昭和20年、私は広島市立己斐国民学校三年生でした。
今年はちょうど、被爆70周年あたります。
今まで、私の被爆体験については、家族にもほとんど話していません。
しかし、その実相を未来に語り継ぐのは、生き残った者の責任であることに、今更ながら気づいたので、拙い文章ですが、その責任の一端を果たしたいと思います。
昭和16年に太平洋戦争が始まって、戦局が進むにつれ、空襲への備えが叫ばれるようになりました。
各家庭には防火水槽の設置がされ、バケツや焼夷弾が落ちたときのためでしょうか、砂袋も置かれていました。また、窓ガラスには、爆風でガラスの飛散を防ぐため、和紙がテープ状に貼られていました。
防空壕も、隣組単位で設けられました。山に横穴状の防空壕が掘られたのです。
そうして、空襲警報が出たら、避難するように指示されていました。
また、防空訓練と称して隣組単位でのバケツリレーや、高めに置かれた的に向かってバケツで水をかける訓練が、盛んに行われたものです。
夜間には灯火管制が布かれ、電灯に黒い布を掛け、外に明かりが漏れないようにしました。少しでも、明かりが漏れようものなら、警防団が「〇〇さん、明かりが漏れとりますぞ」と、大きな声で注意して回るのです。
でも、こうしたことのすべては、ただ一発の原子爆弾の前には、まったく何の役にも立ちませんでした。
昭和19年、南洋のサイパン島で、兵隊さんや在留邦人が玉砕した、と報ぜられました。
ラジオからは、相変わらず威勢のいい大本営発表がされており、私たち少国民は神の国日本が、敵米英との戦争に負けるとは、夢にも思いませんでした。
でも、そのころから、B29やB24など敵の戦略爆撃機が、青空に白い飛行機雲を曳いて、飛ぶようになりました。
なぜ、我が軍の飛行機や高射砲は敵機を撃ち墜さないのかと、不思議な思いで空を見上げたものです。
そのうち、全国各地から、焼夷弾を中心とする爆撃を受けたことも、ぼつぼつ報じられ始めました。ただし、「我がほうの損害、甚だ軽微なり」という、コメントつきではありましたが。
食料の配給も、質・量ともに極端に悪くなり、特に育ち盛りの子どもたちを抱えたおかあさん方は、大変苦労されたようです。
空き地という空き地は、食べ物となるものなら、何でも植えられました。
私の家も知り合いから山を借り、畠を作ってサツマイモを植えたものです。
子どもだった私も芋苗を植えたときは、枯れないように谷から水を汲んできて、一生懸命かけたことを、思い出します。
植えた芋は、味よりも収量の多さを狙った品種で、ただ単に空腹さえ満たされればいい、というようなものでした。だからあの頃でさえ、おいしいとは思いませんでした。
こうして収穫された芋は、三食もオヤツも、芋(ジャガイモ・サツマイモ)ばかり。「また、芋か」と、ボヤこうものなら、親からビンタがとび、「芋でも、食べられることを、ありがたいと思え」こんな毎日が長く続いたのです。
今でこそ、サツマイモも鳴門金時や安納芋、蜜芋など、とてもおいしい品種がたくさんありますが、芋育ち世代の私たちにとっては、サツマイモを見れば、ちょっと複雑な心境になります。
そうして、私たち子どもにも「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンでもって、我慢を強いられたのでした。
昭和19年には、学校給食が始まりました。
おかずだけの給食で、干し肉の入った大根汁が出たのを憶えています。
干し肉には、ところどころ牛の毛がついたような代物でしたが、肉などはなかなか手に入らなかったので、みんな喜んで食べました。
また、給食に使う食器は、孟宗竹の節を利用したお椀で、轆轤(ろくろ)でていねいに磨いてありました。金属は戦争資源として供出され、使うことができなかったからです。
