当時、広島中央気象台勤務、現在も分室の環境衛生センターに勤務。
気象台は江波山の高台にあるので、さえぎるものがなく、強い爆風に飛ばされた。官舎が江波山の下にあったから家族は無事であった。それで、市中から続々とのがれてくる被災者の救護に当ることができた。
焦土と化した瓦礫の町を写すようになったのは、9日になってからである。広島もいつの日にか複興するであろうが、この悲惨な姿を写真に残し、戦争が再び起きないことを願うとともに、原爆から生き残った市民が、犠牲となった人たちに対する義務であると考え2ヵ月間ほどかけて、広島城跡、大手町、紙屋町、八丁堀の都心から比治山、段原町方面にかけて40枚くらい撮影して歩いた。
出典 広島原爆被災撮影者の会編 『広島壊滅のとき 被爆カメラマン写真集』 広島原爆被災撮影者の会 1981年 96頁
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