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二度と戦争がないことを願って 
丸山 幸惠(まるやま ゆきえ) 
性別 女性  被爆時年齢 4歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2022年 
被爆場所 広島市舟入仲町[現:広島市中区舟入中町] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私の家族は当時、明治33年生まれの父・前濱熊吉、明治43年生まれの母・キクノ、小学6年生の長男・武志、小学4年生の次男・睦志、小学1年生の長女・公惠、4歳11ヵ月の私、2歳の三男・昌幸の7人で舟入仲町に住んでおり、近くに電車通りがありました。

戸籍謄本によると、私は宇品の方で生まれたことになっているため、舟入に住む前は、宇品の方に住んでいたようです。

当時は、空襲警報だと言ったら、電気を黒い布で消して、高須の上野ガーデンという所に行っていたことを覚えています。上野ガーデンが、どのような場所だったのかは分かりませんが、小高い場所にあったと思います。そこに、母のたんすを預けていたので、戦後もたんすだけは残っていました。

津田に、母のおばを頼って、父を除く家族6人で疎開していました。父は、宇品造船に勤めていたので、舟入の家にいました。当時、小学4年生以上は集団疎開しており、2人の兄は、東城のお寺に疎開をしていましたが、「帰りたい、帰りたい」と言うので、一緒に津田に行くことになりました。疎開先では、一軒空き家を借りて、母の妹家族と一緒に住んでいました。

被爆前の生活がどのようだったかは、まだ5歳前だったので、ほとんど覚えていません。記憶に残っているのは、被爆後の衝撃的な場面からです。
 
●8月6日
兄達の学校が3日間休みになったので、家族で8月5日に舟入の家に帰りました。

8月6日は朝早くから、観音に住んでいた母方の祖父母の家に、きょうだい5人で遊びに行くことになりました。祖父母は、観音橋を渡って、少し行った所に住んでいました。

観音の祖父母の家に向かう途中、橋の上から、たくさんの魚が泳いでいるのが見えました。上の兄と姉と弟の3人は、そのまま観音の祖父母の家に向かいましたが、下の兄と私は2人で舟入の家に帰り、玄関を入ってすぐの左手の部屋で、近所の男の子と一緒に釣りの支度をし始めました。

その時、一瞬で真っ暗になりました。皆、ピカ、ドーンと言われますが、音など何も聞こえませんでした。とにかく、一瞬で真っ暗になりました。何が起こったのか、全く分かりませんでした。私の右の眉毛の上の所から、血が流れていました。

下の兄が真っ暗の中、手探りで階段を見つけました。2階に上がると、父と母がいました。父が「この爆弾は、今までの爆弾とは違う」と言いました。今でも、その言葉が頭に残っています。

●舟入の家からの避難
私たちの家は、崩れていませんでしたが、2階の窓から外に出たとき、隣の家は、少しつぶれていました。その家には、私と同じくらいの年の子とお母さんが暮らしていました。そのつぶれた家の窓から、女の子が見えました。父が、窓を割って、その女の子を助け出しました。また、その家の下の方から、お母さんの声で「助けてくれ」という声が聞こえていましたが、あちこちで煙や火が出始め、そこにいられなくなりました。助け出した女の子と一緒に逃げた覚えはありません。家の下から声が聞こえたため、そこに置いたままにしたのかもしれません。

一緒に釣りの支度をしていた近所の男の子と父と母、下の兄と私の5人は、他のきょうだいが行っている、観音の祖父母の家へ向かうことにしました。観音へ行く途中で、近所の男の子の身内の人に会い、その人に男の子を渡しました。

逃げる途中、今になってみると、トマト畑だったのではないかと思う場所の地面に、おばけみたいな人が、たくさん倒れていました。とにかくたくさんおばけみたいな顔の人がいて、とても印象に残っています。その時は、まったく怖いとは感じませんでした。

