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原爆被爆体験記 14歳の記憶 
土本 暁(つちもと あきら) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島機械製作所(広島市南観音町[現:広島市西区観音新町四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二中学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
はじめに
 
広島に、原爆が投下されてから60年。往時茫茫としてくるだけに、部分的にせよ、鮮明に残る当時の記憶を書き留めておくことは、人類最初の被爆者の一人として、当然の義務のように思われてきて、ここに14歳のときの被爆体験を取りまとめ、書き記すこととした。
 
1945年(昭和20年)8月6日
 
私は、当時、広島県立第二中学校(現・広島観音高等学校)の3年生であり、14歳であった。
 
広島市の西南に位置する広大な広島機械製作所(現・三菱重工業(株)広島製作所観音工場)に、学徒動員されていたが、職場は、正門から最も遠い広島湾に面した、鋳鋼工場の鋳物用の砂をつくる混砂場であり、爆心地から4.7km離れた位置にあった。
 
当日は、隅々、電気炉の部材を、福島川対岸の遥かなる地まで、リヤカーで疎開させることになっていた。
 
被爆の瞬間
 
早朝(8時15分)、決められたリヤカーを曳いて、鋳鋼工場北側の大きな出入り口に差し掛かった時のことだった。
 
突然、眼の前一杯に青白い強烈な閃光が走り、ハッとして立ち止まったとき、前面の工場の屋根越しに、オレンジ色の巨大な火柱が立ち上がると同時に、空も工場も一切が赤く染まり、えも言われぬ美しさになった。驚嘆する間もなく、ドガンという大音響。上の方からスレートの破片が、ザーッと落ちてきた。「あっ」と思って振り向いたとき、工場の海側の壁のスレートが、まるで映画の爆発シーンのように、一挙に吹き飛んで行った。危ないと直感し、工場から走り出たが、学友の中には、目と耳を押さえて、その場でうつ伏せになっている者もいた。
 
鋳鋼工場の裏手は、岸壁まで未整地の理立地であったが、各工場から逃げ出してきた者が、三々五々集まって来た。一様に緊張し、ものも言わず、広島の市街地の方に向いて、硬直したように突っ立っているばかり。市街地の方は、一面煙に覆われて、建物等は何も見えず、時々炎がメラメラと立ち上がるのが、遠望されるのみであった。
 
ふと見上げると、入道雲のような雲が、巨大な柱のようになって、グングン天空に立ち上っているではないか。市街地の下の方は、一面黒い煙に覆われ、その上を灰色の煙が覆い、まるで、これらを土壌にしたように、雲は、一本の巨大なキノコ雲になって、ムクムクと伸び、広がり、純白の色を青空に輝かせながら、覆いかぶさってくる。その凄まじい動きを、ただ呆然と見上げるばかりであった。
 
暫くすると、日頃、皆から恐れられていた恰幅のよい係長がやって来て、「こんなことは、戦争していると当り前だ。製作所に、爆弾が2発落ちただけだ。」とその場所も特定して、叱咤するのを聞いて、中学生ながら、戦争はこんなに怖いものかと震えていた。
 
やがて、担任の教師から「広島の街もやられているようなので、全員、すぐ家に帰れ。」との退去命令。鋳鋼工場から正門までは1km余。場内大通り右手の工場群は、屋根も壁もスレートはすっ飛び、廃屋のように鉄骨を晒している。通りは、スレートの破片が散乱し、左手にあった木造の建物は、倒壊していて、徴用で来ていた水兵達が、仲間の救出に当たっているようであった。
 
帰路の惨状
 
正門横の自転車置場から、自分の自転車を取り出し、外に出てみると、正門前の広い真っ直ぐな道路の先は、地面まで薄黒い煙が立ちこめていて、何も見えず、時々、煙の中から真っ白いドーランを顔に塗ったような女性が、低く泣きながら現れて来るのが、異様であった。
 
いつも通る工場から天満川に至る帰り道は、点在している家々が全て破壊されており、道路には瓦や木材等の大小の破片が散乱し、とても自転車に乗って走れる状態ではなく、自転車を押して帰りを急いだ。
 
