●自宅周辺の思い出
原爆資料館(広島平和記念資料館)には、貴重な遺品が集められ、大切に保管、展示されていて、国内外の多くの方々に衝撃を与えています。
私は、昭和二十年八月六日午前八時十五分、爆心地より八百メートル離れた、当時の大手町七丁目で被爆しました。あの日から十五日後の八月二十一日、私の毛髪は抜け落ちました。放射能を含み、壁土を被ったままのその毛髪は、赤茶けた小さな固まりとなって、資料館に残されています。
私も何度か入館する機会がありましたが、被爆者としての思いの中に、何か満たされないものがあります。ここからは、体の焼け焦げるにおい、うめき声が聞こえてこないことに思いが至るからです。
私が大手町小学校二年生の時、日支事変が始まりました。戦争の時代に成長したわけですが、白神神社(白神社)の鳩たちへのエサやり、また旧公会堂(市役所隣)の庭での遊び、夏は萬代橋周辺での川遊び…。旧国泰寺境内の池には亀や鯉がいました。戦時中なりに楽しい思い出がたくさんあります。
旧大手町七丁目の自宅から近い電車通りは、たびたび電車の運行が止められました。全国から集結した兵士や戦車、軍馬の列が、西練兵場から宇品港に向かって通行するのです。それらの兵士たちは、宇品港から戦地に送り出されます。出征兵士の傍らに寄り添って母親や妻らしき人々が歩む姿が、私の脳裏に今でも鮮明に残っています。
年を経て、私も大人となり、妻となり、母親となり、思い出をたどるたびに、この光景に深く思いをいたすのです。日の丸の小旗を振って見送る沿道の歓声、人々が散った後の線路通りに残されたおびただしい馬糞のにおい、それを食べている犬たちの姿。歓声の後の一抹の淋しさを覚えたことも思い出されます。
昭和二十年八月六日、同じ電車通りには、全身が焼けただれ、髪が逆立った、ほとんど半裸の姿の人の群れが、西練兵場方面から次々にやって来るのです。そんな行進を見ることになろうとは、夢にも思いませんでした。
当時、私の家族は、両親、姉(二十一歳・観音三菱勤務)、私(十八歳、祇園三菱勤務)、弟(中学二年)、次弟(大手町小四年・庄原に学童疎開中)、末弟(大手町小一年)の七人でした。
空襲はたびたびありましたが、呉方面に通過することが多く、眠れない夜はあっても、広島には落ちないという変な安心感があったような気がします。町内会では、消火訓練が盛んで、建物疎開も着々となされていました(建物疎開、軍需工場などに動員された学徒、国民学校・中学校生徒、二万五千八百三十三人の命が犠牲になったことを、後に聞かされました)。
そんな折、庄原の寺に疎開中の弟が病気になり、母親に来るようにとの知らせが入りました。八月六日の前夜、わが家でちょっとした問題が起こりました。母のいない間、とりあえず私が留守を守るようにと、父から言われたのです。町内会では「空襲に備えて、一家に大人が一人は必ずいて、万一の時は消火に当たるように」との決め事がありました。
しかし、職について三カ月という私に、休みを取ることは難しいことに思えました。だから、あまり逆らったことのない父に、精一杯の抵抗をしたのです。父は「親の言うことを聞けないのか」と叱り、私は泣き泣き床につきました。何か予感というものがあったのかもしれません。原爆投下後、私と弟の行方が分からない時期、父は自分の一言が私を殺したと嘆いたそうです。後で聞かされました。
六日の朝、家族はそれぞれ家を出て、母は芸備線で弟の待つ庄原に向かいました。わが家は、夏休み中の祐策と私の二人になりました。
●音楽好きだった祐策
祐策はみんなから格別に愛されていました。男の子なのに、小学校に入るまでお河童頭でした。よく女の子と間違われるほどでした。優しいナイーブな子で、音楽が大好きでした。
当時は、クラシック音楽、特に敵国の音楽を聴くことは禁じられていたので、灯火管制中にスピーカーを耳にくっつけ、気がねしながら聴いていたことを思い出します。たとえ同盟国のドイツ音楽であっても、敵国音楽と混同されて、非国民とみられる時代でした。祐策が悲しい曲を聴いて涙していた姿を覚えています。
食料の不自由なころでした。祐策はわずかな米に多くの麦を加えたお釜を横目で見ながら「僕、いまおなかが空いていないの」と食べようとしません。そして、底にお米が少々多くなるころになると「僕、お焦げでいいから、やはり食べようか」と言って食べるのです。麦と米のまじったご飯を炊くと、麦は上に、米は底に集まるということを知っていて、小さな頭で考えた精一杯の知恵だったと思います。
●「これが死」と直感
六日の朝、一度発令された警戒警報が解除になりました。
祐策は、私より一歳上の隣家のトシちゃん宅に行っていました。祐策が家に帰って二、三分もたたない時、フラッシュが光り、その中に通りの石垣と祐策の姿が、浮かび上がるように目に入りました。
その一瞬後、轟音とともに三階の家屋が頭にのしかかり、私の身体は暗闇の底深く、ずしんずしんと沈んでゆく感じになりました。息もつけないような衝撃です。とっさに直撃弾を受けたと思いました。痛みはなく、ただ「熱い」という感覚でした。「死とは、このようにやってくるものか?」。本能的に「これが死だ」と感じたのです。
真っ暗で何も見えません。心の中には信じがたいほどの落ち着きがあるのに、別の混乱も広がってゆきました。身動きのできないまま、父母姉弟たちの顔が一つずつ脳裏をよぎって走馬灯のようにまわり、すぐに消えてゆくのです。小説で、しばしば語られていたことは本当だったのです。静寂の中、何をなすべきかも分からないまま、私はただ両手を合わせました。実際に手を動かせたかどうかは定かではありませんが、後で掘り起こされた時、せめて見苦しくない姿を、軍国の乙女としての死をと、とっさに願ったのは事実です。これが十八歳の日本国民としてなし得るすべてであったのです。
不思議な静寂の中、どれほどの時が過ぎたか分からないまま、ふと我に返りました。祐策のことが私の頭によみがえったのです。
●祐策を助けなければ
「あのフラッシュの中で見た祐策を助けなければならない」。助けてくれるものであれば、何にでも祈りたい気持ちでした。信仰というほどのものは持っていませんでしたが、わが家の宗教は真宗でしたので、朝夕、仏壇に向かって合掌するのは、家族の習わしでした。私は死を目前にして、全身全霊をあげて祈ったのです。「神様、仏様、祐策を助けるために、私を助けてください」。身動きの取れない私は、力の限りもがき、暴れました。