昭和20年には学童疎開が始まり、ラジオからは「父母のこえ」という、学童疎開をテーマにした歌が流れ、ちょっと、寂しいような不思議な気分がしたことを、思い出します。
昭和20年8月6日、朝から降るような蝉時雨と、強い日差しが照りつける日でした。
この日、低学年は錬成道場で勉強、高学年は学校で疎開の説明があるから、集まるように、学校から指示されていました。
早朝から空襲警報が鳴り響き、これが一旦警戒警報となったので、錬成道場の場所へ片手に茣蓙(ござ)を抱えて急ぎました。
当時、己斐国民学校の校舎や校庭は、陸軍の糧秣支廠が使用しており、落ち着いて勉強などできる状態ではありませんでした。
恐らく、こうしたことへの教育的な配慮から、錬成道場が設けられたのだろう、と思います。
でも、道場とはいっても、建物があるわけではなく、現在の苅場墓地の十数メートル北(爆心地から直線距離にして約三・五キロメートル)、当時、地域が設けていた、火葬場へ行く山道の一画でした。(だから、茣蓙が必要だったのです。)
着いたけれども、先生の姿はまだ見えず、友だちと待っていました。
そのとき、B29の爆音がどこからか、響いてきました。
「ビーじゃ、ビーじゃ、」と皆が騒ぎだし、私もどこを飛んでいるのだろうかと、空を見上げました。そのとき、強い稲光にも似た光線と轟音が鳴り響き、気がつくと私は爆風により、数メートル後に吹き飛ばされ、倒れていました。
空を見上げれば、子どもですから口が開きます。爆風で飛ばされた砂が口の中に入り、ぺッ、ぺッと、はき出そうとしたものの、なかなか取れなかったことを、今も思い出します。
ふと前を見ると、家々の瓦が吹き飛び、一部壊れたところも目につきました。
ああ、これが空襲なんだ、爆弾が落ちたんだな、と子ども心にも、はっきり分かりました。
恐ろしさに女の子は泣き出すし、先生はいつまで待っても来られないので、「家へ、いのーや(帰ろう)」と、いうことになりました。
急ぎ足で自宅へ向かいましたが、途中、視界が開けて市街地が見えるところに差しかかると、空高く入道雲に似た雲が、もくもくと立ち上がっていました。
入道雲にしては、灰色がかっていたように思います。のちに、原子雲とかキノコ雲と呼ばれたものです。
家に帰り着くと、戸口に祖母と母がボンヤリと、突っ立っていました。
母は、爆風で割れたガラスで頭を切り、顔中血だらけの凄い形相でした。
でも、幸い軽傷で手ぬぐいで顔を拭いたら、ほぼ普段の母の表情に戻りました。
我が家は、と見れば、窓や戸は爆風で粉々になり、足の踏み場もありません。
天井も吹き飛んで屋根の下地が丸見えです。壁は反り返り、座敷の床柱には割れたガラスが突き刺さっていました。二階の屋根瓦は爆風が強くあたったせいか、ほとんど吹き飛び、一階部分のそれも、たくさん崩れていました。
一軒先隣りの玉木さん宅が、猛烈な勢いで燃えていました。恐らく、原子爆弾の熱線で火がついたのではないでしょうか。この火事で、玉木さんと川口さん宅が、全焼しました。
火事は、当時、柚木谷にあった三菱の疎開工場に通う工員さんや学徒動員の方々の手で、消火されたと聞きました。
のちに分かったことですが、己斐国民学校でも、講堂の南面の屋根に火がつき、一部燃えていましたが、先生方や陸軍の消防隊の消火活動で、大事には至りませんでした。
また、周囲の山を見ると、赤松林が何カ所も白煙をあげて燃えているのです。
枯れ木なら、たやすく燃えますが、生木は簡単には燃えません。
爆心から、約3キロメートルも離れたこの地でさえ、生木に火がつくのですから、原子爆弾の熱線の威力が、よくわかります。
はっきりはしませんが、のちの黒い雨で、山林火災は消えたのではないでしょうか。
