桜の花が散ってしばらくすると、藤の花が咲きはじめる。
この季節になるとなぜか遠い日の記憶が呼び覚まされ、私に一軒の茶店の光景を思い起こさせた。
戦前に広島市内を流れていた7本の川の一つ、本川の河口付近の土手にあったその茶店のことを、人々は「一軒茶屋」とも「藤の棚」とも呼んでいた。
場所は、舟入川口町と江波の境界近くの土手にあった。そこから少し南に下がった所に渡し場があり、対岸の吉島の土手とを結んで舟は川面を行き来していた。
この渡しを記憶している人は、現在では広島市内でもごく少数となり、かつてその近くに住み、渡しを利用したことのある人に限られている。
そうした人々が渡しについて語る時に必ず言い添えたのは、「一軒茶屋」とも「藤の棚」とも言った茶店のことであった。
それというのも、棚から見事な紫色の花房が垂れ下がり、まさしく藤浪と呼ぶにふさわしい風情が漂いはじめる季節になると、通りがかりの人々の視線は自ずとその藤棚に惹きつけられ、心に深く刻み込まれたからにちがいない。
けれども対岸の吉島の船着場の方は、長々と続く広島刑務所の塀の南端の土手にあり、ガンギと呼ばれる川底に繋がった石段に舟が寄せられるという、きわめて風情のない光景であった。
そこから先は、終戦の2、3年前に突貫工事で完成された陸軍飛行場の、広漠とした空間が海に向かって延びていた。
私が最初にその渡しに乗ったのは、中学1年生の時であった。
その飛行場が建設される時、市内の中学校に勤労奉仕が割り当てられ、そのために私たちは1週間ほど現場に通わされた。
作業は、団平船がひっきりなしに運んで来る赤土をモッコに盛り上げ、それに太い棒を通して2人1組で担ぎ、遠く離れた埋め立て地に運搬するという単純な作業であった。しかし、大人の身体になりきっていない中学1年生にとって、炎天下でのこの仕事はきわめて過酷な労働であった。
赤土は、近くの瀬戸内の島から採掘されたものであったが、ショベルを持った陸軍兵士が粘土質の重いその土を掬い、気合をこめてモッコに放り込むので、私たちはその重さに辟易しながらも用心して渡し板を踏み、地上に降り立った。
そして、なかばよろけながら運んだが、その重みで棒が肩に食い込み、たちまち腫れ上がってしまった。予め、教師から言われて肩当てを家から用意して来ていたが、有って無きが如しで、役には立たなかった。2、3度往復しただけで、肩が腫れ上がり、途中で仕事を放り出してしまいたい衝動に駆られた。
その日の作業が終了した時、私たちに鉄道草でこしらえた代用食の団子や島で栽培された夏蜜柑などが配給になったが、あまりに疲労困憊していたのでその場で食べる気にはなれず、家に持ち帰った。
私たちの学校では、通学に市内電車やバスを利用することは許可されていなかったが、勤労奉仕で兵器廠や被服廠などに行き、作業が終わって現地解散するようになった時には、交通機関を利用して帰宅することが認められていた。
飛行場に勤労奉仕に行った日は、解散になると私は2、3人の友人と共に刑務所の前から渡しに乗って、こちら側の町にある私の家にもどった。渡しを利用しなかった場合、私は飛行場から1キロど北に遡った所に架かっている住吉橋を渡り、その同じ距離を今度は逆に南に下って家に帰らなければならなかったが、作業の後ではそれだけの体力は残されていなかった。
戦争中に私がその渡しに乗ったのは、後にも先にもその時だけであった。
私がふたたびその渡しに乗るようになったのは、戦争が終わった年の10月から暮れにかけての短い期間であった。