そのうち、不思議な力が働いたのか、やっとのことで脱出できたのです。瓦礫の山の頂上のような場所に座って目に入ったのは、見たこともない光景でした。朝だというのに、空は薄暗く、太陽がぼんやりとして見えるのです。以前見たことのある日蝕を思わせました。そして地獄から聞こえるようなうめき声が耳に入ってきました。それが人間の声だと分かったのは、しばらくたってからです。
あたりを見回すと、私のいる場所よりはるか下の方に、祐策がうごめいています。祐策は私を見つけて、這って私の所まで登ってきました。そこで二人は抱き合って「よかった、よかった」と言い合いながら、しばらく泣いていました。でも、それも長くは続きませんでした。近くに火の手があがり始めたのです。
祐策を背負い、瓦礫の山から道路らしき場所に下りて、二人とも裸足で電車通りに向かいました。あちこちの瓦礫の下からは、下敷きになって助けを求める叫び声が聞こえてきます。しかし、それを耳にしても、なす術はありません。ただ、幼い祐策の手を引いて、とりあえず市役所の横の広場に行き、茫然とたたずんでいました。
あちこちから、火があがっています。「このまま、いつまでもここにはいられない」。行き先を考えなければなりません。人々は口々に比治山と口走っています。しかし、私の頭には「とにかく広い所に行こう。兵隊さんのいる所がいい」という考えが浮かびました。
確か吉島には、沖合を埋め立てて造った軍隊用の小さな飛行場があった…。私は祐策の手を引いて市役所を後にしました。日赤病院の裏門の通りを過ぎる時、白衣の兵隊さんがホースで消火しておられたのが印象に残っています。日赤に助けを求めた人もあったのに、なぜ吉島を目指したのか、今でも分かりません。
南大橋の手前で休みました。川辺は焼けて、赤くめくれた身体を冷やすために、大勢の人が隙間なくうごめいていました。すでに川面は流れる死体でいっぱいでした。
木造の南大橋の橋げたに火の手が上がり、男の人が水を含ませた長い「叩き」で消火している様子を見て、「こうしてはおれない。橋が焼けないうちに渡らなければ」と、元気のない祐策の手を引いて、先を急ぎました。
灼熱の太陽が容赦なく照りつける長い土手を、裸足で歩き続けました。そのうちに突然、小型飛行機が頭上に現れ、何度か低空で攻撃してきました。私たちはそのたびに恐怖に襲われながら、土手から下にあったナスやキュウリの畑に逃げ込みました。
●満身創洟の体で
後で分かったことですが、私は頭部と両肩のけが以外に、両足に三十七カ所の裂傷を負っていました。特に右足の骨の出た所には棘が刺さり、吉島に向かう時、いやというほどの痛みに耐えて歩きました。土手の道を、被爆者が列を作って歩いています。私には亡者の行進のように見えました。
祐策を励ましながら飛行場にたどり着いた途端、私は崩れかかった兵舎のベニヤ板の上に倒れ込み、ほとんど動けなくなりました。すでに多くの負傷者が横たわっています。私は倒れた柱を枕にして、横になりました。兵隊さんの姿は心強かったものの、私の右足は倍くらいに腫れ上がり、裂けた傷口は汚れにまみれていて、今にも化膿し始めるのではないかと思われました。
周囲を兵隊さんが慌ただしく動き回り、次々に息絶える死体を処理しています。私の横には若いお母さんが、息絶えている赤ん坊を抱いていました。しばらくすると、赤ん坊だけになっています。お母さんは見えなくなり、再び姿をみることはありませんでした。そのような状況の中で、私はどうしたら祐策を守ることができるかと、心を痛めていました。
夜が来ました。真っ暗の闇ですが、市中を焼く火を映して、空が赤く染まっています。その空を見つめていました。
だんだんと夜が深まって参りますと、思いがけない寒さが待っていました。体を動かせる人は、垂れ下がった黒布のカーテンを引きちぎり、寒さから体を守っています。私は動けないまま、傷ついた体を震わせるだけでした。それを見かねて、兵隊さんが筵(むしろ)を一枚くださいました。
祐策に、筵に一緒にくるまって温まろうと言いましたが、祐策はなぜか拒み続けました。仕方なく私は一人で筵を体に巻きましたが、口の開いた傷口に筵のあちこちが刺さって、とても痛みました。でも、その痛み以上に、祐策が急に無表情で無口になったことが痛ましく、涙が出て仕方ありませんでした。
●血の気がうせる衝撃
周囲には息絶えた人たちが並んでいました。広島の空には熱気が残り、飛行機による医薬品の運び込みは不可能だという話を、だれからということもなく聞きました。負傷者の処置はできません。死体は言うまでもなく、けが人の傷口にもたくさんのハエが群がり、暑さが加わるにつれて、死体や傷口の臭気が強まってきました。
熱砂の中にテントが張られ、衛生兵による治療が始ったのは、原爆投下から二、三日たってからだったと思います。ただし、テントまで行ける者だけを診るということです。傷口が膿み、立って歩けない私は、祐策を連れて膝で這い這いしながら、テントを目指しました。その時です。砂地におびただしい死体が並んでいるのが目に入りました。私が横たわっていた周囲だけではなかったのです。死体は一様に眼球をカッと見開いています。開いた目や口に、砂がびっしり詰まった死体も少なくありません。髪は逆立っています。この世の光景とは思えません。血の気がうせる衝撃でした。
必死になって、私はテントに向かって這いました。傷ついた身にはかなり遠く感じられました。やっとたどり着いた時は、すでに長い行列ができていました。そして、炎天下で順番を待っているうちに、息絶えてしまった姿もありました。やっと順番が来たものの、私の両足の三十七カ所の傷は多過ぎて、一度に手当てすることができません。傷口から露出している向こう脛の骨には、砂が付着しています。それを取り除く作業をしながら、兵隊さんが怒りをにじませた口調で「傷口の管理ができていない」と、厳しく私を叱りつけました。叱られたことで、傷の痛みとともに悲しみをかみしめながら、治療を受けました。
●姉ちゃんと一緒に死のうね
その日も、偵察を兼ねているらしい米軍機の空襲があり、そのたびに警報が鳴りました。しかし、逃げようにも、私は力を使い果たしていました。もう何の力も残っていませんでした。「姉ちゃんから離れるんじゃないよ。姉ちゃんと祐策は、ここで一緒に死のうね」。祐策にそう話しかけたことを思い出します。彼は頭を動かして、うなずいただけでした。
