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被爆体験記 
山中 千惠子(やまなか ちえこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2024年 
被爆場所 広島市段原日出町[現:広島市南区段原日出町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子商業学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前のこと
父は岐阜の出身でしたが、当時、広島で広島鉄道局に勤めていました。母は吉島の出身で、母の兄弟が南大橋のたもとにあった田中兄弟商店という青果物の卸と、観音・吉島と島荷の荷受けを営んでいました。近くには、刑務所があって、叔父の店に行ったときには、編み笠を被った人が刑務所に入っていくところを見たりもしました。
 
私は、8人兄弟の一番末っ子でした。長女、次女、三女と続き、その下4名が男性で、最後に私が生まれて8人兄弟です。長姉のトヨコとは19歳も年が離れていました。結婚前に悪いうわさが立ってはいけないと、長姉が映画を見に行ったりするときには、私を背負って自分の子供のようにみせかけていたみたいです。父母にしてみたら、私は年をとってからの子どもなので、もう孫のような感覚だったのだろうと思います。一つ覚えているのは、長姉が母に、私を甘やかしているのではないか、と注意したところ、母が「千惠子(ちえこ)より早く生まれて親と一緒の時間を過ごせる兄姉とは違い、この子の成長をいつまで見られるのか、この子がいつまで親と一緒にいることができるのかを考えてごらん」と言っていたことで、私は両親にとてもかわいがってもらったと思います。
 
物心ついたときには、大州に家がありました。戦前、大洲には競馬場があって、騎手が馬に乗って、自宅の前を通ると、家で飼っている犬・ポチが、毬のように馬にくっついてじゃれていることもありました。
 
父は、広島鉄道局勤務のほかに、養鶏もしていて、家には多いときで100羽ほどの鶏がいたようで、卵の卸業者に持って行っていました。「古田のもくさん」と呼ばれ、真面目で有名な人物だったようです。大洲にいたころのことで私が一番覚えているのは、我が家の周辺には軍の下請けをする鉄工所がたくさんあり、そのうちの一つが作った爆弾に不発弾があったようで、一つの工場を憲兵隊が包囲して、夜中じゅう、笛を吹いて、走り回るのが聞こえました。あと、近隣の工場がプレス機械を使うためか、家の中が揺れるほどドスン、ドスンと響き、その音にびっくりしたのか、それから飼っている鶏が卵を産まなくなりました。
 
戦争が始まったのが、確か小学校6年生ぐらいです。今のテレビで、昔の映像を流すことがありますが、母親は、テレビで流れるような延焼防止の水かけやら竹やり訓練やらに駆り出されていました。
 
その後、昭和20年の4月に、軍の命令で、強制疎開ということで、我が家も含め、近所はすべて立ち退きとなりました。そして、段原日出町に引っ越したのです。家は可部寅という呉服屋の借家だったと聞いています。私たちが引っ越してくる前は、海軍の軍人が住んでいたそうで、あのころには珍しい洋間もあり、しゃれた家だったと思います。父は、非常に几帳面な人でしたので、仕事を終えたら、まっすぐ帰ってきて、畑仕事に精を出し、道具もきれいに手入れをしていました。また、新聞を読んだり、いろいろ書き物もしていたようです。変わって、母は主婦でしたが、当時、かなりハイカラだったようで、二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)といった髪型をしたり、実家が商売をしていたこともあり社交性もあって、戦時中、食料が配給制で、なかなか十分な量がないときでも、いろいろお手伝いをしたりして、余分にもらって帰るような人でした。これは子ども心にもとても印象に残っています。性格が全然違う父と母だったのです。
 
私は当時、広島女子商業学校に通っていましたが、長兄が、末っ子の千惠子(ちえこ)だけは学校に行かせてやろうと言ってくれたと聞きました。長兄はもともと務めていた鉄道局を辞めて当時の支那(現在の中国)にあった華北交通株式会社に志願して転職しました。支那に旅立つときには、近所の人も集まって、出征の時のように食事の準備などをして、壮行会をやったのを覚えています。そして、支那から学費の援助もしてくれました。長兄は広島で結婚しましたが、結婚後もすぐに支那に戻って仕事をしていたようで、兄嫁は広島に残って、私たちと一緒に暮らしていました。
 
