8月6日、広島市街は前日来の油照りの青空を迎えた。一般市民が、この日の活動を始めたばかりの午前8時15分、運命の原子爆弾が市の中央部上空600メートルで、轟然と火を噴いた。
一瞬にして、この世の地獄と化した広島市の南部(爆心から南々西へ3.7キロメートル)に位置した気象台にも、恐ろしい閃光と、その後を追った爆風が襲ってきた。
灼熱の光を浴びてから、5秒後に、ものすごい爆風が襲ってきた。この爆風の速度は、毎秒700メートル以上に達し、音速の2倍に当る。
気象台の内部、および付近でも、熱傷・ガラス傷・骨折などの重軽傷者多数を出した。
大混乱がやや静まったところで、建物・器械などの損傷を点検してまわったところ、鉄筋コンクリート3階建の堅牢な建物の窓ガラスは、鉄の窓枠が無残にヘシ曲り、飛散したガラス破片が壁などに突っ立っていた。
一部の扉は吹き抜かれて、爆風の通り抜けた跡を示していた。
気象の測器は意外に損傷が少なく、露場の百葉箱内のガラス製温度計なども破損せず、もとの位置にあった。
風力観測塔の器械も無事で、椀型風速計は爆風によって、急激に回転したらしく、200メートルの走行距離を記録していた。秒速700メートル以上という風速は、記録できないまでも、爆風の通り過ぎる間に、おくればせながら風速計の頭部の椀は、200メートルぶん回転していた。
2階屋上に設置してあったロビッチ日射計は大破して、使用不能となった。気圧・気温・湿度の自記器械は、その性能上、ごく短時間の変化は記録できなくて、ショックの跡を示していた。
気象器械は、いずれも強い風雨に耐え得るように作られているのと、極めて短時間の爆風通過であったゆえ、何とか持ちこたえたのであろう。
地震計室は二重構造の部屋であったが、爆風の突入によってガラス窓が破損し、器械にぶつかり、地震計は大破してしまった。
幸い気象観測は欠測することなく、平常どおり続けることができた。
気象技術者が多く負傷し、住家を焼かれ、肉親を亡くしたため、毎日気象台に出勤して業務を続けることが困難となり、欠勤者が多くなった。加えて食糧事情が一段と悪くなり、勤務中にもその方の心配がつきまとった。
重傷の職員2人は動かせないので、そのまま庁舎内の一室に収容して、家族友人の看護で1か月以上過ごしたと記憶している。
このような悪条件の中で、極く少数の職員で昼夜連続の毎時観測を続けることは、至難の業であったが、一刻も欠測してはいけないという使命感に徹して完遂した。
敗戦と共に敵国軍が進駐してきて、観測施設・記録を接収されるという不安はあったが、その時限までは決して観測を放棄しないという測候精神を堅持して、これに生きがいを感じていた。
9月17日、枕崎台風が襲来し、中国地方は稀に見る手痛い被害を受けた。広島県内だけの死者・行方不明者合せて2,012人というのは、古今未曽有の被害であった。
この時は、広島の気象台をはじめ、各防災機関の活動がまだ復活していない折のことで、一般人は台風警戒の声もきかないうちに、暴風雨に席巻された。原子爆弾につづく猛台風と広島は苛酷な鉄槌に打ちひしがれたわけである。
ここで8月6日の広島に戻って、当時の状況について更に記述を続けよう。
閃光・爆風が過ぎて直後の大混乱がややおさまった頃、江波山(高さ30メートル)から見た市内は、死の砂漠のように茶褐色で、上空は一面黒灰色のものにおおわれていた。
8時30分頃には、もう市内各所から火の手があがり、9時頃には、市の中央部一帯は黒煙に包まれ、舟入町方面・観音町方面の火の手がはっきり見えるほかは一面、まっ黒な煙に包まれてしまった。
黒煙の上部は、天をつく雄大な積乱雲に発達し、その頂きは目測で十数キロメートルにも達した。
火災は10時から14頃が最盛期で、夕刻には次第に衰えたが、夜に入ってもなお、あちこちの火災が指呼できた。