毎日、兵隊さんが枕元におむすびを置いてくださいました。しかし、私たち重傷者には、それを口に入れる体力、気力はなくなっていました。そのうちに暑さの中で、せっかくのおむすびは腐ってしまいます。肉体からあふれる膿にハエは容赦なく群がり、腐ったおむすびにもたかる状態です。枕元の腐ったおむすびを取り除くこともできませんでした。
夜になると、暗闇に子供のあどけない歌声が響いてくることがありました。「カラスなぜ泣くの」とか「夕焼け小焼け」を歌う声が、かすかになり、静かになったと思ったら、翌朝は冷たくなって、どこかに運ばれるといった状態でした。ベニヤ板の上に、裸で横たわった婦人の背中は赤むげの状態です。その人が、時々、苦しみながら体を起こす時、板にくっついた皮膚がむける不気味な音が聞こえるのです。その音は今でも耳のどこかに残っています。いつの間にか、その婦人のうめき声も皮膚のむける音もしなくなりました。
あふれるほどの死者は、次第に片付けられたり、親族に見つけられ、荷車などで運ばれていきました。その光景を見て「父母姉弟は、もうこの世にはいないだろう」という思いが起きてきました。「祐策は私が育てていかなければ」とも思いました。祐策は動けない私に、時に無理を言って困らせました。そんな時、兵隊さんが祐策に「お母ちゃんに無理を言うんじゃないよ」と、言葉をかけてくださったこともあります。十八歳だった私ですが、その姿は「ボロボロのお母ちゃん」に見えたのでしょう。
●よもやの救出
六昼夜を過ごした朝、思いもよらない出来事が起きました。祇園三菱の上司が職員の捜索のために、負傷者の収容所を回っていて、偶然に横たわっている私を見つけてくださったのです。「とにかく、明日、救助に来るから」という言葉を聞いた時の喜びを、どう表現したらよいのでしょう。
その夜も暗黒でした。だんだんと弱くなってゆくうめき声を耳にしながら、一睡もできないまま朝を迎えました。どれだけ時間がたったか、はっきりとは分かりませんが、見知らぬ三人の男性が大声で「吉田さん(私の旧姓)はいませんか」と、声をかけながら近づいてこられました。一歩も歩けない私のために、二人が担架を用意しておられます。弱っている祐策を背負うためのお一人もおられます。前日に私たちの姿を見られた上司の人繰りのご配慮を、今にして思わずにはいられません。
炎天下、私を乗せた担架と祐策を背負った三人の男性が、私たちが逃れてきた土手を通って、私の勤務先のある祇園に向かいました。照りつける太陽の光を避けるため、顔に手ぬぐいのような布をかけてくださいました。初めての小休止で担架が地面に下ろされました。そこが本川橋のたもとであったことは、後になって分かりました。顔の布を取り除いて見た光景は、生涯忘れることはできません。
担架に横になったままで視野に入ってくるのは、見渡す限りの焼け野原でした。私のすぐそばには、まだ真っ黒になってくすぶっているような無数の死体がありました。それに、焼けただれて、一様に手をのばして空をつかもうとしている真紅の裸体。不謹慎な言い方かもしれませんが、焼き鳥を連想させました。
●ミカンの缶詰の甘さ
川面を流れる死体は、長い鳶口によって、次々に岸にあげられています。何列にも並べられた死体の間を、きちんと和服モンペを着て、日傘を差した女の人が、一人ひとりの顔を確かめては移動しておられ、その姿がとても異様に見えました。どの死体の顔も膨れていて、判別はむずかしかったはずです。
私たちを運んでくださる三人のうちの一人が、対岸の焼けた大きな倉庫から、当時としては貴重なミカンの缶詰を持ってこられました。その人は缶を何とかこじあけて、ミカンを取り出して、口に入れてくださいました。焼けた余熱のせいか、熱い熱い、そして甘いミカンでした。少なくとも私の記憶では、被爆後初めて口にしたものでした。
しかし、そこは長く休める場所ではありません。三人の方は、道らしい所を選んで先を急ぎました。横川を経て、祇園の三菱にたどり着けたのは、夕方にかかる時刻でした。
私たちは、工場内の宿泊所らしい家屋の畳の上に横たわりました。担架に横になっていながら、私の体力は限界となっていました。担架の運び手の方々に、お礼の言葉を申し上げたのかどうか、どうしても思い出せないでいます。
上司の命令とはいえ、見ず知らずの私たちのために、想像に余る遠距離を、ましてや爆心地付近を通って往復してくださったのです。その後、歳月を重ねるたびに、「あの方たちに、放射能の影響は出なかったかしら」と心が痛みました。
私たちのうわさが伝わって、私が所属していた課の人たちが、私を見に来てくださいましたが、どの人も一様に怖いものを見るような哀れみの表情をされるのです。
半月くらい前に可部に疎開していた先輩が来て「知らせるべき人があれば知らせてあげよう」と言ってくれました。父母姉弟はすでにこの世にいないと思っていましたので、可部に嫁いでいる従姉に伝えてほしいと頼みました。
後に知りましたが、父と姉は職場で、弟は勤労奉仕で広島電鉄で被爆したものの、かろうじて助かりました。母は庄原に向かう汽車の中で、きのこ雲を見て心配しながらも、引き返す術もないまま庄原に着きました。弟の病状をまず見届け、広島に向かう列車が動くのを待ち、やっとの思いで乗り込んだそうです。しかし、広島に入市するのは不可能でした。とりあえず当時の安佐郡狩小川村小河原の母の姉の家に、身を寄せました。そこで、私と祐策以外の家族が顔をそろえたのです。
●母と姉が懸命の捜索
翌日、母と姉は自宅の焼け跡に足を延ばしました。瓦礫の山の中を探しましたが、私と祐策の姿はありませんでした。お隣りのトシちゃんは、白骨になって見つかったそうです。あの日、祐策の帰宅が二、三分遅れていたら、同じ運命をたどっていたことでしょう。
母と姉は、自宅の焼け跡を探した翌朝から、毎日徒歩で峠を越えて、収容所から収容所へと、私たちを探し歩きました。それが六日間続きました。
七日目。二人は似島に設置された死体置き場に行きました。姉が母に「生きている時のきれいな二人を思い出にして、探すのは今日でおしまいにしよう」と言い、母を促して小河原に帰り着きました。その時、夜道を歩いて駆け付けた可部の従姉から、私たちの消息を聞いたのです。母はその時の驚きと感動を、後に話してくれました。
伯母の家には、数家族が避難していました。それらの人が手伝ってくださり、荷車に棒を四本取り付け、シーツを屋根に仕立てました。その荷車を引いて、父母姉の三人は夜中に祇園に向けて出発しました。可部を経て祇園に到着。夜が明けたころ、私たちは会うことができたのです。感無量の対面で、母たちと抱き合って泣きました。
