●岡山県津山市での生活
私は現在84歳です。私が生まれた荒牧家は、父・荒牧迹(とまる)、母・ツナヲ、5歳年上の姉・初代、私(美津子)、3歳年下の妹・玲子の5人で、当時鉄道局の職員だった父の勤務先である岡山県の津山機関区の宿舎で生活していました。昭和13(1938)年に私が生まれたのもその宿舎で、予定日よりも早い出産だったため、湯を沸かす時間がなかったため、蒸気機関車で沸いた湯を持ってきてくれて、それを産湯として使ったそうです。父は宿舎近くの事務所にいたのですが、私が生まれたことに気が付かなかったそうです。
●父がビルマへ
私が3歳のときに、父は広島に転勤になり、当時日本軍が占領していたビルマ(現在のミャンマー)へ行きました。鉄道線路を引く際に、日本の職人と現地の人との、英語の通訳を務めるためです。そのため、広島市尾長町にある長屋へ引っ越しました。私の両親はともに九州出身で、尾長町には特に親戚や知り合いがいたわけではありません。引っ越し先がなぜ尾長町だったのかは、私は幼かったのでよく分かりません。尾長町では父もおらず、また身の回りのお世話をしてくれる人もいなかったので、母は苦労したのではないかと思います。持っていた嫁入り道具、着物などを、戸坂の奥の方へ持っていき、芋や米などの食べ物と交換してもらっていました。戦後、母の嫁入り衣装だけは残っていましたが、他の物は何も残っていませんでした。すべて、食べ物に換えたのでしょう。
ビルマに行った父は、実際に銃などを持って戦うことこそなかったものの、ジャングルの中を逃げ回るなど、危ない目に遭ったこともあったそうです。
●尾長町での生活
尾長町で、私は尾長国民学校に入学しましたが、空襲を避けるため、近所の大きな家があるところへ分かれて行き、寺子屋のような感じで授業を受けていました。学年の区別はなく、住んでいる地域の近い子どもたちが集まっていました。私が通ったのは、私の家の入っている長屋の西隣にあった、天理教の建物でした。長屋は路地に面していたので、その路地で妹とよく遊んでいました。
近所の家に焼夷弾が落とされ、大穴が開いて全壊したことがあり、「飛行機は人や家をめがけて焼夷弾を落とすのだから、気を付けなさい。飛行機が来たら隠れなさい」とよく言われていました。
●8月6日
その日も、私はいつもどおり天理教の建物の中で授業を受けようとしていました 。母は、長屋に住んでいるほかの人たちと一緒に、婦人会で昭和町へ建物疎開に行き、安田高等女学校の1年生だった姉は、学徒動員で中島町に行っていました。
私は、建物内の窓際の席で、祭壇に向かって座っていたのですが、突然、爆弾が落とされました。光や音は覚えていません。遠いところにいた人は、きのこ雲が見えたのでしょうが、私には何も見えませんでした。何も分かりませんでしたが、とにかく爆弾が落とされたのだということは分かったので、外に出ました。
天理教の建物の中は、家具が倒れて床がガラスだらけになり、塀の赤土と竹が崩れ、バリバリになって倒れていました。とにかくぐちゃぐちゃでした。私の顔(右の頬)にはガラスが刺さり、当時5センチ位切れていて、血が体全体に飛び散っていました。私の靴も、落ちてきた物に埋もれてしまい、裸足で瓦礫の上を歩きました。建物は倒れませんでしたが、床にガラスの破片が飛び散っていたので、足の踏み場がありませんでした。家に帰ってみると、自分の家も同じように、滅茶苦茶になっていました。隣の庭で遊んでいた妹と、一緒に泣きながら路地を歩いて通りに出て、母が帰ってくるのを待っていました。(今の中山峠です)
通りには、大やけどをして男か女かも分からぬ姿の人たちが、皮膚が垂れ下がり、「いたいよー、痛いよー」と手を前に突き出して歩いてきて、ばたばたと死んでいました。皆、街から逃げて来た人たちです。「助けて、助けて、水、水」と言いながら、防火水槽に頭を突っ込んで死んでいきました。
