品々を
あらそひ合ふと聞くぞうたてき
・まだ旧陸軍の倉庫に残された品々を、争って持ち去る人々いると聞いて不愉快に思う。
*勤労奉仕に患者の世話に行きし後発病せる折に
晴子は、重雄原爆死後の広島市内往復や幼い孫達の世話、加えて看護の勤労奉仕での過労と心労で健康を害し病床についた。
・いたつきのなやみはあれど我が家に
子等のみとりを受くる嬉しさ
・病の床に伏して苦しいけれども、自分の家で子や孫の看病を受けるのはありがたく嬉しいことだ。
「いたつき」:病気
看護収容所での家族にも看取られない孤独な被爆患者の身の上と引き比べての晴子の切実な感情であろう。
・ひやすべき氷なけれど水もなく
しのびしひとをおもひこそやれ
・頭を冷やす氷枕の氷も無いが、冷やす水も足りないまま我慢をしていた収容所の病人達のことが思えば不満は言うまい。
*八幡村より女医大前先生毎日来診して慰められけり
八幡村の女医大前先生に毎日往診して頂き、心待ちにすると共に大変感謝していた。
・事繋き身に日毎きてみとりする
君の情けぞ嬉しかりける
・いろいろと多忙な身でありながら、毎日往診して下さる貴女の厚情は本当に嬉しい。
「みとり」:診察、看病
・落ちつきし病のまたも重りきて
くすしの君をまつ夕かな
・一旦良くなった病気がまた重くなってきたので、医師の貴女を心待ちにする夕方である。
*知人白米の入手むつかしき時、山口縣の山村の郷里より運び来しものにて夥しく酢司を作り、食欲不振の御身に見舞とて持ち来られ、家族久々珍らしく食す、新鮮なる鯛寿しなりき
健康を害し食欲のない祖母晴子のお見舞いに、近所の知人が山口県の郷里から運んできた白米で、お鮨を沢山作って持って来られた。明夫の記憶では同じ隣組で晴子が懇意にしていた後藤さんのことではないかと思う。白米は大変貴重で滅多に口に入らないもので一家で大変喜んだはずである。
「珍らしく」:喜んで(希なことを)
・白米に海山の幸とりそへし
きみの情けぞ世にたぐひ無き
・貴重な白米に海の幸、山の幸を添えてお見舞いに下さった貴女の親切は、今の世に他に比べようがないほど有り難い。
・老いのみかう孫も共によろこびて
君の恵みの露にぬれつつ
・年とった私だけでなく、幼い孫達まで一緒に貴女の恩恵に浴して、涙が出るほど喜んでいる。
*中原氏 戦死直後より廣嶋引揚までたゞひとりなにくれと盡されけり
中原博志氏には、父重雄の死後から一家が広島を引き揚げるまで、家族一同大変お世話になった。
・いつの世に忘るべきやはわが家の
柱折れたるときの情は
・わが家の主人が亡くなった困難なときに受けた貴方の情け、親切は、いつの世になっても忘れられない。
「柱(はしら)」:(比喩的に)たよる人、支える人
・事毎に淋しかりけり今の世に
家のはしらの折れしわがやは
・何かある毎に心淋しく感じる。この大変なときにわが家の大黒柱が亡くなってしまって。
・何事も知らでだかるゝ幼子の
よの波風にさけよとぞ思ふ
・無邪気に抱かれている幼児の寝顔を見ていると、世間の苦難がこの子を避けて行ってくれと願わずにはいられない。
・いたつきの床に静かに眠れども
心は千々に砕かれにけり
・体は病床に静かに横たわっているけれども、心は色々な思いで粉々に引き裂かれている。
・思ひきや国はやぶれて柱折れ
かてにわづろう身とならむとは
・国は戦に敗れ、わか家の大黒柱は亡くなり、食べ物にもこと欠く身になろうなどとは思っても見なかったことである。
「かて(糧)」:食料、食べ物
*病気、貨車動かぬ為、また留守居のもの大勢入りこみ動かぬ等、さまざまのさまたげありて
祖母晴子は終戦後出来るだけ早く郷里大津市膳所の家に引き揚げたいと思っていたようである。しかし、健康を損ね、汽車の手配がつかないことや、留守番を頼んでいた人が親戚の人達を大勢いれて立ち退かないことなどで実現しなかった。