この数日来のショックは、祐策の小さな体と心に影響を与えたのでしょうか、人一倍母に甘えていた祐策が、まるで泣く力も失ったように、無表情だったことが印象に残っています。
灼熱の日差しの中、私を乗せた荷車は、可部を通り、小河原に向かいました。父が前を引き、母が後ろを押し、姉が祐策を背負っての長い道中でした。
私の状態はかなり悪く、途中で医院の門をたたいて注射を受けたほどです。伯母の家の離れの一室に体を横たえることができた時は、あたりはもう真っ暗になっていました。伯母一家と私たちと同様の避難家族、そして近所の方々が、提灯をかざして、喜びを口にしながら、私たちを出迎えてくださったことを思い出します。
村には内科医が一人おられました。しかし、次々に運ばれる負傷者や死人に、手がまわらない状態です。毎日のように、山の焼き場に死者を送る列が続いていました。村中が避難家族を抱えた時期でした。私の三十七カ所にも及ぶ膿だらけの傷口の手当は、結局、母がすることになりました。
●祐策の発病
そのうちに、私の家族も発熱、下痢、歯茎からの出血が始まり、倒れてしまい、六畳一間の部屋に枕を並べる事態になりました。ただ一人、母は体力の限りをつくしてくれました。そのおかげで、みんなが徐々に回復してきましたが、私の状態は日に日に悪くなるばかりです。その中で祐策は表面的には無傷でした。だから、あまりに元気のない祐策を元気づけるために、小川で遊んでくるようにと、母が外に出しました。八月二十一日の朝のことです。
後で思えば、小さな体が浴びた放射能は、体の外に発散できず、外傷とはまったく別の形で、体内を蝕んだのではないでしょうか。小川に出た祐策は、にわか雨にあい、急いで帰ってきました。そして、突然倒れました。生気のない白い顔の祐策は、私の横に寝かされました。
医者もいないし、なす術もありません。静かに横たわる祐策の枕カバーに、猫の毛のようなかなりの毛が散っています。それを母が見つけ、恐る恐る坊主頭を撫でると、髪の毛がサラサラと落ちるのです。「これは何?」。気丈な母の声とは思えない、悲壮な声色と口調は、今も私の脳裏から消え去ることはありません。
次の瞬間、母の手は私の頭にのびました。私の髪は被爆以来洗える状態ではありませんでした。当時、長い髪を三つ編みにして、頭に巻いていました。その一部が頭に残っていた状態でしたが、頭皮の激しい痒みに、母に頼んで櫛を三回入れてもらうと、ほとんど抜け落ちてしまいました。私も祐策も…。当時、毛髪が抜けると死に至るといううわさがあり、暗い空気が一家の上に重くのしかかりました。
高熱を出した祐策に対しては、頭を井戸水で冷やすことくらいしかできません。措置をしていると、祐策は突然、鼻血を流し始めました。大慌てで母がタオルでおさえましたが、タオルは見る見るうちに真っ赤に染まります。二枚のタオルを用意して、一枚で母が鼻血を受ける間、姉がもう一枚を裏の小川で洗うというリレー状態が、二日二晩続いたのです。
そういう状態ながら、祐策の意識はしっかりしていて、家族に一度も尿を取らせませんでした。拒否するのです。仕方なく母が祐策を抱きかかえて便所に運びました。その毅然とした態度に驚かされました。小さな体のどこにこれほどの血液があるのだろうと思うくらいの出血を見て、不眠不休で看病する家族も、次第に気持ちが沈んでいくのを、どうしようもありませんでした。
●「僕、淋しくない」
死を目前にした祐策を守ってやれない空しさの中、母は気丈に、しかし穏やかに、いのちの助からないことを祐策に話して聞かせたのです。
「僕、どうしても駄目なんね」。祐策は、しばらく沈黙した後「僕、淋しくない。如々さん(如来様の意味。子供流の仏様の呼び方)が待っていてくださるから、ちっとも淋しくない。お父ちゃんも、お母ちゃんも元気で頑張ってね。僕、如々さんに頼んで、アメリカ(にやられた)の敵をとってもらうから」。その言葉を聞くなり、心配して集まってくれていた人々が、みんな泣きました。
そのうちに祐策は両手をぴったりと合わせ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、小さな声ながら念仏をとなえ始めました。その時、みんなの間に、信じられないという驚きが走りました。力が抜けていくせいか、祐策の両手はやがて、ぐんにゃりとほどけるようになりました。祐策はそのたびに気力をふり絞るように、しっかりと両手を合わせようとします。その姿に母は泣き泣き「もう楽にしなさい」と、両手を離してやります。そうすると、祐策はまたもしっかりと手を合わせて、念仏をとなえるのです。
それも長くは続きませんでした。突然、祐策は洗面器がいっぱいになるくらい吐きました。吐瀉物を見ると、内臓のちぎれたような物です。以前、病院の手術室の隅のバケツに入っていた物と同じに見えます。医師に診てもらいたいと、とっさに思ったものです。吐いた後、祐策のおなかはぺっちゃんこになりました。
日暮れが近づいたころ、鼻からの出血に変化が見えるようになりました。凝固が始まったのです。姉のかざす懐中電灯の光を頼りに、母はピンセットで、祐策の鼻腔の奥にある血の塊をつまみ出します。流れる汗を拭きもせず、必死に作業を続けます。その母の姿が今もまぶたに残ります。
●最期の姿
そのうちに、いよいよと思えた時、突然、母が胸を開いて、祐策の両手に乳房を握らせました。祐策はみんなの顔を一人ひとり順々に見回します。そして、瞳をカッと見開き、「さよなら」と言い、母の乳房をしっかりと握りしめたまま息絶えました。
よほど強い力だったのでしょう。後でその手を引き離すのが困難なほどでした。被爆以来、あれだけ慕っていた母のことを口にしないで、苦しみ続けた祐策です。母の乳房をしっかりと握りしめることが、訴えのすべてであったと思えるのです。祐策が満六歳の命を終えたのは八月二十四日の夜でした。
祐策の死後、母が肛門に綿を詰めた時、何も手ごたえがなかったそうです。空洞に綿を詰めるようだったとか。何度かこうした行為を経験した母は、信じがたいという表情をしていました。祐策の吐瀉物の内容、吐いた後でおなかがぺっちゃんこになった様子。母の言葉を聞きながら、私はそれらのことが頭に浮かびました。
