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帰らなかった母 
藤田 月美(ふじたつきみ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
私は高等女学校の2年生でした。学童疎開の後片付けに動員されており、前の日の5日には出かけたのに、6日の朝はどうしても起き上がることができず、布団の中で横になっていました。その時、飛行機の音が耳に入り、警戒警報は解除になっているはずなのに変だなと感じました。するといきなり、「バアッ」と何とも表現しようのない光を感じて飛び起きました。弟が私の方に向って駆けてくる姿が目に入りましたが、次の瞬間家は崩れ落ちました。それからはもう夢中でどうやって家の下から這い出したか覚えていません。ともかく外に出ることができ、皆はどうしているかしらとあたりを見回していると、弟の泣き声が聞こえました。直後に妹の泣き声も聞こえました。泣き声を頼りに弟と妹はすぐ助け出すことができましたが、祖母はとても大変な状況でした。側を通る知人に助けを頼んでも手伝ってもらえず、私一人で家の下敷きになっていた祖母をやっとの思いで助け出しました。あたり一面灰色、空はネズミ色。ちょうどキノコ雲の真下にいたわけです。当時13歳の私がどうしてあんな力が出せたのか今でも不思議に思います。

祖母を助け出した時は、私も放心状態でした。しかし、そのころには火の手が上がっていて急いで逃げなくてはなりませんでした。2歳の妹を背負い、5歳の弟の手を引いて倒壊した家の上を必死の思いで人々の後ろについて逃げていきました。最初は祖母もいっしょでしたが、いつのまにかはぐれてしまいました。途中で目にした有様のむごたらしいこと!とても言葉では言い表すことはできません。

近所の人が己斐の近くに非常時のために小さな小屋を建てていたので、隣組の人たちと逃げ込みました。とは言っても小屋はつぶれ、野宿の状態でした。逃げる途中で見失った祖母とはその日のうちに再会でき心からほっとしましたが、それから大変な思いをしながら三日間を過ごしました。その間にも私は、ひたすら母の帰りを待ち続けました。母は当時37歳で広島気象台に勤めていたのですが、たまたまその日は、県庁の方へ用事を頼まれいつもと違った行動をしていたのです。

その小屋にいつまでもいるわけにもいかず、母のことを心に残しながら、町内の避難所と決められていた宮内村で一泊し、次の日には、祖母の実家の水内村へ行き着きました、その頃になると祖母はすっかり疲れ果てて寝込んでしまいました。そのうえ弟までも病気になり、洗濯だけでも大変なことになりました。冷たい田舎の川の水で大きなシーツなどを洗っても、まだ13歳の私には絞る力もなく、毎日、母のいない悲しさ辛さに涙が出ました。

祖母は、それから3か月後に亡くなりました。その間にも私は父と母の帰りを今か今かと待ち続けていたのです。

父は、被爆の2、3日前に広島の陸軍第二部隊に召集されていました。そして爆心地近くの西練兵場で重傷を負い収容先の草津の小学校で8月8日に亡くなったと、後日聞きました。その部隊の生存者はわずか2、3名だったということです。

まだ子どもだった私には種々の思いで胸がいっぱいになりながら、どうしてよいかわかりませんでした。友だちもほとんど失いました。あの日、作業に出ていて亡くなった友だちのことを思い、以前はそれほどでもなかったのに、勉強もできないとなると無性にしたくなったものでした。私は学校へ通い続けることを切望していましたが、それはかなわず、美容院に内弟子として入ることになりました。そこではなんとか弟や妹の力になれるようにと、それを目標にしてがんばったのですが、結局、弟、妹とも離れ離れにされてしまい、その時は本当にがっかりして、生きる望みをなくしてしまったほどです。

私はどうしても母のことをあきらめきれず、もしやもしやと思いつつ一縷の望みをつないで、母の帰りをその後もずっと待ち続けました。被爆約20年後、叔父が母が残しておいた手紙と書置き、家の資産明細票、戦時中の国債等を返してくれた時には本当に驚きました。これは私のすぐ下の妹信子が父の実家へ学童疎開する時、もしもの時に備えて妹に持たせたものでした。これを見て母への懐かしさが呼び起こされ、また母の子どもたちへの深い思いやりを改めて知りました。もっと早く見せてほしかったと叔父を恨めしくも思いました。

私が本当に母の死を受け入れたのはさらに後のことです。友人が広島の共同慰霊碑に母と一字違いの「栗山キクエ」という名前を見つけました。遺体の収容場所が不明なので確信は持てませんでしたが、遺骨を引き取り栗山家の墓に納めました。

60年目にしてなお思いは残ります。ここにいまだに尽きることのない母への哀悼をこめて母が遺した「手紙」と「書置書」を掲載させていただきます。
 
最愛なる信ちゃんへ

これは不幸にして私等二人あなたの父と母が空襲にて死んだ時に丹原のおぢ様に見せるのですよ。それ迄は決して開いてはいけません。なぜと言へば、これは私等のためた全財産です。親が死んだ時、信ちゃんや忠、千里等が生き残ったなら必ず誰か親類の人にお世話にならねばなりません。その時、この貯金を持ってあなた達の養育金にしてもらふのです。だから私らが二人共死ななかったら誰にも見せずに焼いてよろしいです。どちらか一人残った時も焼いてよいです。決してこの言葉を忘れないやうにしなさい。こんな事はないと思へばよいですが、空襲は必ずあるし、誰か死ぬるのも解った事です。その時の用意にと思って書き残しておくのです。万一不幸にして私等が死んだなら、あなたは立派に大きくなるのですよ。からだに気を付けて大きくなって下さい。よき心の人になるんです。日本女性として恥じない人になって下さい。これで置きます。

信ちゃんへ
                                                                                          母より
 
書置の事

これはいつ空襲を受けるかわかりませんので、其時不幸にして一家全滅する様な最悪の場合を想像して書き残して置きます。

予てより信子がお世話様になりまして済みません。家内一同より厚く御礼申上げます。

全員若くは子供だけ残して私等が死ぬ様な時、又外の子供も親類の御厄介にならねばなりません。その時に少しでも貯金があれば大きくなる迄御面倒を見て戴くのに負担が軽くなりはしないかと思って貯金又は定期預金の番号を記入しておきます。この番号がわかって居れば、天満町の郵便局で証人があれば通帳の再交附もして呉れるでせう。
 
出典 八王子市原爆被爆者の会(八六九会)編 『原爆被爆60年』 光陽出版社 2005年 177~183頁
  

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