・古郷に家居はあれどさまざまの
さまたげありて帰れざりけり
・郷里に家は残っているけれども、色々と障碍があってなかなか帰ることが出来ない。
「さまたげ」:障碍
*連日早朝より夜まで飛行機とび自動車ジーブ走る
戦後進駐してきた連合軍の様子を詠んだもの。一日中飛行機の発着、軍用車の往来が頻繁であった。ジープは見慣れない形の軍用軽車輌だったので、自動車と区別している。当時の年輩の人は半濁音が苦手で、しばしばジーブと濁音で発音した。
・外国のしるしつけたる飛行機の
日毎日毎にまひ下りくる
・見慣れない外国のマークをつけた飛行機が毎日毎日舞い降りてくる。
・外国のつはもののせしを車は
はやてのごとく大路行きかふ
・外国の兵隊を積んだ軍用車がスピードを上げて大通りを疾駆する。
楽々園のあたりでは、つばひろの帽子を被ったオーストラリア兵を乗せて、鼻の低い大型軍用トラックが頻繁に走っていた。
・今日もまた走るくるまに學び子が
傷き倒ると聞ぞうたてき
・今日もまた傍若無人に走る占領軍の車にはねられて、学童が大怪我をしたと聞いて、やりきれない気持ちだ。
今でも沖縄の米軍基地周辺で起こっているという報道を想起させる。
・しらなみのよせたるあとに學び子が
あらそひ拾うと聞くぞうたてき
・米兵がやってきた後を追いかけて学童達が(撒かれたチューインガムキャンディーなどを)、争いながら拾うときいて不快な気持ちだ。
国を占領した米軍を、盗賊の異名である「しらなみ」と掛け言葉で表現したのだろう。
*汐干の折かき取りに行きて
楽々園の前の海は遠浅で潮が引くと砂浜が拡がった。この辺りは牡蛎の漁場ではなかったが、こぼれ貝を拾うことが出来た。今では牡蛎雑炊と言えばグルメなご馳走だが、当時はこれで辛うじて子供たちの栄養を保っていた。
・いつかまたここに汐干とたたづめば
名残惜しくも潮の満ちくる
・何時またここに貝拾いに来られるかと思って佇んでいると、名残惜しくも足元に潮が満ち寄せて来て、帰らねばならない。
*膳所の宅留守居大勢の入りこみ出でず書信にて果さずともかく先発す
膳所のわが家は、留守を頼んだ人の知り合いが空襲で家を焼かれたのか、ことわりなく大勢入りこんでいた。家を空けてくれるよう手紙で催促したがなかなか埒があかないので、見通しが立たないまま、晴子は一足早く単身引き揚げることとした。昭和二十一年二月頃のことであった。
・ただひとりふるさとさしてやからみな
残して出づる楽楽の園
・家族皆を後に残して、たった一人で郷里に向けて楽々園の家を離れるよ。
・すみなれし門を出づればさまざまの
思出残すうみやまの見ゆ
・一年間住み慣れた家の門を離れると、この短い間に起こったさまざまな出来事の思い出につながる海、山、が見える。
*後藤夫人と明夫、知夫に送られて五日市駅より立つ
懇意にしていた後藤さんと二人の孫明夫、知夫に見送られて五日市駅から出発した。
・送られてうまやに立てばをくるまは
人もて山をみせつ入りくる
・見送りを受けて駅のプラットホームに立っていると、列車が乗客を山のように乗せて入ってくる。
「うまや(駅家)」:駅
終戦からしばらくの間交通事情はきわめて悪く、運良く乗れたにしても、列車には機関車や客車のデッキに乗客が鈴なりになってぶら下がっていた。この歌から見ると、人を載せた屋根のない無蓋貨車も連結していたかも知れない。表現上の誇張はあろうが、これがまるで人の山が動いてくるように見えたのであろう。
*駅長の厚意にて漸く乗りこむを得たり
五日市駅長が老婦人の身を気遣って便宜を図って呉れたので、ようやく乗り込むことが出来た。
・老の身は人の情けに安らけく
名残をあとにたち出でにけり
