実家は練馬区にあるが、元々父は広島市の出身である。今年94才の父は、1945年8月6日の原爆投下時、広島日赤病院近くの爆心地半径1.4kmの所に住んでいた。その日は採用が決まった代用教員の就任式で、真新しい服と靴を前に、父は緊張と期待で家を出る準備をしていた。真夏の暑い日、朝方の空襲警報が解除され、家の中にはホッとした空気が漂っていた。そのような中で突然の投下。原爆が炸裂した瞬間、辺り一面は真っ暗になり、庭先に爆弾が落ちたかと思った父は、死を覚悟したそうだ。しかし家は頑丈で、傾いただけだった。状況は把握できなかったが、とにかく逃げなければ!祖母の「先に逃げて。私はあとから近所の人と逃げるから」と言う言葉に、父は1人で逃げることとなった。とっさに、本能的に、非常持ち出し袋にお米と靴下を詰め、避難開始。逃げる先々で、被爆した人たちの惨状を目の当たりにした。市内太田川に水を求めて押し寄せる人たち。息絶えている人たち…父の話の中で特に痛ましいのは、ペンキ工場での話。閃光で火傷を負った人たちが、痛みを和らげようと、我先にと赤や黄色の油性ペンキを焼けただれた皮膚にペタペタと塗っていたそうだ。
夕方、多くの人たちが逃げて行った飛行場では、遠く市内上空が赤く染まるのが見えた。市内は炎に包まれ焼け野原となり、父の家も失くなった。幸いにも父は黒い雨にも会わず、健康には問題がなかった。戦後、広島復興計画のため家の大半が召し上げられたり、様々な艱難に耐え乗り越え、今は平穏に暮らしている。その父も最近は気力が衰え始めている。父の記憶が確かなうちに、私は父の昔の話を聞いておくことにした。
数々のエピソードの中で、原爆以外で印象的だったのは、呉港で学徒動員に従事していた頃のことだ。当時呉港は軍港で、多くの戦艦が入港、停泊していた。父の任務は、タグボートの簡単な操作、石炭くべや人間魚雷の個数の点検等。人間魚雷には脱出装置がなく、父は強く衝撃を受けたそうだ。そんなある日、国民的人気の戦艦大和が修理のため入港し、生徒の間ではその話で持ちきりだった。友人と父は大胆にも大和潜入作戦を立て、決行。憲兵の目をかいくぐり潜入に成功。艦内を探索したそうだ。その時の心境はワクワク、ハラハラ、ドキドキ…手に汗握るシーン。もしも、その時憲兵に捕まってでもいたなら…。
また呉軍港空襲では、敵機グラマンの大群が来襲した。父たちは防空壕で息をひそめて空からの襲撃を眺めていた。パラパラと雨のように爆弾が降って来る。友人はつい防空壕から身を乗り出してしまい、腕を負傷した。海に打ち込まれた機銃掃射の衝撃で、スズキが気絶、絶命し、大量の魚がプカプカと湾に浮かんだと言う。敵機が去った後、そのスズキを船長はじめ皆で捕り、お刺身にして食べた。ひもじかった時代の、一同の美味しい思い出だったと言うのが悲しい。
さて、父の話によれば、実家は昔、広島藩下級藩士で、明治時代に宮大工となり工務店を営んでいたそうだ。自分の先祖が厳島神社や鳥居の修復、保全に関わっていたとは、ちょっと誇らしい。そのお導きなのか、広島にはご縁がある。
早大理工卒の長男が偶然にも初就職した自動車メーカーが広島。その長男が出会ったお嫁さんが広島、呉の人。結婚式も広島。孫の誕生も広島。私も広島生まれだ。以前、海外からの視察に随行した通訳ガイドの私の担当も広島だった。
広島と言えば、私は不思議な体験をしたことがある。原爆ドーム至近のホテルに一人で泊まっていた深夜1時過ぎ。誰か帰ってきたようでエレベーターホール付近が妙に賑やかだ。楽しそうに談笑する親子の声が今でも耳に残っている。大声なのになぜか言葉が聞き取れない。子供は小学生のようだ。仲のよさそうな笑い声。それにしても深夜いつまでも騒がしくて、全くもう!睨みを聞かせよう!と思いドアをサッと開けた。しかしエレベーターホールに人影はない…誰もいない…声もピタッと止まった。不思議だ…場所が場所だけに…原爆で一瞬にして命を落とした親子の魂が、未だに自分たちの死を自覚しないまま、はしゃいでいたのかも知れない、と思った。原爆投下の瞬間、父が庭先にでも出ていたら私にしても生まれてはいなかった。偶然に左右される命。これまで特別な事もなく、いたって平凡な私の人生ではあったが、父の話からは、平凡こそが最高と思えるようになった。
ここまで書いて、原稿を父に見て貰った。すると普段は強気の父が、読みながらポロポロと涙をこぼした。胸の中にたまっていたものが一気にこみ上げて来たようだ。父の心の中に未だ癒えない傷があるのを私は初めて知った。
2022年現在、感染症や戦争の影が平穏な日常を脅かそうとしている。このタイミングで父の話が聞けて本当に良かった。戦争は遠いものではなかった。平和ボケしていた私だが、これからの時代を生きる子供や孫の世代が、一度きりの人生を平凡でも全うできるような世であるように…とつくづく、より一層思うようになった。ささやかながら、今私にできることは何かないかと考える日々である。
掲載元:早稲田大学校友会東久留米稲門会発行『東稲ニュース 第127号』
文中の「父」三木忠(みき ただし)さんは、17才のときに千田町で被爆し、令和6年1月12日にご逝去されました。 |