その頃の船頭さんは、戦時中に飛行場建設の勤労奉仕に行った帰りに乗った時の年配の人とは異なっていたが、どこか面立ちが似通っているように私には感じられた。20歳代後半の、眉毛が濃くて眼光の鋭い、屈強な体格をした、いかにも船頭さんらしい風貌の人であった。時折、剽軽なことを言っては乗船客を笑わせた。
当時を思い出すと、先ず最初に、寒気のために水面に靄が立ち込めた、冬の朝の渡し場の光景が脳裏に浮かんだ。
原子爆弾が投下された広島市内は、赤褐色に焼結した大地で覆われ、その遮るもののない廃墟の上を、すべてを凍てつかせてしまいそうに北風が音を孕んで吹き荒んでいた。
私が在籍していた広島県立広島第一中学校が授業を再開するために、生き残った生徒たちに新聞広告で登校日を知らせたのは、その頃であった。
登校するといっても、爆心地から900メートルも離れていなかった学校は跡形もなく全焼していて、表面が薄い赤色に変色、溶融した校舎の基礎石や瓦、それにプールのみが、かつての学校の施設であった名残をとどめているに過ぎなかった。
原子爆弾が投下された日、学校には1年生300名が残っていて、半数が付近の強制疎開で取り壊された家屋の後片付け作業に出ていたが、全員が死亡した。残りの半数は、交代の時間が来るまで教室に残って自習していたが、倒壊した校舎から脱出できた十数名の生徒以外は、すべて焼死した。
学校全体では、教職員、生徒あわせて369名が被爆死していた。
焼け跡に登校した生き残りの生徒たちは、教師から質問されるままに近況報告をした。
その後に命じられた作業は、焼け跡に放置されたままの、焼死した生徒の遺骨収拾であった。遺骨といっても、ほとんどが赤く変色した貝殻の破片に似た骨灰の状態で、赤く焼け爛れた大地にしがみついていた。
拾い集められた遺骨は莚の上に積まれたが、後で林檎箱に納められ、学校に縁のある近郊の寺に預けられたという。
その日以降、私たちは市内の焼け残った国民学校(当時の小学校の呼称)や近郊の国民学校の校舎の一部を借りて、5カ所での分散授業を受けることになった。
私は、市内翠町の外れにあって損壊をまぬがれた、第三国民学校の方に通うことになった。
そして、翌年の1月からは、江波にあった陸軍第一病院江波分院跡が私たちの学校の校舎に転用されることになったので、そちらに通いはじめたのであった。
戦争が終わり、初めて登校した日の朝のことは、58年経った現在でも克明に記憶している。
その頃になってようやく被爆による傷が癒えた私は、畑の中に建てられたバラックの病床から離れ、崩壊状態のまま残っていた元の家の近くまで、足慣らしのために少しずつ歩きはじめたばかりであった。
また、冬の到来によって、化膿した傷口を襲いつづけた蝿の群れに悩まされることもなくなり、私は少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。
しかし、ある日、倒壊寸前の元の家に立ち寄り、洗面所のタイル張りの床の上に散乱していた鏡の破片を拾って自分の顔を映してみた時の驚きは、生涯忘れることができないほどの衝撃を私に与えた。
そこには、私の顔なぞなく、赤く焼け爛れて凝固した溶岩に似た肉塊が映っていた。
何かの見まちがいかもしれないと思って、2、3度指先で拭ってみたが、いっそう鮮明に醜悪さが映し出されるばかりであった。赤い光沢をもった、蟹の足を連想させる醜い肉の固まりの奥に眼らしいものがあり、眉のあたりとおぼしき箇所には、焼失をまぬがれた眉毛の痕跡らしきものが認められたことによって、私は異形な物の反映を自分の顔として認識せざるをえなかった。その瞬間、この地上から消え失せてしまいたい、と思ったほど身が竦むのを覚えた。
あの日の朝、私たちのクラスは動員先の軍需工場の義勇隊として市内鶴見町に、強制疎開家屋の取り壊しに出かけていた。現場では四列縦隊に整列して、工場の責任者からの訓示を受けている最中であった。