観音へ向かう途中、祖父と上の兄と姉と弟が、けがを治療してもらえる所に並んでいると聞きました。両親は、私と下の兄を川の土手にあった木の箱があるところに置いて、祖父たちを捜しに行きました。

両親が戻ってくるのを待っている間、黒い雨にあいました。ザーっと降ってきたのではなく、地面にポツンポツンと跡がつく、コールタールを薄めたような雨でした。両親が戻ってくるのを待っている間に降ってきたので、原爆が落ちてすぐに黒い雨が降ってきたのではありません。

どれくらい両親を待っていたのか、その後どう逃げたのかは覚えていません。

●祖父母・きょうだいたちとの再会
8月6日の朝に橋の上で別れ、観音の祖父母の家に向かった上の兄と姉、弟の3人は、原爆投下時、上の兄と姉は観音の祖父母の家の中におり、弟は乳母車に乗せられて、屋根のひさしがある所にいたそうです。祖父は家におり、祖母は何か商売をしていたので、大八車を引いて出かけていました。

弟は、かわらで頭をけがしており、その治療をするために、祖父たちは並んでいたそうです。

上の兄は、少し家の下敷きになり胸を打ちました。姉と祖父はけがをしていませんでした。

祖母は、昔の醬油屋さんのような長いエプロンだけが焼けずに、全身大やけどを負った状態で、6日中に観音の家からそれほど離れていない場所で見つかりました。

祖父母と家族全員で上野ガーデンに避難して、6日の晩は、外で寝て過ごしました。その晩、市内の方が全部真っ赤で、空まで赤く見えたのをよく覚えており、その光景が目に焼き付いています。

翌日の朝、母が上野ガーデンの近くの桃林から桃を拾ってきてくれて、家族皆で食べました。他に何も食べる物がなく、津田に帰るまでは桃が唯一の食料でした。

祖母は、「水くれぇ、水くれぇ」と小さな声でずっと言っていました。そして、7日か8日の夕方、家族皆に看取られながら、上野ガーデンで亡くなりました。

●焼き場にて
9日の朝、乳母車の枠を外して、茶箱だったと思うのですが、木箱を置いて、その木箱の中に祖母の遺体を乗せ、焼く所へ父と私の2人で行きました。

焼く所に、祖母の遺体を持って行った時に、「1人だけ焼くことはできない」と言われたそうです。そこで父は、祖母の焼け縮れてほとんどないような髪の毛と爪を、糸切りバサミでつみました。それらが、遺骨の代わりにお墓の中に入っているのだと思います。私は、祖母の遺体を焼いてもらうところは見ていないので、その後、祖母の遺体がどうなったのかは分かりません。

焼き場では、何十人かの死体の山にわらをかけて、バケツで何かをかけていました。既にわらがかけられていたので、その山の死体は見ていません。朝早かったためか、その死体の山には、まだ火がつけられていませんでした。

川土手に、死体の山が乗せられたリヤカーや大八車が並んでいるのが見えました。髪の毛はチリチリ、顔も何とも言えず、まともな服を着ている状態でもなく赤むけで、どす黒いような皮がダラーンダラーンと垂れている死体が山ほど大八車に積まれて、次から次へと運ばれてくる光景が頭の中に焼き付いています。その死体を男の人二人がポーンポーンと投げていたのをよく覚えています。人間ではなく、大型ごみのような扱いでした。当時は怖いと思いませんでしたが、今思い出すと、トラウマのようになっています。

●どくだみ草での治療
祖母の遺体を焼き場に持って行った後、その日のうちに、津田に祖父と家族全員で帰りました。

私は、毎日鼻血が出るようになり、伏せって寝ていました。弟は、ウジがわくような傷を負っていたので、ずいぶん深い傷だったのだと思います。おばさんが「あんたらは、毒吸うて帰ってきとるんじゃけぇ」と言って、どくだみ草のお茶を、一生懸命沸かして、飲ませてくれました。