息を引き取った祐策のそばに、私は身を寄せるように横たわりました。目を閉じた祐策の顔は、丸坊主の美しいお坊様の寝顔に見えました。次第に硬くなっていく顔を撫でながら、夜を明かしました。体の状態が悪い私に家族が気を取られ、無傷であった弟に目が向いていなかったことが悔やまれました。
●私にも血の斑点
悲しみに浸る間もなく、祐策の野辺送りも果たせぬまま、私の状態はさらに悪くなりました。祐策と同じような血の斑点が体にあらわれ、扁桃腺が腐って、壊疽性のロ内炎になりました。唾液も飲み込めません。扁桃腺にぴったりと張り付いた白い偽膜を見て、ジフテリアではないかと言う人もいました。しかし、私は一年前にジフテリアを患っていて、それはありえないはずです。
村の長老が、枕元に小机を置いて、何かお説教らしき言葉をくださいましたが、苦痛がひどくなるばかりの私は、むしろ死を強く願っていました。母が私の耳元で「汚れを知らない体で逝けることに、喜びを持ちましよう」と諭します。私は死を予期して「今から『君が代』と、祐策が大好きだったイタリア歌曲の『ニーナの死』を歌うからね」と言おうとしました。
しかし、それが声にならないのです。「もう駄目ね」と絶句した途端に、咽頭の腫れた部分が潰れて、どっと血膿があふれ出ました。後に母が言いました。「あれは癌のにおいだった」。胃癌の姑を看取った経験からそう思ったのだそうです。
ともかく、唾を飲み込むことが徐々に可能になりましたが、えぐれて骨のむき出しになった向こう脛をはじめ、全身三十七カ所の傷口は開きっ放しです。薬品もほとんどなく、母はオキシフルと黄色い粉末の薬だけで懸命に処置してくれました。骨と皮になった体を横たえること四カ月。ようやく室内で歩行訓練をするほどに回復しました。額の生え際に髪が一列残っただけの丸坊主の私が、着物姿で初めて村道を歩いて村医を訪ねた時、村の子供たちが恐ろしい物を見たように、蜘蛛の子を散らすように逃げたのも、無理からぬことでしたでしょう。
それでも、十八歳の娘として、日中はもとより、夜、寝床に入っても、スカーフを被っていました。しかし、ツルツルの頭は容赦なくスカーフをすべり落としてしまって、悲しい思いをしたものです。
●小河原から草津へ
そのころ、焼け残った草津小学校に、県病院が仮設されていました。私たちと同じように焼け出されて、草津に仮住まいしていた長姉夫婦の勧めで、県病院で治療してもらうために、小河原を出たのです。
芸備線で広島駅まで行き、見渡す限りの焼け野原を電車で天満橋まで行きました。橋は流されていたので、渡し船で向こう岸へ。そこから再び電車を乗り継いで、やっとのことで草津にたどり着くことができました。
その途中、焼け野原でアメリカ人らしい医師団が、テーブルを置いて通行人の血液を採取しているのに出合い、私も取られました。詳しく覚えていませんが、「白血球が千九百しかない」と驚いた医師の顔を覚えています。
草津小学校はかろうじて焼け残ったとはいえ、荒れた校舎、講堂は、火傷をした人や、けが人で足の踏み場もない状態でした。ともかく、田舎では得られない治療を受けられました。姉夫婦のおかげで、草津にあがる魚などを食べることもでき、徐々に健康を取り戻すことができました。
県病院は私が一年六カ月の間、実習勉強させていただいたこともあり、治療をしてもらっても心強い気がしました。途中、口内に問題が起き、ちょっとメスを入れる処置を受け、校舎の板の上で何日か過ごしました。
田舎と比べて、市内には頭髪の抜けた人や、火傷の跡が体に残っている人が多く、私の坊主頭も珍しくはありませんでした。県病院の医師は、拡大鏡で頭皮の状態を診てくださいました。しかし、その医師も初めてのことです。「はっきりとは言えないが、いずれ頭皮に渦状の盛り上がりができて、その後に毛髪が生えてくるだろう。ただ、まだその兆しはなく、今は何とも言えない」という説明をされました。
●主人との出会い
そんな折、現在の主人と初めて顔を合わせました。主人も焼け出されて、私の姉夫婦の家から三和銀行に通っていたのです。私としては、人の視線がつらく、目を背けられるのが悲しかったころです。初対面のあいさつをした時のことは今でもよく覚えています。
同じ屋根の下に住み、彼は銀行へ、私は通院する生活が続きました。体力が回復するに従って、裂けたり、えぐれたまま治療に通っていた足の醜い傷跡が気になり始めます。年ごろの娘としては恥ずかしく、靴下をいつも着けていました。
仕事を失っていた父が、私の義兄の仕事を手助けするために一緒に住むようになりました。元来、義兄と主人とは材木町で親戚同様に育った間柄でした。そんなこともあり、主人は私の家族と同じように暮らしていました。
そんな折、主人は私との結婚を、私の姉を通して父に申し込みました。とても信じがたいことでした。彼の長兄は、行方不明で、家族は知人を頼って坂町に住んでいました。私は頭髪に渦状の盛り上がりが見えて喜んでいたとはいえ、原爆の後遺症も危ぶまれる時で、たとえ将来の約束であっても、受けることは考えられず、しばらく小河原の母たちの所へ帰りました。
そのような折、五日市の山で山下義信ご夫妻が、有志を集めて広島戦災児育成所を始められたことを知りました。いささかの資格があった私は、子供たちのお世話ができたら、亡き祐策も喜ぶと思い、私の体を心配する両親の反対を押し切って、入所しました。
彼の厚意を辞退する方法は、ほかにありませんでした。一緒に暮らす父が、彼の誠実な人間性に対して、親しい感情を持ち始めていたからです。
育成所で働く職員のほとんどが被爆者でした。元学校教師、幼稚園の先生方が多く、私と同じように頭髪が生えかけた方、ケロイドの痛々しい方もおられました。奉仕される人の中には、大手町小学校時代の校医の松林先生がおられました。この先生には、私たち姉弟がみんなお世話になりました。思いがけない出会いに、驚くとともに一種の安心感を覚えました。
育成所で子供たちとの生活が始まりました。毎日新たに入所してくる子供たちのシラミだらけの衣服を脱がせ、一緒に風呂に入って、真っ黒い顔や体を洗い、清潔な服を着せてあげる作業が続きます。広島駅で救助された女の赤ちゃんは、とりあえず広島駅子ちゃんと名付けられました。駅子ちゃんは、まだミルクを必要とする年齢です。やせた小さな体で夜泣いては、私たちを眠らせてくれませんでした。
