(1)当時私は河原町(借家)で祖母と母の三人暮らしでした。8月6日祖母はいつもと同じで三菱造船に出勤しており母もすでに勤労奉仕作業に出ていました。私は神崎国民学校2年生で(担任は女性で難波先生でした)したが学校は休みだったのか家にいました。
あの頃は食糧難で配給の大豆粕や売店で売っていた代用食や雑炊が常食でしたので、川の近くに住んでいた私は川の潮位がひざ位になれば、雁木より川に下りてシジミや海老を獲るのが日課のひとつでした。(ガン(黒色)や白サイ(白色)と言う海老でしたが、母が頭にかけていたネットで特製した柄付の網でよく獲って家族三人でよく食べたものです。)
あの日は雲一つなく日本晴れでした。潮が満潮でしたので川の潮が引く迄パンツ1枚裸足で家の前(小路)で遊んでいましたが警戒警報のサイレンで家の中に入っていました。
(あの頃は上空にB29の飛行雲が出ると警戒警報、B29が去ると警報解除となる日が多発していました)
しばらくして警報解除のサイレンが大儀そうに鳴ったので再び家の前の小路に出て遊んでいたところ、突然強烈なフラッシュのような光が射したので、直ぐ玄関に駆け込み足踏台に腰かけて目と耳を両手で抑え口を開けてしゃがんだ(学校で練習していた)のですが、その直後家が倒れ下敷になりました。一瞬の事でしたが、もの凄い埃と壁土を多量に呑み込みあたり真っ暗の中、むせて咳き込み埃や壁土を唾と一緒に「ペッ、ペッ」と吐き出しました。
私は下敷きでしたが気を失うこと全く無く今でもよく記憶しています。しばらくの間はシーンとして私の声、音の他は物音せずとても静かでした。
頭の左側耳の上に傷を負い血が出ていましたが、しばらくして血は止まりました。その他には運よく怪我もなく下敷きから出ようと体を動かしましたが、どうにもならず大きい声で助けを求めましたがいくら叫んでも誰も来ません。そのうちあちこちから火事になり炎の明かりで川沿いの道路上を歩く人が見え始めました。人数も次第に増えてきたので更に大きい声で助けを求め「ここだ!!助けてくれ!!」と何度も叫びました。(私が住んでいた家は川沿いの道路より低い所でしたので炎の明かりで道路上を歩く人がよく見えました。)
今思うにあの時、中学生か高校生ぐらいの男子でしたが、助けを求める私の上に来て木材や瓦礫を取り除き私を引き出してくれました。
(2)下敷きから脱し川沿いの道路に上り住吉橋へ下る時、川を見ましたが川底に多くの人が沈んでおり白一色の様でした。兵隊さん達の乗った小船5~6隻が竿やトビグチのようなもので沈んだ死体を船に引き揚げていました。又、川向いの住吉神社は大きな屋根(合掌作り)がそのまま地面にドサッと座したように倒れており、木端微塵になっていないのが不思議に感じました。やはり神様が神社を守ったのだろうか…と子供心に思いました。
(3)住吉橋に出て道路の両側に火傷や負傷した多数の人が座ったり寝たりしている状況で子供の私にも水を求められましたがどうする事も出来ませんでした。その後大勢の人の流れと一緒になって舟入の電車道を過ぎ観音橋方向へ逃げましたがその途中、電柱や倒壊家屋がよく燃えており大きな炎と凄い熱で熱く、竹(と思う)等の破裂音(ポン、ポン)が凄く、火の粉となって裂け飛んで来ました。観音橋東詰めに来た時、祖母の実弟で製材業を営んでいたお爺さん(現在子供さんが継承されている)に出会い「この川を下れ。祖母に会えるから下れ」と教えられ川沿いに下がりました。江波山か皿山(どちらかはっきりしませんが…)
