空襲警報解除の合図で夜が明ける。すばらしくよく晴れた日であった。
「朝メシの用意ができたぞう」の声で全員食卓につく、半分ほど食べたころ、一瞬の閃光が走る。つづいて、とてつもない爆発音と爆風が兵舎をつきぬける。あわてて外へ逃げ出す。あっという間の出来ごとだった。
広島上空は、あの巨大なキノコ雲がもくもくと晴れ上った空にもり上るのが見える。広島市の中心部から五キロと離れていない海田市の兵舎からである。火薬庫でも爆発したのではないかなと、わけのわからないままただキノコ雲を見上げる。
昭和二十年八月六日の朝だった。午前九時を過ぎると、広島市内から国道をぞろぞろ歩いて北上してくる一団がある。全員着ているものは、ぼろぼろに破れ、素足で、顔は全員「やけど」で火ぶくれており、皆んなが同じ顔に見える。手足もやけどでただれていて「アツイ」「アツイ」を連発しながら、だらりとやけどの手をぶらぶらさせ、ふらふらになって、あてもなくさまよっている。まるで「ゆうれい」の行列を思わせる一団であった。
「兵隊さん助けてください。」と兵舎に入って来た。それらの被爆者を兵舎の空部屋に収容してやけどの手当をすることにした。急なことで薬がない。食用油をぬるだけしか方法がない。一斗かんを開けペンキをぬるハケで一人一人の患部にぬりつける。表面の皮ふが白くやけただれたものがハケにつく。二度目をぬると真赤な肉の部分がぼろぼろにくずれる。再びぬると無気味な白い骨まで見えるものもあった。
被爆者のうめき、人肉の焼けたにおい、そして時がたつにつれて「兵隊さんお水を下さい」といって水をのむと次から次と息を引取っていく者が出てきた。まるで死体処理場であった。
午前十一時、司令部から作戦命令が出た。食料と飲料水をもって爆心地へ救援活動に出動した。広島への沿道は、さっきのゆうれいの行列が長々と続いている。爆心地に近づくにしたがって、火煙の中から人間の焼けるにおいが鼻をつく。むかっとはき気が出てくるのをおさえ進む。昨日外出して遊んだ、すばらしい広島市内は、まったくといっていいほど焼野原である。もしこれが昨日であったらと思うと、生きた気がしなかったものである。
焼けくずれた家屋とまっ黒になって焼死している人がごろごろしている。川に水を求めて集まった人が列をなして川岸で死んでいる。川の流れの中には無数の死体が浮かんでいた。
家屋の下じきになり死んでいる母親にすがりつく二人の子供たち、朝の登校時に電車の中で被爆し、近くの公園の入口にたどりつき、だきあってうずくまっている女学生たち、「兵隊さん水をください」むさぼりあって水をのむと次から次と死んでいった。死んだわが子を力一杯だきしめて、ふらつく母親、そして力つきて息を引取っていく。この世の地獄だ、口にも文章にもとても表現できるものではないありさまであった。
午後二時、死体の収容をはじめる。全身やけどの死体をかつぎ上げると、作業衣に人間の皮ふと肉がこびりつき、ぬるぬるとなる。身元がわからない死体を川原で「だび」に付す。薪を積み上げて油をかけ、その上に死体を十体くらい上げ火をつける。パリパリと薪がもえるジュジュジュと死体がもえる。私たちは地獄の青鬼の役目をしているようであった。このようなことが夕方までつづく。くたくたになり兵舎に帰った。メシをたべる気にもなれない。俺はきょうなにをしてきたのだろうと戦友と話しているうち、なにか悲しくなり泣き出してしまった。
空部屋に収容した被爆者のうち引取り手のない死体が安置されている。明日はこの人たちを焼かなければならない。誰も見守ってやれないのなら俺たちだけでも見守ってやろうと、つかれ切ったからだを横にした。悪夢のような一日であった。
陸軍船舶特別幹部候補生として世間では知られていない潜水輸送艇の乗組員であったのである。 |