すると、突然、道端から「坊ちゃん、坊ちゃん」と喘ぐような声。振り向くと、血まみれの人が、這いながら血だらけの布を差し出してくる。生まれて初めて見る凄惨な姿に、ギョッとして立ち竦んでいると、近所の人か「〇〇さん、酷いことやられんさったのう」と言いながら、その布を受取って、あちこちの血を拭い始めていた。自分の手をすぐ差し伸べる勇気の無さを恥じながら、一変した情景に、驚きと恐怖で、心臓の高鳴りを覚えるばかりであった。
 
天満川に架かる昭和大橋を渡り、市電江波線の終点の停留場辺りに来てみると、広い車道には瓦礫が散乱し、電車も見当たらず、煤けた白シャツを着た2~3人の男の人が、思案に暮れたように前方一面の厚い煙を見ていた。見上げると、キノコ雲は、太陽に輝きながら更に更に天空に伸び、少し西に傾いてきているようであった。
 
瓦礫を避けながら、いつも自転車で往復している道路を通り、本川の西側の土手に辿り着くと、本川の最下流にある住吉橋は、煙で見え隠れしている。橋の方から下がって来た人たちは、橋を通れないので、対岸には泳いで渡るしかないと言う。自転車を盗られないように、土手下の壊れた家の陰に置き、どのようにして家に帰ったらよいのか、暫く川を見ながら思案していた。
 
満潮の川にはイダ(ウグイの中国、四国地方の呼び方)ぐらいの大きさの、広島では見かけることのない赤い魚が、網で掬えそうなぐらいヨロヨロとして泳ぎ流れていく。後で、熱線で赤く焼け爛れた魚だったのかと思ったが、そんな魚が生きている訳がなく、恐らく川に流れ出た池の鯉だったのであろう。
 
我が家に帰るには、川を泳いで渡るしかないと覚悟を決めて、川辺で適当な材木を探し、その上に脱いだ服や靴を置いて、材木にすがって泳ぎ渡ったが、満潮で潮の動きがなかったのが、幸いであった。対岸は吉島の広島刑務所。川に面したコンクリートの高い長い塀に沿って迂回し、できるだけ広い街路を選んで、家路を急いだ。
 
しかし、不案内な土地である上に、無我夢中なため、何処を通っているのか分らない。我が家の方向に進もうとすると、路は煙に閉ざれ、人影はなく、遠方には炎さえ見えて、引き返すこともしばしば。家並みは崩れ、瓦屋根が覆い被さるように倒壊している家や、柱ばかりになっている家、無茶苦茶に壊れた商店ばかりで、まともな建物は少なく、街路には、家や家財の破材や電線が散乱し、狭い路は、通り抜けるのも困難な状況だった。
 
途中、所々で人が集まっているのを見かけたが、逃げ出してきた人たちであろう。衣服は血や煤で汚れ、破れたりしていて、気を昂らせ、不安そうに辺りを見回しながら、話し合っていた。
 
ギラギラと照りつける太陽の傾きから、もう正午は過ぎていると思われたが、時間がさっぱり分からない。潰れた街並みを急いでいると、救援活動をしている数人の兵隊に出会い、言い知れぬ心強さを覚えた。
 
しかし、「元気な者は手を貸せえ」と呼び止められて、柱を引っ張ったり、材木を寄せたりするのを手伝わされたときは、何時、我が家に帰れるのかと不安になった。
 
その時、大柄な班長のような兵隊が、「これは、大きな機雷を空中で爆発させたんだ。機雷を空中で爆発させると、こんなになる。日本も他所の国でやっとる。」と大きな声で説明していた。大きな機雷を空中で爆発させると、こんな酷いことになるのかと、感心して聞いたことが思い出される。
 