弟の頭の傷口には、どくだみ草の葉を何十枚か洗って、ぬらした新聞紙に包み、風呂のたき口で蒸して練って、黄色い油紙に塗ったものを、母がウジを取って貼っていました。

そのうち私は鼻血が出なくなり、弟の頭の傷も治りました。病院に行った覚えはありません。そのため私は、どくだみという植物は、ものすごく力のある植物だと思っています。

●家族の被爆後の健康状態
原爆投下の1年後くらいに、祖父と家族全員で、津田から五日市へ引っ越しました。「広島は、6、70年は草木も生えない」と言われていたので、舟入には帰らなかったのだと思います。今でも戦後生まれの弟が、五日市に住んでいます。

祖父は、五日市に引っ越して間もなく、亡くなりました。

母は、被爆者健康手帳を持っている人が行く健康診断で、肝臓の数値が高いと言われ、比治山のABCC(原爆傷害調査委員会)に検査をしに行きました。その後、治療を続けていましたが、他に大きな病気にはなりませんでした。しかし、母は被爆時、2番目の弟を妊娠しており、11月に生まれましたが、1年後位に亡くなりました。母の妹も被爆時、妊娠していましたが、産まれた子はすぐ亡くなりました。原爆の影響があったのだと思います。

昭和22年には、3番目の弟が産まれました。

上の兄は、胸を打っていたため、肋膜炎になりました。中学生の時は、ずっと学校を休んでおり、先生が勉強を教えに家に来てくれていました。

すぐ下の弟は、被爆時の頭のけがのためか、他の子より発達が遅れました。両親は弟がそのようになったことについて、ずっと自分たちを責め続けていました。

私は、被爆者の健診で糖尿病と高血圧であることが分かり、ずっと何十年も検査と、同じ治療をしてもらっていますが、今の所これといって大きな病気はしていません。母は、わりと元気に99歳まで長生きしてくれましたが、上の兄は肺がんで63歳で亡くなり、下の兄は全身がんで79歳で亡くなりました。姉は3年前に腎臓がんになり、1つ腎臓を取りました。腎臓の検査を定期的にしており、その間隔が少し長くなったと言っていた頃でした。この春に脳梗塞になり、病院に入っていると聞いています。きょうだい皆ががんになるので、自分もがんになるのではないかと不安になります。

●結婚と出産
私は23歳で安佐北区口田出身の夫と結婚しました。私が結婚する頃は、なるべく原爆に遭っていることは隠すような時代でしたが、私は、原爆に遭っているから結婚に対して何か不安があるというような考えはありませんでした。

結婚する時、被爆者であることを自分から言った覚えはないのですが、私が何かの拍子に被爆していることを口に出してしまっていたのだと思います。夫やその家族も、結婚するときには、私が被爆者であることを知っていました。

結婚して10年くらいたった頃に、3番目の子どもを子宮外妊娠しました。その時、姑や近所のお年寄りに「原爆におうとるけぇじゃ」と嫌味っぽく言われました。初めての子どもを流産したときは、私が妊娠していることを知らなかったので、姑には特に何も言われませんでしたが、原爆に遭っている人は、何かにつけてそのように言われるのかと思い、ショックでした。

夫や姑は、直接原爆には遭っていませんが、姑は牛田にきょうだいがおり、身内の方と一緒に捜しに行ったため、後に被爆者健康手帳をもらっていました。しかし、私が嫌味を言われた時は、まだもらっていませんでした。

