私はマルレ船舶隊で比島から台湾に昭和二〇年に来ました。沖縄戦の空中よりていさつ。他台湾の七里渓を根拠地にしてマルレ船舶のバッテリー修理や作戦準備に各隊を回って居ります。
台湾五〇師団直属の部隊(安藤利吉中将)に居り、昭和二〇年三月頃比島から大発で渡台しました。昭和二〇年七月二〇日頃本土、内地に本土決戦のため、部品(主に電気用品)を取りに来るようにとの命令で、大陸回りで内地に着き、八月五日似島病院から検疫のため舟で広島に来ました。その日は日曜日で軍旗祭とかで、一日市内中島町電話局の近くに泊り翌日早朝、宇品の兵站へ台湾に帰るための食料受領に出て、宿に帰途。御幸橋の近くで被爆して、その日と次の朝迄同行の上官(飛行士)をさがしに市内の火災の中を走って回り、自分の身の振り、行く所のしじを受けるため、岩国の海軍の燃料廠に行きました。
手帳(被爆)には宇品の兵站で三・一キロですが、昭和二一年八月に米軍の医者が首の火傷の角度を計り一三・七度の跡と言われ、御幸橋とほぼ一致します。
被爆後体のあちらこちらに腫瘍や今は良いが、夏になると紫斑が出来ても病院で原因不明と言われる事があります。
次に被爆二世、三世と残る障害はあまり知られて居りませんが、今後の重大な課題と思います。
現在も首が一定以上回せず、無意識に回し失神することもあり、そのため昭和二〇年代末より自動車(原動機付の車)に乗れません。これは生活困難の一番原因です。
書けばきりがありません。私の思う要点のみ書きました。
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