私は学校に通うといっても、当時は勉強ができるわけではなく、学徒動員で働くことが当たり前でした。動員先である「連合紙器株式会社」はもともと糧秣支廠(りょうまつししょう)の下請けをやっていて、外地に物資を送るために必要な段ボールを準備する会社でした。主な仕事の内容は、段ボールをホチキスで止めることで、今では想像がつかないと思いますが、ホチキス自体が私の背丈ぐらいあり、それを段ボールに同じ速度でテンポよく足で打っていく、そういう仕事をしていました。ほかの部署では、防水のために溶かしたろうを箱に塗ったり、箱に折れ線を入れたりもしていたようです。私は作業班長もしていましたが、一度、見舞金をもらうようなけがをしたこともありました。
 
●8月6日
当時は、段原の自宅で、父と母と長兄のお嫁さんと4人で生活していました。8月6日は、近々動員先が変わるので、友人と一緒に、元の動員先であった「連合紙器」に挨拶に行くことになっていました。友人二人が迎えに来て、縁側に腰かけて座って、私の支度が終わるのを待っていました。
父はその日、東洋工業の近くにあったいいマッサージの先生の予約が取れたとかで、朝早くに出かけていました。兵器支廠(へいきししょう)に勤めていた兄嫁もすでに家を出ていました。当時は、男性が戦争に駆り出されているので、義姉は銃剣を持って門番をやっていたようです。
 
原爆が投下された8時15分に自宅にいたのは、母と私と友人二人です。友人が、「うわぁ、空襲警報解除になったのに、ふるっちゃん(山中千惠子(やまなかちえこ)さんの当時のニックネーム)、飛行機が飛びよるよ」って言うのです。見ると、B29が東から西へ、ブーンと高いとこを飛んでおり、「あら、空襲警報解除になっているのに、何で飛行機が飛ぶのかな」というような音でした。そうしたらピカドンです。縁側に座っていた友人も、私も、母も、爆風で飛ばされました。状況から考えたら、台所にいた母親が一番、直接に爆風を受けたような気がしますね。友達が座っていた縁側は家の向きと爆心地を考えると、間に八畳間があったこともあって、爆風の影響は少なかったと思います。私は、洗面台のある脱衣所にいたのですが、慌てて飛び出して、隣の部屋へ入ったら、押し入れから布団が飛び出していたので、その布団の中へ潜っていました。少したって出てみると、家の中も薄暗くなっていました。母はけがをしているし、友人も傷ややけどを負っていました。その当時、私たちはおそらく兵器廠が攻撃されたんだと思っていたので、また兵器廠が攻撃される可能性もあると思い、家にいては危ないとけがをした母親を連れて、比治山の防空壕に避難することにしました。段原日出町から比治山に行くには、宇品線の線路を渡る必要があるのですが、線路を渡ろうと思ったら、被爆してふらふらになった人たちが宇品に向かって歩いており、いったい何が起こったのか、その時はわかりませんでしたが、とにかく防空壕に向かいました。
 
比治山の防空壕は、山の中腹にあって、いろんなものが入りそうなほど大きな防空壕でした、母が寒い、寒いというので、自宅に布団を取りに戻ったんです。そうしたら、偶然、東洋工業の近くのマッサージに出かけていた父親が戻っていて、腹が減っては戦はできん、というのか、戸棚近くでおかゆのようなものを食べていたので、母が大けがをして比治山にいるからと伝え、一緒に布団を担いで戻りました。当時で覚えているのは、井戸のあるあたりで、女性が大やけどを負って、水をくれ、水をくれ、と言っているのに、誰も水をあげないこと、また、通っていた広島女子商業学校の下級生が大やけどを負っているので、どうしたのかと聞いたら、比治山橋のたもとで被爆したと、そして、一緒にいた人が誰もわからないほど、散り散りバラバラになったというので、気を付けて帰るのよ、と言って別れたことでしょうか。
 