爆心地から1,500メートル離れた地点だったので、死をまぬがれることはできたものの、全員が熱線による火傷を負った。整列していた位置によって火傷の度合いが異なったが、もっとも西寄りの列にいた者ほど重症であった。
その火傷の痕は、後にケロイドという医学用語で呼ばれるようになったが、顔に火傷を負った者を「お化け」、「ゆでだこ」と呼ぶのと同じ意味合いを持っている響きとして、私は感じ取っていた。
人間の顔を失った私は、それ以後は自分の顔が人々の視線に晒されるのが怖く、止むなく外出しなければならないような折には、人が通らない道ばかりを選んで歩く習性を身につけてしまった。
見渡すかぎり廃墟と化した市内は、幸いなことに自由に道を選んで歩くことができたけれども、最終的には人々が大勢集まる場所に行き着くことになり、人々の視線が私の顔のケロイドに注がれるのを、強く意識せざるを得なかった。
焼け跡に初めて登校した日の朝は、学校を中退して、このまま家の中に引き籠もっていたいと切実に感じたが、友人に誘われて仕方なく私は家を出たのであった。
住吉橋までたどり着くと、すでに大勢の人々が流失した橋の袂に長い列を作って、乗船の順番を待っていた。
住吉橋は、明治43年に本川に架橋された木桁橋であったが、被爆時は欄干が南北に分かれて川の中に落ちただけの被害ですみ、人々は通行できた。しかし、翌月の台風、翌々月の水害によって流失してしまったため、応急の渡しが設けられ、それによって人々は150メートル離れた対岸に渡った。
旧陸軍が使用していたと思われる、大型の上陸用舟艇の舷側に取り付けられた鉄製の輪の中に太いワイヤーが通され、両岸に張られた。乗船すると、人々は協力してそのワイヤーを手繰りつづけ、船を向こう岸に着けた。
寒風に吹き晒されながら順番を待っていたが、人々の視線が絶えず気になった。周囲を見渡しても、私のように顔にひどいケロイドを負った人の姿は見出せなかった。
冷たい川風が吹き抜けてゆく川岸に長時間立っていると、両手の甲に残ったケロイドの傷痕が紫色に凍えたように変色し、直にひび割れが生じて血が滲み出た。痛みを覚えながら、ふとこれから先のことを考えると、暗い気持ちに陥り、
―いっそあの時、死んでしまえばよかったのに。
と、心の底で何度も呟いた。
学校の焼け跡に集合した翌日からその年の暮れまで、私は第三国民学校の間借り教室に通うことになった。
私は、家を出ると住吉橋の渡しに乗り、さらに本川の東隣を流れる元安川に架かる明治橋を渡って鷹野橋に出、そこから南東方向に1キロほど下って、さらに京橋川に架かる御幸橋を渡って通学しなければならなかった。都合、3本の橋を渡っての通学であった。
その間に住吉橋は仮橋としての復旧工事がなされたが、人ふたりがやっと擦れ違うことのできる橋幅しかなく、渡された板の隙間からは川面が見下ろされ、しかも橋全体が人の歩みにつれて絶えず揺れ動くので不安定この上なく、いつしか足早に渡っていた。
下校の時には、私は御幸橋を渡ると千田町付近で西の方角に向かい、明治橋の下流に架かった南大橋を渡って吉島の土手に出る近道をたどった。
その南大橋は、爆心地から1,800メートル離れた地点にあって、被爆時には欄干を焼かれ、南に傾斜した姿で存在していたが、住吉橋と同様に10月の水害で流されてしまい、その頃には応急の仮橋が架かっていた。
因みに被爆当時の橋の状況について調べてみると、市内には49本の橋が架かっており、そのうち被爆で流失したものが8橋、台風、水害で流失したものが20橋となっている。
ようやく吉島の土手に出た私は、刑務所の正門前を通って渡し場に行き、舟に乗った。