おなかをすかせた子供たちが、台所の乏しい食料を盗みに入ることもあります。それを防ぐという悲しい役目も仕事のうちという現実がありました。子供たちも大人も、等しく乏しい毎日を耐える時代。山下夫妻が全力で子供たちの救済に尽くしておられる姿に感動を覚えたものです。毎日、お堂でお話をされる時間がありましたが、後に何人かの少年が僧籍に入ったことを、新聞で知りました。
子供たちとの悲喜こもごもの生活は、半年で私の体に限界がきました。医師の勧めで小河原の母の元に帰りました。材木を扱う仕事をしていた義兄の厚意で、焼け野原の革屋町電停近くにバラックが建てられ、家族はそこで一緒に暮らすようになりました。日暮れとともに周囲は真っ暗になります。物音一つしない中、本通りの商家の一部の若い人たちが、テント張りの中で暮らしていました。彼らの元気な声が耳に入ることで、少し安心して夜を過ごせました。
●父の死、結婚
粗末なバラックながら、家族がそろって暮らせることの素晴らしさ。そんなある日、父の事故死という出来事が、突然、私たちを襲いました。弟たちはまだ小さく、家族は不安な気持ちに引き戻されました。結婚を申し込んでくれた彼は、そんな事態にあって、できる限りの誠意を尽くしてくれました。生前の父の望み、期待を思い出しました。それに加え、あらためて知った彼の真心。私の心は少しずつ変化してゆきました。
そうはいっても、当然のことながら問題がありました。彼の家族は、丸坊主のころの私の姿を知っておられます。私の体のことを理由に反対がありました。彼は、親、兄弟、叔父の集まりに呼ばれ諭されました。しかし、その集まりから帰り「縁を切っても、あなたと結婚すると言ってきた」と報告するのです。それを聞くと、心が痛みました。そんなこともありましたが、結果的には時を経て理解をいただける日が来ました。
昭和二十二年一月十五日、ささやかな式をあげました。当時、父のいない私たち一家は、姉夫婦と己斐町に住んでいて、その自宅での結婚式でした。仏壇の前で、仲人の立ち会いで盃を交わすだけです。事前に市役所に届け出て、日本酒一本の配給を受けました。彼の母は、坂町の漁師さんから入手した鯛を持参。彼の友人は酒、食料を持ち寄ってくれました。ささやかではあっても、晴れがましい祝いの宴でした。
私の頭髪はまだ短くて、さまになりません。だから式の写真は一枚もありません。彼と私は自宅の隣家の二階を借りて、新しい生活を始めました。私にとって母たちの傍らで暮らせたことは、とてもありがたいことでした。
原爆でダメージを受けた体は、医師にも治療法が分かりかねる状態です。痛んだり、体調が悪くなったり、私を悩ませました。しかし、生きていけたのは、夫の愛に支えられたからです。いつか、二人の間では、死という言葉はタブーとなっていました。しかし、私の肉体にも、考えの中にも、死の影が潜んでいました。
●反対を押して夫が退職
銀行勤務とあらば、転勤は必至です。転勤先が広島以外であれば、私の体のことがあります。夫はいろいろと考えていたようです。そのころ、上司から仕事を手伝ってほしい旨の話があり、夫は退職を決心したようです。夫の母は、息子の将来に大きな希望を託していました。思い直すよう夫に真剣に懇願する姿は、忘れられません。支店長さんにも強くとめられたものの、夫の決心は変わりませんでした。義母に対して申し訳ないという思いが、その後もずっと心
に残りました。
それから、銀行の取引先の会社に招かれて、学校関係の図書の仕事をすることになりました。そのことで支店長が私たちを社宅に招いてくださって、大阪方面の顧客に紹介状を書いてくださったうえ、温かいねぎらいの言葉をかけてくださいました。私たちは感謝しつつ夜道を帰りました。
夫は図書の仕事に、約三年半、専念しましたが、退社後、恩師の薦めをいただいて、昭和二十八年八月、現在の広島総合銀行に入社しました。昭和三十年、大竹支店への転勤命令が出て、大竹市での生活が始まったのです。
その前年の昭和二十九年、当時のABCCの定期検診で、アメリカ人医師から首にかたまりがあるのを指摘されましたが、はっきりした言葉を聞いていませんでした。当時、甲状腺癌という言葉は、耳にしたこともないころでした。それにしても、後から思えば私もいささか不用意でした。
●信仰の道へ
当時の大竹市は、製紙工場より発生する悪臭のこもった空気がひどく、私の体に重くのしかかりました。以前、アメリカ映画で、囚人が両足に鉄の玉のついた鎖を引きずって歩くシーンがありました。それを思わせるくらいの重苦しさで、体力の減退を覚えるほどでした。そんなある日、大竹国立病院に通院する道すがら、小さな教会が目に入りました。その中から歌声が聞こえてきます。私は引き寄せられるように、扉を開いていました。
歌いつゝ歩まん
(主にすがる我に)124番
一、主にすがる我に 悩みはなし
十字架のみ許に 荷を下ろせば
(折り返し)
歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
歌いつつ歩まん この世の旅路を
二、恐れは変わりて 祈りとなり
嘆きは変わりて 歌となりぬ
三、主はいと優しく 我と語り
乏しき時には 満たしたもう
四、主のみ約束に 変わりはなし
み許に行くまで 支えたまわん
銀行業務に専念している夫には、私の体の重荷のことで、できるだけ心配をかけたくありませんでした。そんな気持ちがあったからこそ、荷を下ろす場所を、神に求めたのです。原爆は私に神と出会う機会を与えてくれました。
昭和三十二年四月十四日、イースターの日にネルソン師によって、大竹市と岩国市の境を流れる小瀬川に体を沈め、バブテスマ(浸礼)を受けました。半月後、大竹を離れ、広島に帰任することになりました。後に聞いたのですが、夫は私の体の不調に気づいたので、本店に行ったそうです。そして「将来とも昇進は考えない。一生懸命に働くので広島市に帰してほしい」と申し出たということでした。
●思いがけない妊娠
住み慣れた広島で、心身ともに平安の日を過ごすうち、思いがけず、妊娠の兆しがありました。今までにも二か月足らずの命で終わった経験がありました。医師の意見もあって、子供を生むのは、あきらめていました。医師の診断でまず内科に回され、そこで首のしこりを指摘されました。「これはいつごろからあったのか」と聞かれて、ABCC で言われたことを、ハタと思い出したのです。
ただちに原田外科に紹介されました。原田東岷院長の診断の結果、急を要するとのことです。最終的に自宅に近く、何年か前に足の骨の修復手術をしていただいた原爆病院にお世話になることとなりました。
