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加藤 昇(かとう のぼる) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 船舶司令部陸軍船舶練習部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

70歳 昭和2年8月12日生
岐阜県武儀郡上之保村
被爆時18歳・海上特攻隊 船舶第10教育隊第42戦隊草深隊
広島市江田島町幸の浦。江田島の北湾で広島市に面していた。8月6日午前9時に船舶にて広島市宇品港に上陸し、千田町に入市、救護活動をする。
 
ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日と直後)

〈原爆投下当日の朝〉
昭和20年8月6日、広島県江田島幸の浦にある、陸軍暁部隊第10教育隊第42戦隊水上特攻隊員として勤務していた十八歳であった。

朝8時15分頃だと思うが、朝会と点呼、朝食をすまし、午前の敵艦隊に体当たりする演習行程について、隊長より指示を受けていた時、警戒警報が発令され、避難しようとしていたところ、すぐ解除され、ホッとしていた。その時突然、「ピカッ」と大閃光があり、丁度、雷の稲光の如く全身なぐられた様な衝撃を覚えた。その後、すぐ「ドカン」と大轟音がした。全員兵舎の前へ出て、広島の方面を見ると、キノコ雲が上がっていた。

隊員達は広島の「火薬倉庫の爆発」いや、「ガスタンクの爆発」などと言っていたが、上官より「米国の新型爆弾」だと聞かされ、一瞬驚いた。

兵舎の窓ガラスは飛び散り、瓦はずり落ち、爆風の強力さはすごく悲惨なものであった。

原爆投下の前日(五日)の朝、下士官と福島政一隊員と私の三名、公務出張で宇品の食糧廠へ調達に船で行き午後広島市の中心地(爆心地)紙屋町付近の映画館へつれていってもらい映画を見た記憶がある。

一日のことで難を逃れた事が思い出された。

〈出動命令〉
午前九時に練兵場に集合させられ、幸の浦から特攻艇と大発上陸用舟艇に分乗し全速力で海を渡り、宇品港に着いた。

〈宇品港付近と市中の情況〉
宇品港では兵隊さんが血まみれになって死んでいる。傷つき地に倒れている兵、衣服は破れ、半裸体で焼けただれた顔、皮膚は水ぶくれの人達で「ゾオーッ」とする物凄い有様でした。

市内に向かうにしたがって状況は益々ひどく、いたる所の民家は全焼し死傷者、馬、犬などがポンポンにふくれて、道路に横たわり死んでいる。見るも無残な様相で、唯々、驚くばかりだった。又各地で火災が起こり、煙がもうもうと立ち上がっていた。

〈救護活動〉
私達の隊は千田町の日赤病院と広島文理大付近で救護活動をした。兵舎などはなく、爆心地より1500m地点で市内電車が宿舎代わりであった。

最初は、倒壊家屋の中からの生存者の救出、道路に倒れ助けを求め、叫んでいる人を担架に乗せ、病院へ運んだ。しまいには、担架も足りなくなり、戸板を利用して、日赤や文理大へ何回となく運んだものだった。

作業中に火災が近づいて来るので、延焼をくいとめる為に家をロープで引っ張り、倒し類焼を止めた。

二日目頃からは死者を20名~30名位山積みにして倒壊した家屋を材料にしてその上にガソリンをかけ火葬にし、一晩中歩哨に立った。二~三日間同じ作業が続いた。

小学校の五~六年生位の児童が家屋疎開作業の手伝いの為に道路わきに上着をきちんとたたみその上に弁当をすえ、それも食べずに全員が死んでいるのを見た時は、本当に涙が出た。可哀相なことをした。弁当箱はまっ黒になっていた。何も、小さな子供に罪も責任も何もないと思った。

〈爆心地の情況〉
火災があたりを明るくする。一睡もせず、数十名の負傷者の手当て、看護につくがその甲斐もなく呻き声で「兵隊さん、水をくれ」と叫ぶ人。その人達もやがて一人、二人と、夜明けまでに全部なくなった。

あたりが明るくなって判りましたが、広島は川が多く、川には数多くの人が水飲みに入り、死体となって浮かんでいる。体が倍くらいに膨れ、皮膚は青色に変わって実に無残でした。

又、干潮、満潮で死体が川を上下しているので、それを抱き上げ、戸坂で運び火葬にする仕事も実につらかった。

道路の死体は、手足が取れ、黒焦げで男女の分別も年令も分からず、内臓が「ダラダラ」と垂れ下がっている横を通っての運搬作業が続いた。

〈任務遂行〉
救援活動は、前にも述べたように、横たわっていた電車の夜営で一食乾パンとおにぎり二個、生水でのどの中へ運び、空腹をしのいだものだった。

一週間余りの活動を終了し、幸の浦の部隊へ帰った。

〈夜間演習〉
爆心地から帰隊しても私達特攻隊員は、毎日演習を繰り返していた。
15日の敗戦の日も12時に練兵場で天皇陛下の終戦の玉音をお聞きしたが、私達の部隊はまだ戦うのだといっていた。

〈復員〉
九月初めだったと思うが、我が草深隊は夜間演習で江田島幸の浦の裏山を行進中、高圧線に隊長の軍刀がさわり、感電死された。終戦直後の部隊葬とはいんがなものであった。同じ江田島にある海軍兵学校生は翌日から復員の為、船で広島市の宇品港へ向かっていた。私達は9月12日に帰ることになり、広島駅より貨物の有蓋車で大阪まで復員隊として帰り、それからはそれぞれの地域へと今度は客車に乗り換え、岐阜駅に夕方着いた。岐阜駅付近は焼野原で柳ケ瀬の丸物百貨店だけ見えた位で、高層ビルは少なかった。すぐ美濃町線で新関へ行き、親戚で一泊し翌朝、バスにて上之保村へ着いた。

家では音信もなく出撃したのかどうしたかと不安の様子で、帰った事にたいしての皆の喜びは大きかった。

〈心境〉
当時17歳の少年が特攻隊に志願したこと。そんな自分を、今思えば戦時中の教育の恐ろしさと軍国主義の徹底さをまざまざと考えさせられた。

戦況は私達には秘密で、何時も戦勝報告を隊長から聞かされ、疑問を感じながらも聞く日々であった。

終わりにあたり、今後二度と戦争のない様に世界の平和を念願しつつ、被爆で犠牲になられた方々の御冥福を心からお祈り致します。

〈被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)〉
復員後、昭和26年に体の様子がおかしくなり、両足に腫れが出来、関市の病院に入院した。その後、岐阜の大学病院、中濃病院、東海病院等に再三入院治療。現在、胃潰瘍で通院、治療している。

〈今、被爆者としての生き方と訴えたいこと(現在)〉
現在、岐阜県被爆者の会の会長に選ばれ、今後は会員手帳所有者730名余の同志と一致団結し被爆者の苦しみとまだ手帳を持っていない人々を救い、少ない人生を楽しく暮らせるように努力し、被爆者援護法の完全なものとなる運動を進めていきたいと思う。

現在も入院治療中の友も多くある事を知ってほしい。

水上特攻用の舟艇は全長5・6m、巾1・8m、ベニヤ板製である。後部に250㎏の爆雷を搭載し敵艦に体当りするもので秘匿名称は㋹艇となっていた。

海軍の「回天」「震洋」と同型で陸軍用として一人乗りで使用された。
 
出典 岐阜県原爆被爆者の会(岐朋会)編 『鎮魂の叫び 二一世紀への伝言』第三集1997年 30―35頁


  

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