口田の夫の家の近所は、家の天井は吹き飛んだものの、黒い雨は降らなかったそうです。夫の家の天井も、爆風でだいぶ持ち上がったと言っていました。

●被爆者健康手帳
両親、きょうだい皆、被爆者健康手帳を持っています。被爆者健康手帳が交付されるとなったときに、父がすぐ申請したのだと思います。

私の被爆者健康手帳の被爆場所は、観音町になっています。正確に書いてある手帳を持ちたいと思い、一昨年、舟入に変更してもらうため、市役所に行きました。保証人は姉になってもらい、市役所の人が五日市まで姉の話を聞きに行ってくれました。厚生労働省に書類も提出してもらいましたが、被爆時、私と姉は一緒にいなかったため、保証人にはなれないという通知がきました。観音町で被爆した上の兄の手帳には、舟入と書いてあったと、兄嫁から聞きました。父が申請するときに、私と上の兄がいた場所を、間違えたのだと思います。

また、姉も私も被爆場所は観音町になっているのですが、私の手帳では爆心地からの距離が1.7キロ、姉は2.0キロになっていて、これもおかしいと思っています。変更の手続きをするときに姉の所に行って、姉の手帳を見て気付きました。国のやり方に疑問を感じています。

●体験記を残そうと思ったきっかけ
ロシアの戦争があり、「核」という言葉をひんぱんに聞くようになって、心が保てなくなったのが、今回体験記を書くきっかけになりました。通っているデイケアの職員が、私が、今核が落とされたらどのような世の中になるかという話をしばしばするのを聞いて、そこまで思うのなら書いてみてはどうかと言ったので、帳面に思い出す度に書き出すようになりました。「帳面には、ひらがなばかりで書いているから、持っていけない」と言うと、デイケアの職員が書き直し、冊子を作り、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に持って行ってはどうかと勧めてくれました。

私より若い人で、原爆についてここまで覚えている人はいないと思います。1番若くても、お腹にいた子で77歳ですから。そのような気持ちになって、誰に見てもらっても、聞いてもらってもいい、1人でも多くの人に伝えることができればと思い、祈念館に持って行きました。更に今回の執筆補助事業にも申し込んだのは、核の恐ろしさをより詳しく書き残し、多くの人に知ってほしいと思ったからです。

現在はデイケアに通っており、そこにも原爆に遭っている人がいます。原爆に遭っている人とは話が合い、どんな様子だったか分かり合えます。しかし、原爆に遭っていない人は、その悲惨な状態は想像がつきにくいと思います。

原爆の経験者の話をよく聞いている人は、まだ少しでも話が分かると思いますが、普通の人は、どれだけ言っても分かってもらえないと思います。デイケアの職員には、「今まで、原爆に遭っている人の話は聞いているけど、一瞬で真っ暗になったというのは初めて聞いた」と言われましたが、デイケアの中に2.0キロ以内で原爆に遭っている人がおられ、その人も一瞬で暗くなったと言われたので、私が覚えていることは、間違っていなかったと思いました。

デイケアに通っている原爆に遭っている人とは、今ではあんなだったよね、こんなだったよねと、よく原爆の話をしますが、ロシアの戦争が始まる前は、原爆の話をしたことがありませんでした。「核」「核」と言われ始めてから、もし今核を落としたらどういう世の中になるのか、という気持ちが強くなり、原爆について話すようになりました。

●伝えたいこと
今、ロシアが今後どのようにでてくるか、「核」という言葉を聞くと、恐ろしいです。あの時の核と今の核は、全然規模が違います。今でも当時の場面が思い出されるほど、一発であのような状態になったのですから、今の核が落ちたらもっと恐ろしいことになり、もっとひどいことになります。一発で何万人もの人が一瞬で死んだのですから。もし落とされたら、どんな世の中になるのでしょうか。

核で死んでいる人の死体は、人間ではありません。だから、核をこの世から一切なくすべきだし、持っていても得になることはありません。

核を造った人を恨んでいます。アメリカの立場から言えば、核を落としたために早く戦争が終わったというような考え方なので、アメリカを恨むという思いはありません。

若い人に少しでもいいから、戦争はするものではない、戦争をして得になるものは何もないということを、知ってもらいたいです。皆が仲良くできれば、上手くいくのにと思っています。 

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