御幸橋辺り
 
何処を通ってきたのか分らないが、迂回しながら御幸橋(爆心地より南東2.3km)に辿り着いたのは、午後の2時か3時頃であった。今まで通ってきた所は、家々が爆風で破壊されていても、火災はなく、また、多くの人々は、外傷を受け、衣服には血が滲み、埃まみれになっていたが、比較的元気で、男か女か、大人か子供かの見分けはついた。
 
しかし、御幸橋に近付く辺りから、様相は一変してきた。髪はバサバサに立ち、顔は膨れて、目は開いておらず、顔の皮膚は剥げて垂れ下がり、剥がれた赤身には煤がこびり付いている。衣服はボロボロに焼け焦げていて、体液の滲んだ肌が見える。熱線で腕が引きつり、少し前に差し出されるような体勢となった手の先には、皮膚が垂れ下がって、何かに当たると引っ付いてしまいそうになっている。女の人だが、もう人間の姿ではない。
 
男の人も同じようではあるが、皆、おかっぱの髪型をしている。男のくせに、何でこのような変な散髪をしているのだろう、と不思議に思っていたが、帽子を冠っていた中の髪は残り、露出した髪は熱線で焼けて無くなったのだ、と気付いたのは、ずっと後のことだった。
 
誰だか判別できない無惨な姿に変わり果てた人たちが、煤煙の瓦礫の路をヨロヨロと歩いている様は、まるで幽鬼が彷徨っているのを見るようであった。外にいた人は、熱線で瞬時に焼かれて全身大火傷を負い、家にいた人は、爆風で押し潰されて、血塗れになったのを知った。そして、誰もが一様に灰神楽(火鉢など、火の気のある灰の中に湯水をこぼして、灰の舞い上がること。また、その灰けむり。)の中から抜け出たように煤けている。
 
御幸橋の袂には、変わり果てた人たちが多く群れ、佇み、座り込み、また倒れていた。中国新聞社カメラマンだった松重美人氏が、被爆3時間後に御幸橋西詰めの惨状を撮られた有名な写真があるが、私が御幸橋に辿り着いたのは、その写真が撮られた時刻よりも3~4時間後になる。しかし、この写真を初めて見たとき、不思議に「あっ、御幸橋だ。」と直感したが、そのときの惨状は、今でもその写真と重なって思い出されてくる。
 
御幸橋は、京橋川の最下流にあるコンクリート造りの大きな橋で、私の家のすぐ傍にある木造の柳橋(爆心地より東方1.5km)から数えて3番目に当たり、この辺りまでは、小さな頃から遊びに行くこともあった。もう我が家には近い。
 
欄干の無くなった御幸橋を渡り、比治山線の電車道を進むと、前方の壊れた建物は、盛んに燃え上がっている。電車も一台止まっていたが、運転席の窓ガラス等は吹っ飛んでいて、中はがらんどうで人影もなく、床には煤けたものが散乱している。川の向かい側に並ぶ家々は、煙を噴き出したり、燃え上がったり、焼け落ちたりしている。街全体は、依然として厚い煙に覆われていて、遠くは何も見えない。
 
比治山橋辺り
 
比治山下の停留場近くまで来たが、そこから我が家がある土手町(広島市にかつて存在した町名。現在の町の区域は広島市南区稲荷町、比治山町、松川町。)を通る路は、川に沿った土手側の家並みも、路を挟んだ下側の家々も、既に殆ど燃え落ちて煙っており、一面熱気に包まれていて、とても通れない。やむなく比治山橋まで引き返し、川を伝って帰ることにした。
 
比治山橋袂の石段を降りると、丁度、干潮時で、川幅の三分の二位まで砂州ができていた。そして、そこには、何十人もの人が寝転がっており、水際にも、多くの人が倒れ込んでいて、水の中に顔を突っ込んだまま、死んでいる人もいる。
 
水を求めたのか、火に追われたのか、セーラー服を着た女学生が多い。髪はバサバサで、顔は、薄黒く真ん丸に膨れ上がり、開かない目や口元の線が判るだけで、皆、同じような無惨な顔になっている。汚れた白いセーラー服から、女学生であることは判っても、誰だか見分けがつかない。うめき声や呟くような声を出している人もいるが、ほとんどの人は、もう立ち上がる力はなく、仰向けになったり、伏したりしたまま、遮るもののない、午後の強い陽射しに、照りつけられていた。
 