江波山(気象台)では、終日南よりの風が吹いたため、こちらからの視界は良好で、市街の火災のもようは手にとるように観察できた。
火災から昇る煙や雲は、ほとんど北ないし北西の方向に流れていた。市の南部江波山では終日日照りがあり、青空が見えて、北部の暗黒と強烈な対照をなしていた。
当日の気象台記録の日照時間11.30時間は、4日の11.64、5日の10.25、7日の10.50、8日の11.47に比較して少しも減じていない。
雲量については、火災雲の拡がりのため、6日の平均雲量は63%と、その前後の日に比べて多くなっている。
風については、後日の調査結果を合せ考えると、大火災の発生後、市内の火災地域に流れこむ気流が終日続き、江波山の気象台では平常日の風の流れ方を差引いて約4米/秒の風が、火災現場に吸引されていたことが判明した。
市の北部、山陽本線付近に沿って、南からと北からの両気流が集る収れん線が発生し、盛んな上昇気流を生じ、竜巻が起っている。
つぎに黒い雨について述べると、江波山の気象台では、当日一滴の雨も降らなかったが、後日気象台の行なった調査によると、市の北西部を中心に2時間以上に及ぶ土砂降りの雨が降っている。
この原因として考えられるものは、原爆大火災に伴う強い上昇気流によって、上空に多量の雨粒が作られ、雷雨性の雨が降ったと見られる。多量に舞上った灰その他が、雨にまじって、黒い雨になったと考えられる。
大火災の際には、雷雨が発生することがあるが、広島原爆の場合は、各段にスケールが大きかった。そして、午前10時02分から11時09分にかけて雷鳴をきき、10時52分には北北西の方向に雷光を見た。
爆風による建造物の破壊の状況を後日調査して廻ったが、爆心に近いところほど、真上あるいは斜め上から押しつぶされた形が見られ、2キロメートル以上もはなれると、斜上からの直達波はなくなり、いったん地面にぶつかり、地表に沿って水平に拡がった拡散波によると思われる破壊が見られた。
地表波は遠くに拡がるにつれ、速度が落ちたが、爆心から3キロメートルないし10キロメートルの間での速度は、約700米/秒を示し、爆風の通過に要した時間は、ゴーッという約1秒強の間であったが、ものすごい破壊力であった。
途中に丘など堅固な障碍があると、それをのり越えて行った。ある地点の爆風層の厚さなど、量的にはわからないが、江波山での体験から推して数十メートルの厚さはあったようである。入口のあいていた家屋の中に押入り、天井を押上げて、屋根に吹き抜けている形などから、爆風の通路と屋根背面の負圧の働きが察せられる。
焼失区域は、爆心から半径約2キロメートルの区域内で、東西にやや長い。建物の倒壊した区域も、焼失区域にほぼ平行しているが、これよりもやや広い。
屋根瓦をも溶かす灼熱爆発により、いたる所に発火点ができ、燃えあがった火災である。閃光に伴う熱線の強烈さは、想像以上のもので、3キロメートル離れた場所でも、閃光を感じたとき、顔面近くでパチッという音のようなものを膚で感じた。これは顔面近くの空気が、熱線による急激な膨脹を起したための、圧迫感ではないかと考える。それと、熱線の放射が、線状に強弱の分布があったようで、地上の物が一様に焼かれるのでなく、筋状に着火した物体が見られた。
かくて広島市は、熱線で焼き熔かされ、その直後、爆風でたたきつけ、吹きとばされ、更に、火災で焼きつくされたのである。
この中から生き残った人は、よほど不死身な運のよかったというほかない。(1969年9月)
出典 広島市役所編 『広島原爆戦災誌 第三巻』 広島市役所 1971年 281~284頁
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