運よく舟がこちらの岸で待っている時もあれば、逆に向こう岸で客を待っている間の悪い時もあった。そんな時、こちらの姿を認めると、船頭さんは櫓を操り、船首をこちらの岸に向けた。
戦時中、陸軍飛行場建設のため勤労奉仕に行った帰りに乗った渡しの船頭さんと、戦争が終わったその年の10月から暮れまでに乗った時の船頭さんは、実は親子だったということが、つい最近になって分かった。
父親は、沖元重次郎さんと言い、明治18年生まれの人だったので、私が乗っていた当時は67、8歳の計算になる。
その息子さんは、進さんと言って、大正5年生まれであったから、当時は27、8歳だったということになる。復員して、父親の跡を継いで船頭になったと聞いたが、その後間もなく廃業し、生活の糧を求めて神戸に移住し、昭和45年に亡くなっている。
父親の重次郎さんは、原爆が投下された当日の朝も、いつものように渡し舟を漕ぎ、吉島方面から江波や観音町の新開地にあった三菱造船や三菱重工に通う職員、工員、徴用工、動員学徒などを乗せて櫓を漕いでいた。
原爆が投下された時刻には、川の中程で被爆したが、川面のことゆえ遮蔽物が何一つないために、ほとんど全身火傷に近い状態だったという。
市の中心地部から吉島に避難して来た被災者は、憲兵によって負傷の程度を確かめられ、乗船できる者とそうでない者とに分類された。その整理を、青い服をまとった刑務所の囚人が手伝った。
そのために、沖元さんは自身も負傷しているにもかかわらず、舟が沈みそうになるほど被災者を乗せ、竿で水面を覆う死体を搔き分けながら舟を対岸に進めた。そして、また折り返した。
何度も往復しているうちに、沖元さんは体力を完全に使い果たし、夕方近くには、江波側の土手にしゃがみこんでしまった。
その時の沖元さんの様子について、小野憲一さん(当時39歳)は、「原爆爆心地」(昭和44年7月・日本放送出版協会)の中で、
〈ようやく川土手に出て、渡しで吉島に渡ろうと思ったが、渡しのおじいさんは、朝から何べんも往復したためか、疲れたと言って座っていた。舟を借りて渡った〉
と、証言していた。
小野さんは、市内天神町でタクシー業を営んでいたが、戦争末期には江波の埋め立て地にあった三菱重工(株)広島造船所の材料課に勤務していた。
当日の朝は、電気部の食庫内にいて被爆したが、激しい爆風に吹き飛ばされた後に、半壊した建物の下敷きになり、胸部を強く圧迫された。幸いなことにすぐ自由になることができたが、避難の誘導をしたり、瓦や柱の下敷きになった者たちの救出作業や医務室への搬送に追われ、ようやく退出許可が下りたのは午後5時頃であった。
また当時、観音町の新開地にあった三菱重工(株)機械製作所設計課に勤務していた私の小学校時代の友人は、家が吉島にあったので、毎朝、渡しに乗って通っていた。
その日も午前7時に家を出て、沖元さんの漕ぐ舟で対岸に渡って出勤した。そして、2階の事務室に入った瞬間、眼の眩むような黄色い閃光が走り、つづいてすさまじい爆風が襲いかかって来たが、とっさに机の下に潜って事なきを得た。退出許可が出て会社から渡し場に行ってみると、舟も沖元さんの姿も見えなかった。止むなく、友人は泳いで吉島に渡って家に帰った。
その沖元さんは、被爆から3ヵ月後の昭和20年11月19日に、江波町84番地で亡くなっていた。
渡し場に趣を添えていた「藤の棚」も、いつしか姿を消していて、誰ひとり消息を知っている者はいなかった。
出典 公益財団法人 渋沢栄一記念財団編 『青淵』2003年(平成15年) 8月号 14~19頁
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