そうでなかったら、この地区の火災による被害は、もっと大きくなったように思います。
しばらくすると、髪の毛はちじれ、顔はやけどで腫れ上がり、突き出すようにした両手は、ボロ布のように皮膚が垂れ下がった、まるで幽鬼とでもいうような人々が、たくさん逃れてくるようになりました。
特に、現在のバス通りに面した家々には、力尽きた多くの被爆者が、次々と倒れ込みました。そうした家の方が、私の家に「遺体と一緒に寝るのは怖いから、一晩だけ泊めて」とやってきて、話されたものです。
「みんな、水、水と、欲しがってんです。でも、重傷のやけどにゃあ、水を飲ましちゃあいけんと、聞いとったけえ、飲まさなんだけど、しまいにゃあ、自分で便所の手洗いの水を勝手に飲んで、直ぐ死んじゃった。どうしても助からん命なら、水をあげとけば、よかった」と。
こうして、水を求めて、防火水槽に顔を漬けたまま、事切れた被爆者の姿もありました。
まるで生き地獄のような有様が、方々で繰り広げられたのです。
私の家にも、兵隊さん3名と女学生1名が、逃れてきました。
兵隊さん2名と女学生は、かなりの重傷のようでした。
ほとんど無傷に見えた兵隊さんが、「自分は、今から偕行社(旧陸軍の将校等の相互扶助・親睦・教育研究活動等を行っていた団体)へ、連絡に行って参ります。その間、よろしくお願いします」と、母に頼んだまま、二度と戻ってきませんでした。
母は、「あの兵隊さんも、助からなかったんじゃろうね」と、つぶやいておりました。
我が家へ逃れた人を助けてあげようにも、食べ物も医薬品もなく、己斐国民学校が救護所になったと聞いたので、止むなくそちらに行っていただきました。
しばらくして、三歳年上の姉が学校(校庭で被爆、熱線で足首に軽いやけどを負う)から帰ってきました。このままでは、どうすることもできません。
とりあえずは、母の里(現在の西区山田町)へ、祖母と3人で避難することにしました。
父は、陸軍に召集されておらず(高知県で敵の本土上陸に備え、タコツボ掘りをしていたそうです)今、思えば、一人残った母は、さぞ心細かったことだろう、と思います。
約4キロメートルの山道を逃れていったのですが、途中からは真っ黒な雨が、猛烈な勢いで降りだし、三人とも、ずぶ濡れになりました。
今でいう、集中豪雨といえば、分かっていただけるでしょうか。
己斐峠の急な坂道は、まるで川の中を歩くような有様で、大量の雨水が急流となっておりました。
降ってくるのは、黒い雨だけではありません。爆風で空高く舞い上がった、枌板(そぎいた)(薄くそいだ木の板。屋根を葺く際、用いた。)や、焼け焦げた紙片などが、バラバラと降ってきました。
母の里に着くと、みんな心配していましたが、被害の状況を話すと、直ちに母方の祖父が、己斐に向ってくれました。
祖父は、大工だったので、母とともに応急修理や後片付けをし、何とか生活ができるような状態に、戻してくれました。
道路沿いの家で亡くなられた犠牲者の遺体を、どう運び出すか。
女手は、まったく役に立ちません。男手の多くは出征していて、ほとんどありませんでした。残っていた近所のおじいさん2名が、仕方なく頼まれて処理に当たられました。
遺体は、どれも全身やけどでズルズル、手がかりになるものは何もありません。
止むなく鳶口(とびくち)(消防士が火災のときに、ものに打ち込んで運んだり、壊したりするときに使う道具)を遺体に打ち込み、引きずり出さなければなりませんでした。
引き出された遺体は、大八車に乗せ、己斐国民学校の校庭で茶毘(だび)に付されました。
平常時なら、到底許されることではありません。
緊急事態とはいえ、年寄りにとっては、さぞ辛く苦しい作業だっただろうと思います。