その日のうちに、母親を自宅に連れて帰ろうということになり、戻ったのが夕方です。その時の広島市の中心部は、ものすごい勢いで燃えていました。それこそ火の玉のようでした。家の中で寝ることは難しかったのですが、隣が畑だったので、そこに棒を立てて蚊帳をつって、外で寝ることにしました。父は、もういつ死んでもよい、と投げやりで、外に出たがらなかったのですが、私が「お父さんが死んだら、私たちはこれからどうやって生きていくのか」と詰め寄りました。そうすると、渋々ついてきて、その夜は一緒に蚊帳の中で過ごしました。気が立っていたこともあってか、いつの間にか夜が明けていました。そうしたら、母が、天満町に住んでいた長姉のトヨコがどうなっているのか心配なので、見に行くと言い出したのです。被爆翌日のことで、町がどうなっているかわからないし、難しいと思うと止めたと思いますが、おそらく母はその日に一人で行ったと思います。町は焼け野原で、橋も焼け落ちてなかったと思いますが、天満陸橋という電車用の陸橋があったようです。おそらく母は足もケガして、身体が万全の状態じゃない中でも、子どものことがとにかく心配で、いてもたってもいられなかったのでしょう。天満町についたら、きれいに焼けて何もなかったそうで、長姉たちも見当たらず、戻ってきました。そして、二度目に天満町に行くときには、私も付いていきました。母が最初に行ってから2日から4日は経っていたと思います。道中焼け跡には、馬が焼けて死骸が転がっているだけで、人の死骸はなかったです。周りも、焼け野原でした。そして、誰から聞いたのかも覚えていませんが、長姉たちは、大朝に避難しているということで、それからしばらくして、時期ははっきり覚えていませんが、段原日出町の家に帰ってきました。長姉は、どうして切ったかは分からないけど、切り傷があり、また胸にもひどい傷があって、出血もひどかったようです。我が家に帰ってきた後、姉は離れのような一番奥の部屋で生活していました。そんな時、天満町に貴重品を埋めてあったはずだから取りに行きたいということになり、車力を引っ張って、母も付いていきました。それが大体8月22日ぐらいだったと思います。だから母は、原爆投下後、段原日出町から市街地を通って天満町まで、3回も往復したことになりますよね。帰ってきてから、おなかの具合が悪いと言ってトイレに行きました。すると、2回か3回目から、立てなくなりました。気持ちが落ちたのか、長姉が帰ってきて安心したのか、どうにも動けなくなりました。トイレに行くことすらできないので、私がおまるを用意して、それを使うようになったのですが、それから7日もしないうちに、おまるにも座れないほど、腰が上がらなくなり、それからはずっとおしめを付けた生活になりました。それが、最初のうちは普通だったのに、コールタールのような、本当に驚くような便が出るようになりました。
 
終戦後すぐですから物がなく、おむつも捨てられず、大きなビンに入ったクレゾール石けん液を入れて洗い、ゆすいで、乾かしてを繰り返し、大事に使っていました。そうして母が亡くなる9月2日まで、私一人が看病を続けました。その当時、水を飲ませるとすぐに死ぬぞ、と言われていたので、私は母にも水を飲ませたことがありませんでした。そして、母も案外気が強かったのでしょう、水をくれと一言も言いませんでした。ただ、それが、本当に私の後悔の一つになっています。今でも、なぜあの時、水を飲ませてあげなかったのかと、本当に悔やんでも悔やみきれません。
 
寝てばかりいると床ずれを起こすので、夜も看病があり、私もくたくただった9月1日に、母が父を呼んでくれというのです。私は父に「お母さんが呼びよるよ」と伝えると、母から「お父さんと二人で話をさせてくれ」と言われたのです。母は、体力も落ち、非常に弱っているのに、最後に父に、「長い間、お世話になりました」ときちんとあいさつをしていました。本当に、母はすごい人だと改めて思いました。そして夜中の1時半ごろ、母が「千惠子(ちえこ)、ちょっと起こしてくれ」というので、私が抱きかかえて起こしたら、そのまま息を引き取りました。
 