「父や母は、大丈夫だろうか。この人たちと同じようになっていたら、どうしよう。父や母だと、判るだろうか。」と俄かに心配になり、思い詰めながら、祈るような気持ちで、砂州を縫いながら柳橋の方へと急いだ。
 
両親に再会
 
柳橋辺りは、干満の差が大きい。潮が満ちると東岸まで深くなるが、潮が引くと西岸に川幅は狭まり、広い砂地が現れる。砂地には多くの人がいた。しかし、先ほどのように、倒れ込んでいる人は少ない。驚いたことに、太い材木で造られていた柳橋が、なくなっており、橋杭だけが、ぽつんぽつんと残っていて、煙っている。橋の東側の袂にあった我が家は、既に焼き尽くされ、余燼がくすぶっていて、近付くことができない。
 
対岸の水辺の方を見ると、父と母は小舟の傍にいた。その舟は、父が蒲刈造船所の知人から貰い受けた、櫓で漕ぐ木造の小舟で、我が家の岸壁に繋留し、水遊びに使っていた。
 
母は、じっと見つめている。近付いて「お母ちゃん」と声をかげると、「暁ちゃん」と言って呆然としているようであった。父は暫くしてから「よう帰ってきた。」と言ったまま。父は大きな怪我もなく、母はあちこちに血を滲ませていたが、両親共に、熱線でやられた様子はなく、元気そうであり、ずっと抱いていた不安も吹っ飛んで、改めて、様変わりした周辺を見回すばかりであった。
 
そして、母と今までの見聞を語り合い、父は口を挟むでもなく聞いていた。
 
母の話
 
早朝、空襲警報が解除になり、皆、やれやれと思いながら防空壕を出て、我が家に帰った。母は、私を学校(学徒動員の工場)へ送り出した後、家事の片付けをしていた。父は、橋の袂に広場を確保するという強制疎開によって、10日前に隣の家と我が家の一部が取り壊されたため、外で独り褌一枚になって、その片付けをしていた。
 
早朝7時半ば過ぎ、井原(岡山県の西南部に位置し、西は広島県に接する地域、現在は市。)から、佐々木さんというお爺さんが、訪ねて来られた。佐々木さんは、80歳になるのに元気に百姓をされていて、月に一度、少しながら米や味噌等を持参されて、我が家で寛ぎ、私の父が下戸だったので、貯まっている配給の酒を嗜まれるのが、楽しみのようであった。
 
佐々木さんが来られたので、父も母も仕事を止め、窓をいっぱいに開けた川に面した部屋で、3人で戦争の噂話をしていた。そして、父は中座して便所に行った。母はもてなしの準備のため台所に行き、再び部屋に引き返そうとして、廊下に上がったときだった。
 
突然、何万燭光もの青白い閃光が走り、驚いて廊下から飛び降りたとき、「ドガン」という大音響とともに家は崩れ、屋根の下敷になった。真っ暗で何も見えず、腰辺りを押さえつけられていて、身動きもできない。大声で「助けて!助けて!」と叫んでいたが、傍を通る父の気配を感じたが、行き過ぎてしまう。「火事だ」という声を聞いたとき、このままもう助からないと思った。
 
そのうち隙間から一条の光が射してきたので、一生懸命掻き広げ、手を差し出して「助けて!」と言っていたら、父も漸く気付いて引き出してくれた。父は便所に入っていたが、トタン葺きになっていたため、押しつぶされることもなく、すぐ出られたのこと。しかし、褌がなくなり素っ裸になったため、褌を探して、潰れた家の上をウロウロしていたらしい。
 
母は、自分の家に爆弾が落ちたとばかり思っていたが、助け出されて見回すと、どの家も全てがペチャンコに潰れていて、遠くまで見通すことができ、あちこちで火の手が上がっていて、これは大変なことになっている、と思った。強制疎開に遭った隣家の残骸も、燃え上がっている。
 