・年とった自分は、人の親切によって、名残は尽きないものの、無事に出発出来た。
*窓より己斐、横川と市内焼跡を見つつ広嶋駅をすぐ
帰郷する際の汽車の窓からみた思いを詠んだもので、時期としてはこの歌集の最後のものである。己斐駅、横川駅と過ぎながら市内の焼け跡を目に焼き付け、とうとう広島駅を後にして思い出の地を過ぎていった。
・亡き人の骨をいだきてをくるまの
まどよりみやる廣しまのまち
・故人の遺骨箱を胸に抱いて汽車の窓から焼け野原の広島の街を名残惜しく眺めて目に焼き付ける。
京都の菩提寺に預けるため、祖母晴子は父重雄の遺骨を抱いて出発した。
・さまざまの恨みはあれどなつかしく
名残惜しくもすぐる廣嶋
・いろいろと悲しく悔しく思うことはあるけれども、またなつかしく名残惜しい広島を今過ぎて行く。
「恨み」:嘆き、残念に思うこと
遺骨を抱いて戦後混乱期の女性の困難な一人旅。様々なことが脳裏をかすめ、万感胸に迫る思いであったろう。祖母晴子は、昭和三十一年亡くなるまで再び広島を訪ねる機会はなかった。
*五日市楽々園の宅に移りすみてより原子爆弾を受くる前に折々よめる
昭和二十年四月に五日市の楽々園へ移り住んでから八月はじめに原子爆弾が落ちるまでの間に、晴子が折につけ見聞きし、感じたことを詠んだものを歌集の後尾に付け加えている。当時、広島は軍事的に重要な都市であるのにも拘わらず、本格的な空襲は受けていなかったが、いずれ空襲は必至だと言われていた。祖母晴子にとって家族全員と一緒に暮らすのは初めてのことで、その満足感と空襲への不安が交錯した大戦末期の生活感情が詠み込まれている。
・いましめの笛のひびきの無かりせば
波も花さく楽々の園
・警報のサイレンの音が無い平和な時だったら、ここはその名の通り麗しい海辺の楽園といえよう。
・とり舟も心おくらむ海老の
浜辺を照らす月のさやけさ
・沖に浮かぶ漁船の人もこの海老塩浜の浜辺を照らす月の光の清らかさに心を打たれるだろう。
住居の地名が海老塩浜であったので海老(かいろう)の浜辺と詠んだのだろう。
*広嶋市に行き空襲警報のために久々見物もならねば許されて福屋の八階楼上より四方眺望、司令部員より説明を聞く
広島市に出てきたが、空襲警報が出たりするので、ゆっくり見物する事もできない。そこで特別に許可を得て福屋デパートの八階屋上から市内をぐるっと展望し、憲兵隊司令部員から説明を受けた。
この日は、家族揃って市内に来た。福屋デパートは中国新聞社と並んで当時数少ない広島市内の高層建築であった。戦時中はスパイ行為対策など防諜の観点から憲兵隊によって、一般市民が福屋などの高層建物の屋上へ立ち入ることは厳重に禁止されていた。武田さんという憲兵曹長が案内されたと記憶している。当日は視界も良く、遠くの島々まではっきり見えた。
・立ちならぶ家居を分けて太田川
清き流れをあまた見せけり
・ぎっしりと立つ家並を分けて、太田川がたくさんの支流の清い流れを見せている。
・高どののならぶひまより橋みえて
水の都にみどり流るる
・背の高い建物の間に橋が見えて、水の都にふさわしく岸の木々の緑を映して川が流れている。
「ひま」:(物と物の)隙間、間
・登りきて四方見渡せばたまふせぐ
こはせし町を蛛手にぞ見る
・屋上に上って四方を眺めると、眼下には防火地帯を作るため家並を壊している様子が、まるで蜘蛛が足を拡げているように見える。
「四方」:読みは「よも」
当時、家屋疎開といって、空襲での延焼防止と避難路確保のため、地域を決め家屋の取り壊しを進めていた。
・大君の宮居のあとの鯉の城
みどりの中にそびえ立つみゆ
・明治天皇が日清戦争の時玉座を据えられた広島城(鯉城)が森の木々の上に聳え立っているのが見える。