●被爆後に困ったこと
被爆した時に、飛んできたガラスが身体のいろんなところに刺さっていました。戦後、その時のガラス片をピンセットで取るのがとても痛いんです。ガラス片が出る前に傷口がふさがるので、ふさがった傷口からガラスを取り出すことになり、それが本当に痛かったのを覚えています。私以外にも、顔とか腕にけがをして、その時にガラス片が入り込んでいて、それが何年も経って出てくるんだという話も聞いたことがあります。
 
●戦後の生活
段原日出町の家には、父と私、長兄の嫁が住んでいましたが、天満町の姉の家が原爆でなくなってしまったので、姉夫婦と男の子が3人に一番下の乳飲み子、そして姉の義父母が一時期、一緒にいました。狭い家に大人数で暮らしていました。それから2年後ぐらいに旧ソ連に連行されシベリア抑留を体験した次兄が帰ってきました。ソ連は本当に寒いところだったんでしょう。その寒さが身体に慣れているのか、冬になっても「ぽっきり(袖なしランニングシャツ)1枚で、寒くない」と言っていました。ただ、日本の気候に慣れてくると私たちと同じように服を着るようになりました。支那に行っていた長兄も、ラバウルに行っていた三男も、沼津の海軍にいた四男も兄たちは全員、生きて帰ってきました。
 
戦中から戦後もずっと続いていたのは、食糧がなかったことです。とにかく食べるものがなく、どうにか食糧を手に入れて、日々を過ごしていたのだと思いますが、詳しいことは全く覚えていません。ただ、食べるものがなかったというのが強く印象に残っています。
 
●周囲の状況
長兄の嫁の実家は、材木町で竹田米穀店という米屋をしていました。被爆後、実家の様子を見に行った姉から聞いたのは、原爆投下の8時15分は、ちょうど朝食時、親兄弟が膳を囲んで食事をしていたところに原爆が投下されたので、お膳の周りに骨が残っていたということでした。
 
●ともに被爆者
結婚した主人も被爆者でした。彼は当時、広島印刷という会社に勤めていて、上半身裸になって体操をしていたようですが、その時にピカドンと来たそうです。記憶にはないようですが、どうにか川を渡って帰ったそうです。彼は、高須にあった親せきの家に丁稚奉公で住んでいたようで、家まで何とかたどり着いてそれから意識を失っていたようです。そこへ、親せきが戻ってきて手当てをしてくれ、意識が戻ったと言っていました。
 
それからの生活は、いろいろと苦労もあったと思いますが、勉強もして、よく働く人でした。主人はとにかく記憶力がよい人で、一緒に商売をしていた時のことで覚えているのは、当時は電話交換手を通じて、いろんな取引先に電話することがあったのですが、電話番号を全部暗記しているぐらいの人でした。結婚するときは、私にも主人にもすでに親はなかったので、これからこの人と一緒に生きていくんだと腹を決めました。
 
●その後の人生
40歳になるかならないかの頃に、昔、青果業をやっていた主人が、お店を譲ってもらうことになり、夫婦一緒に有限会社二蟻屋(ふたありや)を広島駅前で始めました。主人は、会社をどんどん発展させようと借金をするのですが、私は借金が嫌いで「商売モンの嫁が借金が嫌いでどうするか」と言われたこともあります。
 
それから安佐南区の長束に家を建てました。もともと、山側に住んでいたので、最寄り駅までも遠いし、そこから横川駅で乗り換えて、また広島駅まで行くことは、なかなか大変でした。主人は、もっと朝早くから車に乗って仕入れをしてから店に行っていました。そうして働いて、主人が苦労して建てた家です。主人も手放したくなかったと思いますし、私も手放したくありませんでした。その気持ちを汲んで、今は息子夫婦がその家に住んでくれています。今までも私の世話も含めて、息子も息子の嫁も本当によくしてくれるので、私は幸せ者です。
 
●これからの時代の人に伝えたいこと
とにかく戦争はいけないし、してほしくないと思います。原爆を使うなんて、もちろんだめです。戦争を始めれば、どちら側にもいいことはない。勝った方にも、負けた方にも、どちらにも犠牲が出ます。だからお互いにある程度譲り合って、話し合いで解決するようにすべきだと思います。また、昔と今とでは、国が持つ力が違います。こんな中で絶対戦争はするべきでないと思っています。
  

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