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被爆体験について 
山田 玲子(やまだ れいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 11歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 己斐国民学校(広島市己斐町[現:広島市西区己斐上二丁目]) 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 己斐国民学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
広島市己斐国民学校校庭で被爆。当時五年生。一九四五年五月に第一次集団疎開で三年生~六年生までの児童は郡部に行き、縁故疎開で田舎に行った人もいたので児童数は半数位になっていた。私も八月九日に第二次集団疎開で郡部のお寺に行くことになっていた。学校は軍隊が使用していたので殆んど勉強は出来ない状態だった。

八月六日は手旗信号の練習のために八時に校庭に集合。練習中、暑さのために倒れる子どもが続いたので、木陰で少しの間休むようにと先生から云われ砂場に行って坐り友達数人と話していた。その時、男の子たちが「B29だ!」と叫んだので空を見上げると真青な空にB29が銀色に輝き白い飛行機雲がきれいに弧を描いていた。途端に強い衝撃があり「ワァーッ」と運動場にあった防空壕に向かって走る。身体の後から熱い砂場の砂が吹きつけ転がった。次に裏門外側の山に掘ってあった横穴式の防空壕に皆で走ったが一杯で入ることが出来ず、突然に降り出した雨でびしょぬれになり、寒くて歯がガタガタとなり身体をくっつけて友達と震えていた。

己斐町は爆心地から二・五キロメートル地点。家は燃えなかったが屋根、壁、窓、天井など崩れおちる状態だったので、市中心地で火傷やケガをした人々が沢山逃がれて来て、道路や道沿いの家の中はその人々で埋まった。逃げて来た人々を目にした時、私達は我先に自分の家に走って帰った。一キロメートル地点で被爆した父は奇跡的に助けられ、体中ガラスの破片で血みどろで帰って来た。母は顔をケガ。一番上の姉は広島駅で被爆。首、背中に火傷を負って二日目に帰宅。父も姉も治療する薬もなくただ転がっているだけだった。

道にあふれていた人々は、まるでゴミを集めるように集められて学校の校庭で焼かれ、町中悪臭が満ちていた。翌年、食糧難で校庭にサツマイモを植えさせられ秋の収穫時、お芋を掘り始めた時に、骨や髪の毛が土を掘る毎に出てくるので皆、大騒ぎになった。

いつも一緒に遊んで貰っていた、前の家の女学校一年生のお姉さんは、その日から帰って来ないので毎日お母さんが探しに出掛けられたが、結局行方不明。その隣りの家では、子供達五人がお母さんの帰りを待っていた所に、二日目、四つん這いで真黒こげになったお母さんが帰って来て、子供達を見るなり亡くなった。

どこの家にもむごい悲しいこと忘れられないことが起きた一九四五年八月六日です。二度とあってはならないことです。
  

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