夕方、母が帰ってきました。母によると、母が帰って来たとき、私の右頬はガラスで切れて血が出ており、痛みと恐怖で、妹と一緒にぎゃーぎゃーと泣いていたそうです。私自身、その時着ていた黄色に黒い水玉模様のワンピースに血が染みて、その後乾いてカリカリになっていたことを覚えています。また、これは最近知ったことですが、妹は外で遊んでいるときに被爆したため、指先をやけどしたそうです。
母は朝、建物疎開に行き、昭和町の柳並木のところで作業前に整列して兵隊さんを待っているときに被爆しました。ピカッと光って、その後気絶したそうですが、奇跡的にやけどはしていませんでした。一緒に行った他の人たちは皆ひどくやけどをしていたので、母は幸運にも、何かの陰にいたのでしょう。娘たちのことが気になり、町内会の人たちの弁当を入れていた小車(乳母車)を押して帰って来たのですが、帰ってから見てみると、弁当箱は真っ黒にこげていたそうです。また、帰り道はあちこちから火の手が上がっていたそうです。
大人の人たちが、家の裏にある山の中に、大きな蚊帳をつってくれたので、私と妹はその日、そこで過ごしました。同じ蚊帳の中には、被爆してやけどを負って帰って来た近所のおばさんも多くいて、唸りながら横になっていました。母はその夜、市街地から山への延焼を防ぐため、尾長国民学校へ消火活動に行ったので、私は妹と二人になり、震えながら、蚊帳の中から広島市内が燃える様子を一晩中見ていました。
●帰って来ない姉
翌日、7日になっても姉・初代が帰って来ないので、母は市内に捜しに行きました。「中島町へ行ったはずだから、とにかくそこへ行ってみる」と言って出かけて行きました。以下は、私が母から聞いた話です。
相生橋から下っていくと、人の死体がゴロゴロと転がっており、川も死体でいっぱいでした。橋を渡ると、鳶口で死体を引上げ集めて焼いている兵隊さんに出会ったので、「このあたりで女学生の遺体を見ていませんか」と尋ねると、「女学生がそこらへんにおるから見てみんさい」と言われました。言われた方を見てみると、男女の別も前後も分からないほどパンパンに腫れあがった遺体があったので、一人ひとり、ひっくり返して捜しました。その時は、汚い、臭いなど、全く分かりませんでした。見た目では分かりませんでしたが、モンペの紐で、長女を見つけることができました。ちょうど、紐を新しくしたばかりだったのです。
その遺体が長女であることを兵隊さんに伝えると、「そこに遺体をよけておくから、明日かめを持っておいで。立派に焼いてやる」と言われました。そのため、その日は仕方がないのでそのまま家へ帰り、9日に、元々味噌を入れていた灰色に紺色の模様の入った、小さな壺をきれいに洗って持っていき、お骨をもらって帰りました。
実は、6日の朝、母は自分が建物疎開に出かけるため、姉に、「勤労動員を休んで留守番をして、妹たちの面倒を見てくれないか」と頼んだそうです。でも姉は、「先生と約束したから、休むわけにはいかん」と言って出かけて行きました。姉が母親の頼みを素直に聞いて留守番をしていたら、死なずに済んだのに、と母は悔やんでいました。
とはいえ、ほとんどの人は骨さえ見つからなかったそうなので、私の姉は骨が見つかっただけ、幸いなのだろうと思います。
●戦後の生活
昭和22(1947)年に、ビルマへ行っていた父が帰ってきました。父は帰国後も鉄道局に勤めたため、一家で大州町の宿舎に引っ越しました。自宅に部下を連れてきて、夜中まで麻雀をしていたことがあり、うるさいなあと思っていました。そんな父ですが、帰国から4年後の昭和26年に、心筋梗塞で亡くなりました。私が12歳のときのことでした。