*空襲を受けぬ間にと近くの名所のみにても見置かむと本町通りより繁華街を見て泉邸に至る(浅野家別荘)
空襲でやられない前に近くにある名所だけでも見ておこうと思って、本町通りから繁華街を通って浅野家の別邸の泉邸に行った。
・唐国の名所のさまうつしたる
ながめゆかしき泉邸の庭(洞庭湖)
・中国の名所である洞庭湖の景色を模したという泉邸の庭は何時までも眺めていたい。
*山陽會舘
頼山陽の記念館
・さまざまの書をあつめて残されし
君が教へを偲ぶゆかしさ
・古今の書を蒐集して大切に残された山陽先生の教えをゆかしく偲んだ。
「書」:読みは「ふみ」、書物、書
・今の世に稀なる書をたま火より
事無く残せ若人のため
・戦争の時代だが、この現在では貴重な書を戦火から守って、次世代の若者のために無事に引き継いでほしい。
「たま火」:弾火、爆撃、戦火
戦争中だったからこその晴子の切実な想いだったと思うが、どれだけ達せられただろうか。
*偕行社診療所歯科へ義歯のため毎日通へり
祖母晴子は当時陸軍将校の倶楽部であった偕行社の診療所歯科に連日通って治療を受けていた。
・一たびはかゝさでひゞく笛の音
けふも事なく帰り来にけり
・行く度に必ず一度は警戒警報のサイレンが聞こえてくるが、今日も無事に帰宅できた。
・笛の音に心ひかれて立町の
宿にもよらで帰り来にけり
・警報のサイレンが聞こえるので心配で、立町の宿舎に立ち寄らずに急いで帰ってきた。
*久々立町にて一同会食せり、料理店より運ばせ又入浴して帰る
立町の青雲荘で家族一同が集まって会食をした情景と思われる。父重雄は軍務が忙しく、なかなか楽々園に帰れず、また、夜遅く帰っても幼児は寝た後で一家団欒とはいかなかった。そこで重雄が家族を市内に呼び寄せ宿舎に仕出しをとり、ひとときの家族サービスをした時の情景だろう。
・久々にやから集ひて運ばれし
夕げ楽しく打ちすごしけり
・久しぶりで家族一同集まって、仕出し料理の夕食を食べ楽しい時間を過ごした。
「夕げ(餉)」:夕飯、夕食
・珍しく笛のひびきの聞こえねば
そぞろ歩きに時すごしけり
・珍しく今日は警戒警報のサイレンも鳴らないので、あちこちと散策をする時間が持てた。
・湯浴みするひまもこころのいそがれて
ひぐれぬさきにと立ち出でにけり
・入浴する間も空襲があるのではないかと心がせかれて、日が暮れないうちにと宿を出た。
・飛行機の音せぬひまとを車に
袖を分かちてたちかへりけり
・空襲にくる敵機の爆音が聞こえないうちにと、停留所で別れを告げて電車に乗って帰ってきた。
・かへりきてやすろうひまぞ無かりける
笛のひびきてとばり下しぬ
・外出から帰ってきて、さあ休もうと思うまもなく警報のサイレンが鳴り響き、急いで黒い垂れ幕を引いた。
「とばり」:室内に張り垂らして隔てとするもの。ここでは、燈火管制のための暗幕などをいう。
*呉市の爆撃を遠望す
楽々園の家は海岸に直ぐ近くだったので、海上はるか島影に呉軍港を度々爆撃する米軍機と高角砲の迎撃の様子がよく見えた。
・大海の日の出とばかり雲水に
うつりてすごき呉の仇の火
・上空の雲と眼下の海面に呉を攻撃する敵の爆撃の火が赤々と映えて、まるで大海の日の出のように見える。
*大竹の燃料庫の折
七月の末頃か、西の方で油貯蔵庫が爆撃されて燃え上がり、その火と煙は昼夜続いて五日市から見えた。大竹の軍の燃料貯蔵庫がやられたと聞いた。
・我宿に火かげも赤くうつりけり
いま大竹の油もゆなり
・我が家からも赤々とした炎の照り返しが見える。いま大竹の燃料油庫が燃えているのだ。
*所々の燃料庫のもゆ
あちこちで燃料庫が爆撃され炎上した。
・黒けぶり空をおふいてものすごく
あぶらのくらのもゆるかなしさ
・黒煙が空をずっと覆って物凄い。貴重な燃料の貯蔵庫が燃えてしまって切ないことだ。