手術に当たり、私の体内の胎児の存在(二か月半)が問題となりました。医師の説得もあり、私の意志で、その命はついにこの世に生まれ出ることは、できませんでした。
私の体力の回復を待って、首を切開し、塊を取り出す手術が行われました。取り出された塊を検査した結果、やはり悪性と判明しました。甲状腺癌でした。十日後、再度の手術が行われました。コバルト照射で、体力の低下は著しく、三カ月入院しました。
入院中、夫が市民球場へ野球の観戦に行った時のことです。球場に「山下博三さん、至急、原爆病院にお帰りください」というアナウンスが流れました。私の病気のことは、あまり知人に言ってなかったのに、いっぺんに知れわたったのです。そんなことも、今では笑い話になりました。
●抜けた髪を提供
三カ月の入院中、見舞ってくれた母が、病院の方に何気なく話したのだそうです。「被爆後に抜けた娘の髪を、仏壇の引き出しに収めてある」と。そして、「当時、あの子の生存はむずかしいと思い、形見にしようと思ったんです」…。
その後、病院から「その髪を提供してほしい」という旨の依頼がありました。母も私も、何か検査の材料にでもと提出したのです。この話が原爆資料館にも伝わって、保存していた髪の二分の一が、資料館に収められることになり、現在に至っているのです。
病気が癌であったことから、原爆の放射能の影響を恐れて、子供を持つことはあきらめていました。このことについては、夫に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。私が早く召されて、夫に健康な配偶者が与えられるように祈ったこともあります。「子供はいらない」という夫の口癖を聞くうちに、結婚して十五年がたちました。夫は三十五歳、私は三十四歳になっていました。
親となる喜びも悲しみもありましょうが、そのころ、夫に父になってもらいたいと願う心が、にわかに高まりました。生涯を通して、これほどまでに強く願ったことはなかったでしょう。いつも祈りの終わりにこう加えました。「しかし、主よ、み心でありますならば」と。
昭和三十六年春、受胎しました。それを知って、母がこう言います。「博子が死んで、子供を残されたら、博三さんに申し訳ない」。母の言葉はもっとものことでした。しかし、私の気持ちは変わりません。夫、母たちの心配が分かりながら、日赤病院と井原産婦人科に生む決意を告げると同時に、往診をお願いしました。というのは、二か月に入って出血を起こし、自宅で安静を保つ必要があったからです。
毎日、黄体ホルモンの注射の手当を続けながら、私にとって初めての胎動を感じる日がきました。しかし、喜びもつかの間、にわかにかなりの出血があり、すぐに井原病院に入院となりました。結果、子宮口がすでに開き、胎児の頭が見えるとのこと。ほとんどあきらめるようにと聞かされましたが、胎児は動き続けています。その動きは、医師の声が聞こえ、それに対して精一杯の抵抗を現しているように思えました。「何とか助かる方法は」。私は懇願しました。
医師は「何日保てるか未知数だが、絹糸で子宮頸管を縫い、しっかり締めて、絶対安静にしている方法がある」と。私は迷わず、その方法を取ってくださるようお願いしたのです。
夫は支店開設委員として、勉強するために長期出張中でした。その夫に相談することもなく、手術が始められました。
胎児を生かすために、麻酔なしの手術です。気絶もしないで激痛を耐えることができたのは、神のお力添えなしには考えられないことでした。
●待望の出産
絶対安静の状態で、七カ月目にたどり着くことができましたが、とうとう防ぎきれない陣痛が来てしまい、産室に入りました。母子ともに体力不足のためか、難産となりました。支店開設を明日に控えた夫が、心配のあまり産室の扉をちょっと開け、「先生、子供はあきらめますから、家内を助けてください」とおろおろ声で叫ぶ声が耳に入りました。
陣痛が来た夜から、私も胎児も頑張り、翌日日曜日の午後零時四十分、男の子が生まれました。しかし、紫色の小さな肉塊は呼吸していませんでした。医師が人工呼吸したところ、かぼそい一声を発して、ようやく誕生を果たすことができました。
昭和三十六年九月十日のことです。私の胎内に三月十日に入った命は、私と六カ月をともにしたことになったのです。産湯も使わないまま、千四百グラムの男の子はただちに保育器に入れられ、私の病室に移されました。
後日、医師が私の子宮口の肉に引っ掛かっていた結び糸を示して、「これが今まで保たせてくれたのだ」と説明してくださいました。糸の太さに今更ながら驚きました。へその緒をいただきながら、あまりにも小さすぎて、いつか消滅して手元に残っていない今、結び糸をもらっておかなかったことが悔やまれます。
●悪戦苦闘の産後
産後の安堵感による眠りどころではありませんでした。むしろ、それから私の闘いは始まりました。夫はあまりに小さな体にとまどい、当時、県病院にあった未熟児センターに移してほしいと希望しましたが、結局、私のベッドの横でともに二か月半を過ごしました。というのは医師から「母乳でなければとても育たない」、そして「二十日命が続けば、ほぼ大丈夫だろう」と聞かされたからです。
まずは、思うほどに出てくれない私の乳搾りから始まりました。哺乳瓶で口に入れようとしても、吸い口が大きくて口に入らないというほどに、小さい赤ちゃんでした。毎日手伝ってくれた母が、流れる汗をぬぐいもせず、生かしめんと力を尽くしてくれましたが、一滴の乳も通りません。細い喉元の動きを見つめる私たちは、何度も失望しました。
結局、鼻腔よりチューブ管を胃に通し、注射器により母乳を送り込む作業に変わりました。二時間半ごとの乳搾りと注射器の消毒、哺乳作業は私がしました。昼は母の手助けで助かりましたが、その都度その都度の一連の作業は疲れます。まったく肉体条件の悪い私が、どこから力をいただいたのかとみんなが驚くほど、夢中で頑張る毎日が続きました。
ある真夜中のこと、保育器の酸素が不足であることを示すブザーが鳴ります。驚いて自宅の夫に電話しました。夫は、知人の酸素関係の会社の人を起こして対応をお願いし、折からの嵐の中をタクシーを走らせました。病院に寄った夫を、病院の窓から祈る思いで見送ったことなど、昨日のことのように思い出します。
医師はもとより、看護婦さんほか、たくさんの方のおかげで、標準には満たないながら、赤ちゃんは二か月半過ごした保育器を出ることができました。生まれてから、一度も抱くことのなかった私の腕に抱かれ、母子ともに退院することができました。私にとっては五カ月ぶりのわが家でした。