父と母は、急いで佐々木さんを引っ張り出し、3人で稲荷橋の方に逃げた。そこは、逃げ惑う人ばかりで、適当な避難場所も見当たらず、やむなく柳橋の袂に引き返したが、柳橋は、両端と真ん中辺りが、チョロチョロ燃えていた。バケツ3杯の水があれば、消せるのにと思ったが、バケツなどあるはずもない。
 
橋の袂の石段を下りると、川は満潮で、幸いにも繋留していた我が家の小舟は、無事であった。3人で小舟に乗って逃げることにしたが、櫓は吹き飛んでいてなく、竹竿を拾って漕ぎ出した。しかし、川面はさざ波が立ち、旋風が吹いて、舟はくるくる回るばかりで容易に進まない。
 
悪戦苦闘しているとき、上流から大きな舟が寄ってきて、「危ないから、この舟に移れ。」と言われて助けられ、地獄で仏に会ったように嬉しかったことが、忘れられない。両岸の石段には、多くの人が逃げて来ていて、「その舟をこっちに着けえ。お前らは、それでも日本人か。」と叫ぶ。舟を着ければ、忽ち多くの人が殺到し、舟が転覆するのは必至だけに、辛い気持ちを抑えて、下らざるを得なかった。
 
佐々木さんは、顔が真ん丸に膨れあがり、目も開かなくなっていて、絣の着物はぼろぼろに焦げ、「熱い。熱い。」と言われていた。比治山橋の下まで来たとき、もう軍隊の救護隊が来ていて、橋上から「重傷者は上に揚げえ。」と大声で指示され、父が、佐々木さんの手を引いて上がり、救護隊の軍人に「よろしくお願いします。」と言って引き渡した。佐々木さんは、直ぐに他の重症者と共に軍のトラックに乗せられ、何処かに連れて行かれた。橋の周辺には筵が敷かれ、多くの人が横たわっていたが、死んでいる人が多いようであった。
 
潮が引くと、比治山橋周辺の砂州には、白いセーラー服を身に付けた沢山の女学生が、ヨロヨロと下りて来て倒れ込んだまま動かない。みんな熱線で大火傷をしていて、髪はバサバサで、顔は黒く真ん丸に膨れ上がっていて、目も開かない。国民服を着た先生のような人もいて、既に死なれているようであった。先生が、ここまでみんなを引率して、逃げて来られたのかも知れない。
 
「水。水。水をください。」と呟くような声が聞かれたが、父が「水を飲ませてはいけない。水を飲んだら死んでしまう。」と言うので、ただ茫然と、どこのお嬢さんだろうかと思いながら、見つめるばかりであった。
 
とにかく家の方へ帰ってみようということで、父と母は小舟を曳いたり、押したりしながら、浅瀬を縫って柳橋まで帰って来た。橋は焼け落ちている。橋の袂の我が家は、勿論、周辺の家々は全て焼け落ち、燻っている。何もする力もなくなって、ぼんやり辺りを見回していた。そこに、ひょっこり私が帰ってきたのだった。
 
比治山にて
 
暫く経ってから、父が比治山で寝る場所を探そうと言うので、夕日の照りつける中、川の砂州を通って、比治山に向かった。比治山の登り口には、軍の救護隊が来ていて、大勢の人が群がっている。おにぎりを一つ貰って食べることができた。
 
救護所では、火傷を負った人は白い油薬をべったりと塗られ、怪我をした人は赤チンを塗られていた。衣服は汚れ、破れ、ボロボロに焼けたりしていて、顔や露出している部分は、白や赤の薬が塗られている人が殆どであり、山頂に至る広いアスファルトの道の両側には、これらの人々が隙間なく座ったり、横たわったりしていて、もはや人間の世界ではなかった。
 