父が亡くなってからは、母が一家の大黒柱として働き始めました。父の勤め先だった国鉄の関係で世話をしてもらい、南蟹屋にある国鉄の物資部の支店に勤めることになりました。住居についても、父が亡くなってからは大州町の宿舎に住み続けることができなくなったので、しばらくは南蟹屋で暮らしました。しかし、母はその後、「実家が長屋では風が悪くて娘が嫁にいけない」と言い、府中山田に家を建てました。今でも私は、母が建ててくれたこの家で生活しています。
私は比治山小学校を卒業して、段原中学校、皆実高校と進みました。当時、私は保育士になりたいと思っていたのですが、母のお店を手伝わなくてはならなかったので、大学進学は諦めました。
母は、仕事が忙しかったのだと思いますが、私はあまり、母に優しくしてもらった記憶がありません。父が亡くなった12歳のときから家事をして、家族の食事や母の弁当作り、洗濯などをしていました。洗濯は木でできたたらいでするのですが、水が冷たく、冬は手が痛かったことを覚えています。
母の店では、砂糖や醬油、酢、油、麦など、色々なものを扱っていたので、それらを量って販売しました。砂糖は30kgを百目(575g)で量り、醤油は樽で届いたものを量っていました。妹には、母の手伝いはさせず進学させ、妹は歯科衛生士になりました。
昭和42(1967)年、29歳のときに、お見合いで出会った人と結婚しました。29歳と言えば、その頃は「行かず後家」と言われる年齢です。それまでにもお見合いをたくさんしたのですが、原爆に遭っていることや病気がうつる、父親がいないことなどでなかなか話がまとまりませんでした。原爆症については、「うつる」と何度も言われました。また、九州の人と付き合ったときには、その人の親から、「原爆に遭っている人はだめ。うつったらどうするんだ。変な子が生まれる」と反対されました。被爆した人は長生きができないと言われたこともあります。
結婚した夫は、原爆には遭っていませんが、私が被爆したことについて、気にしないと言ってくれました。そんな夫との間に、3人の娘を授かりました。
●私のトラウマ
長女を出産するとき、鉄道病院(現在のJR広島病院)に入院しました。ある夜、4階の病室の窓から広島市内の方向を見ると、市街地の灯りがまるで燃え盛る炎のように見えて、入院している間中、ずっと眠れませんでした。それ以来、炎が怖くて、ろうそくの火もキャンプファイヤーの火も、とんど祭りのお焚き上げの火も見たくないほどです。後に、これが「トラウマ」だということを知り、入院中に街の灯りが炎のように見えたのは、8月6日に蚊帳の中から広島市内が燃え盛る様子を見たことが、トラウマとして私の中に残っているからなのだと分かりました。そしてそのトラウマは、今この歳になっても、消えることはありません。その時に生まれた長女は、何も話していないのに火を怖がるため、私のトラウマが何らかの形で影響しているのかなと思います。
●被爆体験記執筆補助事業に申し込んだきっかけ
私は8年ほど前から、平和記念公園の動員学徒慰霊塔に行くようになり、現在は毎月通い、慰霊塔を清掃したり、花を活け替えたりしています。元々は母が長く通っていて、毎月6日には朝4、5時に起きて母を送って行っていました。母が行けなくなってから、私が行くようになりました。やはり、学徒動員で亡くなった姉がかわいそうという気持ちと、さぞ苦しかった事だったと思う気持ちがあります。ですがこうして慰霊塔に通うことも、いつまで続けられるか、続けられなくなったときや自分がいなくなったときに、何が残るか…と考え、今回、被爆体験記執筆補助事業に申し込みました。
最近、背骨の調子が悪く、身体がしんどいように感じることも多いのですが、動員先で亡くなった姉のため、体力の続く限りは動員学徒慰霊塔へ通い続けたいと思っています。 |