のちに、「わしらは、何でこんな目に遭わなきゃあ、ならなんだのかのう」と、愚痴をつぶやいておられたと、聞きました。
先に、玉木さん宅が火事になったと、書きましたが、悲劇はそれだけでは済みませんでした。玉木さんは、当時、広島市立観音国民学校の校長先生で、校舎の下敷きとなり、殉職されたのです。
「わしのことはいいから、子どもたちを一人でも多く、助けてやってくれ」と、職員に告げられ、亡くなられたと聞いております。
遺体は、親戚の方々の手によって収容され、己斐まで運ばれましたが、棺がありません。
祖父が私宅の押し入れの板をはずし仮の棺をつくって、それに納めて田舎に運んで帰られました。
このように、茶毘に付された遺体は、一体どれだけあったのでしょうか。
学校の校庭だけではなく、そこかしこで、遺体を焼く青白い煙と異臭が、何日も、何日も、続きました。
また、学校の進入路には、戸板が立てかけられ、誰それは、どこに収容されている、何町に避難しているとか、遺骨はどこそこにある、といった類の伝言が、びっしりと張られていました。
身寄りの消息を求めて、尋ね歩く人が大変多かったからに、ほかなりません。
母は、心労や毎日続く異臭、これに加えて暑さがこたえ、すっかり食欲を失ってしまいました。本来、どちらかといえば肥り気味の母でしたが、やせ細ってしまったのです。
祖父は、こんな母の姿を見て、「キミヨ(母の名)も、長くは保(も)つまいな」と、思ったそうです。昨日まで元気だった人が、突然、髪の毛が全部抜け落ちてしまい、全身に斑点が出て出血し、急死する人がたくさんいたからです。多分、急性放射能症だったのでしょう。
でも、母はしばらくして元気を回復し、平成の世まで長寿を全うしてくれました。
学校が再開されたのは、9月半ばだったでしょうか。
茶毘に付された、遺骨のほとんどは収骨され、現在も己斐小学校の校庭にある銀杏の木の前に、仮埋葬されていました。
そして、土饅頭が築かれ、薄汚れた角柱には、供養塔と墨書きされていたことを憶えています。
以上、国民学校3年生の目で見、聞いた、被爆の有様や戦争中の生活の一端を、思い出すままに書いてみました。
記憶の糸を、つなぎつなぎしながら、やっとたどり着いたような気がします。
当時八歳だったせいか、時間の経過が鮮明でなく、不確かな面も多々あります。
それと、やはり、70年の時の流れは、どうしようもありません。
被爆後、70年を経過した今も、私たち被爆者の悲願である、全世界の核兵器廃絶は、実現しておりません。
地球上の全人類を、何回も殺戮することが可能な量の核兵器が存在し、その力のバランスの上で、僅かに保たれている平和、いつ崩れるかも知れない恐怖から、私たちは逃れることができません。
こうした現実に、被爆者のなかには、「被爆者が、思い出すのも辛い自らの体験を、百万言を尽くして話しても、理解してもらえない。やはり、自らの肌身を、一度、核兵器で灼かれてみないと、分からないのでは」といった、もどかしさや焦りにも似た、苦い思いがあるのも事実です。
でも、広島・長崎から、絶えず核兵器廃絶の声を上げ続けないと、人類滅亡への歯車は止めることができません。
核兵器を保持する国の指導者たちは、広島、長崎の地を訪ね、自らの目で、耳で、被爆の実相を知る努力を、していただきたい。
あの日、熱線で灼かれ、瞬時に失われたいのち、誰からも看取られず、やけどや放射能症で、苦しみながら失われていったいのち。こうして失われた、数え切れない多数の人々のいのちの重さを、この地で感じてもらいたい。
その上で、核兵器を保有する国々の指導者に、私たちは問いかけたい。
「それでも、あなた方は、核兵器を保持し続けますか?核兵器で守らなければならないものとは、一体何ですか?」と。 |