漸く3人が寝転ぶことができる場所を、見つけることができた。日が暮れ、街の方を見下ろすと、遥か彼方まで見渡すことができ、あちこちで未だ燃えているのが見られた。焼け落ちた柳橋の平塚町側で炎が上がり、人影の動くのが見られたが、軍隊が死者を焼いているとのことであった。翌朝、目覚めたとき、隣に寝転がっていた人は、息を引き取られていた。
 
被爆翌日以降
 
両親に無事会えて、安心しきって親任せになっていたためか、それ以降の記憶は不思議に曖昧だったり、欠落していて、断片的にしか思い出せない。特に思い出されることや、所感を書き記してみたい。
 
むごい死体
 
死んだ人が余りに多く、死んだ人の姿が余りに惨いため、死体を見ても、驚きや恐れもなくなり、無感動になってしまった。
 
京橋川の柳橋辺りでは、多くの死体が流れていくのが見られた。引き潮のときは上流から、そして、満ち潮のときは下流に流された死体が、再び戻って来るようであった。家や家財などの破材が固まって流れてくると、そこには大抵の場合、死体もあった。また、焼け落ちた柳橋の杭には、しばしば死体が引っ掛かっていた。このような光景は、10日以上も続いていた。
 
我が家の焼け跡の真ん前のアスファルト道路に、瓦礫とともに五右衛門風呂の鉄釜が転がっていた。そして、その中にすっかり炭化した死体が、入っていた。一体、その風呂釜は、どこから飛ばされて来たのか。なぜ、その中に人が入っていたのか、今もって不思議でならない。
 
被爆して我が家に急ぐ途中で、広島刑務所の対岸辺りに置いてきた貴重な自転車を、被爆後2~3日経ってから探しに行った。街全体は、既に灰燼に帰していたが、なお、あちこちで燻っていて、焼け跡や瓦礫の下を掘ると、すぐ死体が出てきそうだった。メイン道路である電車通りには、救援や肉親探しの多くの人が行き来しており、その白いシャツが眩しかった。
 
紙屋町を通り、国泰寺まで来たとき、国泰寺の大きなクスノキの太い枝に、幾人もの人が垂れ下がって死んでいた。また、境内にある幾つかの高い墓の先端には、覆い被さるようにぶら下がっている死体が見られた。恐らく火に追われてよじ登ったのであろうが、お寺で、何故、こんな惨い不思議な死に方をされたのかと思わざるを得なかった。
 
井原の佐々木さんのこと
 
当日早朝、井原の佐々木のお爺さんが、汽車を乗り継いで訪ねて来られた。まるで、原爆に遭って死ぬために、我が家に来られたように思える。お爺さんが来られたため、裸で疎開跡の片付けをしていた父は家に入り、家事をしていた母も仕事をやめて、3人で、窓を開け放した川に面した部屋で、見聞を話し合っていた。
 
そして、父は、中座して便所に行き、そこで被爆したが、容易に脱出できた。
 
母は、もてなしの準備のため台所に行き、部屋に戻りかけたとき、倒壊した家の下敷きになったが、父に助け出された。父も母も熱線で傷を負うことはなかった。
 
しかし、窓際に座っておられた佐々木のお爺さんは、熱線の直射を受けて、全身大火傷を負い、3人で逃げた先の比治山橋で救護隊に引き取られ、消息不明になってしまわれた。
 
佐々木のお爺さんは、私の父と母を助けるためにわざわざ来訪され、そして身代わりになられたのだ、としか考えられない。佐々木さんの遺族の方も尋ねて来られたが、杳(よう)として行方が判らず、母は、申し訳なくてお気の毒で仕方がなかった、と言っていた。心からご冥福をお祈りする次第である。合掌。
 
父のこと
 
父は、被爆してから、8月下旬に体の力が抜けてしまったようになり、寝返りを打つのも母の手を借りる状態になったが、4~5日してからいつの間にか快方に向かった。
 
それから4年後、半年間病臥にあって、全身に次々できる大きな腫瘍に苦しむようになり、近所の開業医も始めのうちは手術して膿を搾り出していたものの、終にはお手上げとなり、昭和24年6月に他界した。当時は開業医も「原爆症」という認識が乏しく、「糖尿病性の腫瘍」という診断だったが、父は間違いなく「原爆症」で死んだのだ、と母は確信している。
 