まだ生死も危ぶまれた時、夫の上司である三巻様が、われわれ息子の名前を、いち早く付けてくださいました。市役所の届け出期限ぎりぎりに、夫の手によって「一史(カズフミ)」と記すことができました。
一史は小さい体ながら、親の心の奥にあった心配をよそに、元気に成長してくれました。県病院の小児科部長さんから、未熟児コンテストに出したらと勧められるほどでした。
一歳半を数えるころ、私の体に異変が起こりました。子宮より出血があり、貧血を起こす状態になりました。三病院で診断してもらった結果、子宮全摘の手術となりました。息子一史が生み出されるための代償は、私にとって大した痛みではありませんでしたが、夫の理解や周囲の方々に支えられて生きてき
ました。
●息子に重なる祐策の面影
息子は赤子のころから、音に異常なほど興味を示し、桐朋学園子供のための音楽教室幼稚科よりお世話になりました。中学二年生で単身上京し、あこがれの小沢征爾先生を生んだ桐朋学園高校、大学を卒業しました。その後、小沢先生の推薦をいただいて、広島国際文化財団スカラシップも受けることができ、
ベルリン芸術大学に留学いたしました。
その前、大学二年に在学中、私は体に異変を生じました。甲状腺癌の再発でした。大学病院二外科で、甲状腺、副甲状腺、リンパ腺を全摘。首に十三針の醜い傷跡を残し、現在ケアを続けていただいています。
私が半人前にも満たないことについて、夫からつらい思いをさせられたことはなく、それだけに、申し訳ない思いで過ごしてきました。
私たちの息子が、私の若い日あこがれたヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントをさせていただいたこと、ベルリンフィルのベートーベン第九交響曲でカラヤン急病の際、ジーパンのまま、急遽、指揮台に立てたことなど、信じがたいほどにうれしく思います。息子の成長の折々に、亡き祐策の面影を重ね合わせることが何度もありました。原爆がなかったら、祐策がきっと音楽の道を歩んだでしょう。その代わりに私たちの息子一史が…。感無量です。
昨年、私たちは信じがたい金婚式を迎えることができました。夫が最近私に初めて漏らした言葉が、私の胸に重く感じられます。
「十年生きてくれて、一緒に暮らせたらそれでいいと思っていた」と。
息子一史は小学校五年の時、夫は七十歳の時にバブテスマを受けました。
聖書「コリントヘの第一の手紙」 十章 十三節
あなたがたの会った試練で、世の常で
ないものはない。
神は真実である。あなたがたを
耐えられないような試練に会わせることは
ないばかりか、試練と同時に
それに耐えられるように、
のがれる道も備えて下さるのである。
ママの結婚写真
(息子が幼いころ、あるテレビ局が写真に関する文章を募集しているのを知り、応募したものです。)
ママの結婚写真を見せてと あなたは聞くの?
そう もう話してあげても いい時が来たのね
あの時、ママもまだ若かった
腰までたれた三つ編み髪が自慢の 十八歳の乙女だった
いま思うと とてもとても静かな朝だったの
八時十五分という時間は そこで止まったみたい
光と音がママを地獄の闇につきおとしたの
生きている限り まなこから 決して消え去らない青写真
あなたには 決して見せたくない悪夢 美しい原子雲を
カラー写真で見たことあったわね
ママは あの中にいたの 誰もがママの死を信じてた
ママ自身 両手を合わせて 死を待ったんですもの
いま パパがいて あなたがいる
パパと初めて会ったのは 丸坊主の時だった
原爆の放射能が からだを犯して
乙女の生命の髪は あとかたもなくなっていたの
恥ずかしかった
人は皆 目をそむけ 逃げてしまうのに
でも パパは ママを愛して下さったの
わかるわね 結婚写真がないわけが
多くのものを失ったけど ママはパパに会えたの
だから あなたは パパとママのたからなの
結婚写真はなくても ママは ちっとも悲しくない
いま
パパがいて
あなたがいるから
「あとがき」
山下博子
広島平和記念資料館から、平成十年四月十日付の書状をいただいたのは、私の七十一歳の誕生日の五日後のことでした。資料館に展示してある私の髪の毛について、被爆体験を含めて前後の状況を書いておいてほしいとの依頼でした。
私はこのことに、とても不思議な感情を覚えました。今でも信じられないことなのですが、被爆後、生死をさまよいながら、母に「五十年たったら、きっとこのことを誰かに話さなければ」と言ったそうです。
生をまっとうできないままに旅立たれた数知れない方々。私は常に病気と闘う戦後の日々を送りつつも、ともかく今日まで生きてくることができました。私の戦後は、それらの方々の無念の思いを背負った日々でもありました。
私を生かしめてくださった方々に、お詫び状をいつか残したく思っていた時でもありました。
さて、書き出してみると、昨日のことのように鮮やかに、当時の有様が迫ってきます。涙しながら書き続けたものの、あの惨状と被爆者の苦しみを、どこまで理解をいただけるかと、何度も不安と無力さとが交錯しました。体力の限界に突き当たり、筆がとまることもたびたびありました。
被爆した日から歳月が流れました。しかし、いかに年があらたまろうと、夏が来ると八月六日は私の体に、しっかりと確実によみがえるのです。
原爆で失ったものは、限りなく大きなものです。しかし、当時とその後を通じて、多くの方々から愛あるいたわりと支えをいただいたことも事実です。
たとえば、今回の文章をまとめるにあたっても、ご近所の長谷川敦子さんが、ご親切にも私の手書きの原稿をワープロで打ってくださいました。大変な手間だったと思います。
その原稿の点検や手直しについて、私の夫が、知人である元中国新聞社事業局次長の野坂忠守さん(現在、中国新聞情報文化センター取締役)に相談しました。野坂さんは同新聞社文化部記者の大石一朗さんを紹介してくださり、大石さんは原稿を再度、ワープロで打ち直してくださいました。みなさんの善意をありがたく受けとめています。感謝いたします。
出典 山下博子著『私の被爆体験 — 末弟・祐策のことなど』
株式会社ガリバープロダクツ 平成十年十月三十日発行 令和五年八月六日改定
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