「かなし」自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう。
*連日諸方爆撃あり黒煙空に満つ
広島湾には呉の軍港、江田島をはじめ軍の施設が沢山あった。そこが連日艦載機の空襲を受け炎上したり、迎え撃つ高射砲、高角砲の煙が空を覆っていた。
・今日もまたひびきと共にけぶりたち
ここにかしこにもゆるうたてさ
・今日もまたものすごい音がして、あちらにもこちらにも黒煙が立ち昇って燃えている。やりきれないことだ。
「うたて」事態のひどい進行を諦めの気持ちで眺めている意
・嶋々のいくさの庫を打ちくだく
おとものすごく煙たつなり
・瀬戸内海に点在する島々にある軍の弾薬貯蔵庫が爆撃されて、轟音が聞こえ黒煙が立ち昇る。
・今日もまたいづち焼くらむ群鳥の
わたるがごとく飛行機のゆく
・今日はどこの都市を焼き払いに行くのだろうか、まるで渡り鳥の群れのように敵機の大編隊が頭上をゆうゆうと通り過ぎて行く。
「いづち」:どこ(何処)
*海老山高射砲撃出す毎に壕内に砂落つ
空襲があると広島市周辺の高射砲陣地から応射することがあった。噂では五日市の東端にある海老山頂上に高射砲陣地があるといわれていた。楽々園の家は海岸近くのため庭は砂地であった。そこに掘った防空壕は側面と天井を板と杭で崩れないよう補強してあった。
・うち出すひびきにゆれて壕の内
板のすきより砂ぞ落ちくる
・撃ちだした高射砲の振動で、入っている防空壕の板の隙間から砂がこぼれ落ちて来る。
*夕方より毎日探照燈諸方より照出され美し
夕方になると毎日夜間爆撃の敵機を探し照らす探照燈(サーチライト)があちこちの島影から光を投げかけた。灯火管制下の闇夜で雲や海面に映える眺めに、晴子は戦争をひととき忘れて、美しく感じたようである。
・数しらぬ光り動きて海照し
はやしのごとく空にかゞやく
・無数の光が動いて海を照らし、探照燈の光の柱が林のように空に向かって輝いている。
・夕されば日毎あまたの海てらす
光り動きて美しきかな
・夜になると毎日海面に映える数多くの光があちこちと動いて、とても美しい眺めだ。
・時のまにかがやく海はやみとなり
あやめもわかず笛ひゞくなり
・一瞬のうちに今まであちこちに燈火が輝いていた海が真っ暗になり、何も見えない夜空にサイレンの音が鳴り響く。
*市内にては今か今かと安き心もなく不安の中に偕行社に行く
晴子は歯の治療のため、何時空襲があるかと不安な気持ちを抱えながら、広島市中心部にある偕行社内の歯科に通っていた。
・日毎きて聞かぬ日はなき笛の音も
たびを重ねていよよ身にしむ
・毎日市内に来て聞こえない日がない。空襲警報のサイレンは何度聞いても慣れることはなく、ますます心に深く響く。
*昭和二十年七月二十八日重雄上京の途に京都膳所に向ひ必要品を少々持ち帰る途中姫路駅すぐる頃飛行機より機銃射撃を受く
昭和二十年七月二十八日重雄が公用で東京出張するのに同行して京都、膳所に行き、家から必要なものを少々持ち帰ってくる途中に、姫路駅を過ぎた辺りで敵の飛行機から機銃掃射を受けた。
空襲警報で列車は途中で臨時停車していたと思われる。乗客は移動中の鉄兜を被った兵士達が多かったのか。祖母晴子が実体験した戦争中の光景が連続写真のように描写されている。
・飛行機の音はま遠く聞へつゝ
をののくひまに弾ぞふりくる
・敵飛行機の音が遠くに聞こえてきて、恐れ震えているうちに機銃弾が降ってきた。
・をくるまの内はこえなく鉄兜
波うちにけり低くふせつつ
・列車の中は乗客皆声も出さず、一斉に床に身を屈め伏せて、頭に被った鉄兜が波打つように揺れる。
・飛行機の音遠ざかり諸人は
みなよみがへりし心地こそすれ
・敵機の爆音が遠ざかり、乗客は生き返ったような心地で、伏せていた身を起こした。 |