母のこと
 
母は家の下敷きになり、全身のあちこちから出血し、ガラスの破片なども突き刺さっていたが、幸い重病で臥すことはなかった。
 
母の元気さと愛情・献身に支えられて今日があると思うとき、ただただ感謝するばかりである。
 
母は80歳のとき、「原爆の追憶」という体験記を書き、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にそのコピーを送っている。
 
今年、目出たく100歳を迎えた。さすがに体力はなくなっているが、まだ惚けてはおらず、医者の兄一家に支えられ、介護人のお世話になりながら、週1~2回のショートステイに行くのを楽しみにしている。いつまでも元気であって欲しいと希(こいねが)う。(なお、兄は医学生として山口県にいて無事だった。)
 
原爆症の病床にて
 
私は、8月の末に高熱と激しい下痢で倒れた。40度を超える高熱が一週間あまり続き、頻繁に水のような下痢をして、うわごとを言い、見る見るやせ細り、髪も抜けてきて、母はもう駄目だと思ったとのことである。
 
父の知人を介して、逓信病院の蜂谷院長に、トタンと廃材で囲った程度のバラックである我が家に来ていただき、診察を受けたところ「大腸カタル(潰瘍性大腸炎)」との診断。処置をして頂き、薬を飲んだら、熱も引いてきた。しかし、すっかり痩せ細り、髪は抜けて薄くなり、目ばかりがギョロッとして、腿は骨と皮ばかりで片手で握れるぐらいになっていた。勿論、立ったり、座ったりすることもできない。体力回復も遅々で、結局、年末まで病床に臥していた。
 
母は、私に栄養のあるものを食べさせるために、大変無理をしていた。遥か遠い仁保(広島市南区に位置する地区)まで歩いて出掛け、配給の塩と無花果を物々交換して帰ってきたことが二、三度ある。「農家の人はこすく(ずるく)って」とこぼしていたが、それでも、小さなバケツ一杯の無花果があった。食糧難で甘味の乏しいときではあり、甘党の父も大喜びしていたが、殊の外、美味しかったことが思い出される。今でも無花果を見ると、格別の感慨が湧いてくる。
 
9月の或る日の夜半、広島は猛烈な台風に襲われた。バラックの小さな我が家は、ギシギシと揺れ動き、今にも吹き飛ばされるのではないかと思った。凄まじい風の音とともに、戸板がひん曲がる。父と母は、必死に戸板を背中で押さえていた。吊っていた蚊帳が、バタバタと私の布団を叩く。衰弱していた身には、痛くて仕方がなかった。
 
後年、柳田邦男氏の「空白の天気図」を読んで、9月17日夜半から18日にかけて広島地方を襲った猛烈な枕崎台風であったことを知った。台風襲来の予報はなく、バラックで辛うじて風雨を凌いでいる市民にとっては、原爆後の大惨事であった。記録によると、広島で風速30.2m/s、最大瞬間風速45.5m/s。広島県の死者・不明者は2000名を超えたという。
 
病床にあるとき、いつの間にか左足の甲を捻挫していた。衰弱していたので、足に重いものがちょっと乗っ掛かっただけで、容易に挫いたのであろう。年が明けても歩くことができず、三ヶ月近くマッサージ師に通っていた。このため、復学したのは、中学4年の新学期からであり、幸い留年にはならなかった。
 
今思い返しても、腹立たしいことがある。昭和22年の初夏の頃だったが、或る日、授業中の校庭に一台のジープが入って来た。何事だろうだろうと見ていると、私の名前が呼ばれて、ジープに乗せられた。そして、広島日赤病院に連れて行かれた。病院では何の説明もないまま、ベッドに寝せられ、いきなり採血が行なわれた。胸に麻酔の注射を打たれたような気がするが、鳩尾(みぞおち)辺りに金属製の漏斗を突き刺し、捻りながらグイグイ押し込むその痛さは途方もなくて、まるで重量の電車を胸に乗せられるような感じで、息もできなかった。漏斗の開いた傘の部分に、注射器を差し込み、血を抜かれて終わったが、日本人の医師からも看護婦からも、一口の慰めの言葉もなく、モルモット扱いそのものであった。悔しくて、暫く涙を滲ませながら無言のまま採血医を見返していた。
 