付近の川岸に大きな石造りの渡し場のような(ゴミ積出場又はゴミ捨て場とあの時聞きましたが…)ところがあり、その下に大勢の三菱関係の人や近所の人が集まっており、そこで祖母に出会いました。祖母が朝、持って出た弁当(大根飯が半分残してあった)を食べ、母のことを気にしつつ川辺りでそのまま寝込みました。
私が寝ている間に母を捜しに出ていた祖母に夜中に起こされ「母を見つけたのですぐ行くぞ」と手を引っ張られ住吉橋に向かい7日の早朝住吉橋西詰めに着きましたが全身火傷で横たわっていた母は既に死亡していました。
※前夜(6日夜)祖母が母を見つけた時、母は家族や知人の目につき易い所と思い住吉橋迄来た事や、子供である私の安否等について会話も出来ましたが、母がだんだん目が見えなくなってきたと話すことや、火傷の状態から死期が近いと祖母は感じ、子供の私が無事でいるので直ぐ連れてくる旨を母に言い残し引き返して来た次第でした(祖母談より)
(4)その後祖母と日赤病院や市役所等外観が残っているコンクリート建物内に入りましたが市役所内の状況が特に印象に残っています。ガラスが飛散し天井からひん曲がって突き出ていたり、垂れ下がっている鉄骨や梁(と思った)や黒く炭のようになった死体等強烈でした。
又、線路上に電車が倒れず残っていましたが、電車は何と重たいものだろうと思ったものです。
夕方には江波の川辺りに戻り付近の畑のカボチャを取り塩をつけてガシガシと食べ空腹を満たしました。あの付近は一面カボチャ畑のようでしたが葉が全部茶色に焦げ落ちており、ソフトボール位の実のみゴロゴロと多く見受けられ、あの時あの近くに避難した人は食べていました。
※塩は江波山か皿山(どちらかはっきり覚えていません)のふもとの家で倒壊はしていませんが柱も割れ斜めに傾いた家の人がカマスに入った塩を持ち出し「畑のカボチャも何もかもどうしようもないので遠慮せずに食べてくれ」と皆に差し出していました。
(5)9日か10日ごろだったと思うのですが祖母と二人で茶色の灰となっていた自宅の焼け跡(灰が白くなく茶色でふんわりとした感じの灰であった)を探しましたが赤茶色になった飯炊き用の鉄の釜のみ見つけ持ち帰りました。
又、母の骨は多数の遺体焼却場所で母の遺体の概略位置付近にあった小骨少々を拾い10日頃と思うのですが祖母と母の出生地である沖美町に帰りました。この間、パンツ1枚、裸足で過ごせたのは真夏であったからこそであり、秋冬でなくて幸いでした。
沖美町に帰ってからは防空壕生活でしたが9月中旬、連日の大雨で防空壕内部が水浸しで寝ることも出来ず一晩小学校の教室に泊まりましたが、翌朝防空壕に行ってみたら山崩れでつぶれており二度目の命拾いをしたと祖母と話したことを覚えています。
この間小貝や小魚、各種の草や畑の収穫後に捨てられている野菜の残り屑等いろいろな物を食べた生活でした。
(6)その後、老女の手で私を育てる難事や私の将来を案じた祖母は台風による大水害後の9月下旬に私の父の里である江田島の本家に私を預け、祖母は沖美町で一人で生活していました。その後近所に住んでおられたお爺さんと御縁で夫婦となり仲良く暮らしていましたが昭和50年にお爺さんが死去され、祖母も昭和54年に死去しました。
昭和20年9月以降江田島町の切串小学校2年に編入した私は、昭和28年3月に中学校を卒業後、農業手伝いや土木作業等をして昭和29年夏より広島に出て工員をしていましたが昭和30年(18歳)に自衛隊に志願し約35年勤務後平成2年に定年退官しました。この間、昭和40年に結婚、昭和41年に長男、昭和46年長女出生し家族4人で現在に至っています。
以上、長くなりましたが私の体験等について事実を記しました。 終わり |