ずっと後になって、ABCC(米国原子爆弾傷害調査委員会)が広島日赤病院に事務所を開設し、血液検査を開始したのを知った。
 
おわりに…被爆60年を迎えて(74歳の所感)
 
私は、広島生まれの広島育ち。高校を卒業するまで広島に居住していた。東京の大学を卒業後は、会社に入り、全国を転々としてしたが、古希(数え70歳)を迎え、リタイヤするとともに、終(つい)の棲家を神戸に構えた。しかし、広島は何といっても生まれ故郷であり、知人も多い。未だに広島訛りが消えず、熱烈なカープファンでもある。原爆忌には、往時を偲んで、静かに黙祷を捧げている。
 
被爆後、健康を取り戻してからは、大病を患うこともなく、入院したことがないのが自慢であった。みんなとワイワイと酒を酌み交わすのが好きであるが、酒席で、しばしば私の元気さを怪物視され、原爆で放射能消毒を受けたからだ、と抑楡される。会社には47年間世話になったが、多の知己を得て、元気かつ有意義に勤めることができた。
 
会社をリタイヤ後も、健康に不安がなく、東奔西走、右往左往しながら旧交を温めたりしていたが、昨夏、健康診断で前立腺ガンの疑いがもたれ、また、腎臓に多数の結石が見付かり、医者の勧めで、生まれて初めて入院治療を受けることになった。幸いガン細胞は発見されなかったものの、結石破砕治療が意外にこじれて、結局、通算で47日間も、病院生活を送ることとなった。
 
入院中、ベッドであれこれと過去を振り返ることが多かったが、私自身、風化の恐れがある被爆体験を、いつかは取り纏めておきたいという思いが強くなり、取り敢えずは、思い出されたことを断片的にせよ、メモにしておいた。そして、被爆60年を迎えて、漸くここに取り纏めた次第である。
 
唯一の被爆国として
 
被爆そして終戦になってから60年。日本も世界も大きく変わった。
 
日本は平和国家として奇跡的な復興を遂げ、嘗(かつ)ての貧しさが笑い話になるくらい経済大国になった。
 
世界は、冷戦構造が崩壊したあとは、人種・民族・宗教間の対立が先鋭化し、国のエゴもむき出しになり、地域紛争が頻発して、世界平和の座標軸が定まらず、テロの脅威に晒されている。
 
生き残った原爆被爆者も戦禍の体験者も、次々と亡くなり、高齢化し、原爆の怖さも戦争の非惨さも体験していない世代が、今や絶対多数となり、中心的存在になってきている。
 
世界には、核の闇市も存在し、本年5月にはNPT(核不拡散条約)再検討会議も決裂した。核軍縮・核不拡散も、全く見通しが立たないどころか、核兵器を保有し、開発する国が連鎖的に増える恐れが指摘さている。まるで、「原爆は絶対悪であり、核廃絶を求める」という国際世論や人類の願いを、嘲笑しているかのようである。
 
日本は60年間、ともあれ平和国家であり得た。何故か。それは平和憲法があるからではないか。憲法解釈は事実に合わされたり、政策的に歪められたりしている。それでも、憲法の持つ規範力が暴走を抑え、超えてはならない一線を守っている。世界もそれを評価している。
 
原爆を必要悪と見たり、戦争をゲーム感覚で捉えたりすることは、危険極まりない。ナショナリズムは、過激な言動ほど愛国心が強い、と錯覚する。
 
今日、改憲ムードが高まっているが、世界唯一の被爆国として、冷静に事態を見つめ、改憲問題に対処する必要があると考えるのは、被爆者だけの強い思いであろうか。

                                                         以上
  

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