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被爆体験について 
澤野 實(さわの みのる) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 船舶司令部陸軍船舶練習部第10教育隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和20年2月1日当時18才の学生として陸軍船舶特別幹部候補生として香川県小豆島の部隊へ入隊。入隊して解ったのがそれは特別攻撃隊つまり特攻隊であった。小豆島での4ヶ月間の訓練を終り和歌山県和歌の浦基地、広島県忠の海、広島県似の島検疫所を転々として広島県幸の浦基地へ特攻隊員として配置されました。

8月6日午前8時15分、世界に初めての原子爆弾が投下され、広島市街が全滅となり、午后より部隊長以下全員上陸用舟艇に乗り宇品桟橋に上陸し広島市内千田町2丁目広電本社を部隊救護本部に定め1週間8月6日~13日まで野営しつゝ千田町、大手町、紙屋町、爆心地である相生町附近一帯の負傷者の救出、死体の処置、火葬、市街の復興の作業に従事しました。

空襲警報解除後に、爆発時、突然―大音響に驚き広場へ出て見れば、広島上空に巨大なる噴煙がもくもくと焼え広っているではないか。だれ云ふともなく「広島のガスタンクが爆発したのではないか。」との、話もありました。

2里半離れてゐる幸の浦基地でも兵舎の窓が吹飛ぶ爆風でした。その後新型爆弾であるとの話でした。―入市するや見渡す限り全市壊滅のすごさ、筆筈に表はす事も出来ない状態なり。各戸前に置いてある防火用水桶には必ずと云ってもいい程に2人や3人が飛び込んで死んでいるではないか。中には子供を抱いて死んでいる母子の姿があり我々は感きはまって泣きました。防空壕へ入って見れば此処も必ず2、3人が倒れ込んでいました。命たへだへの人達は「兵隊さん兵隊さん、水を、水を、水を下さい。」と哀願されますが、(水を与へると患者は死んでしまうから与へてはならない。)と、止められているのだが可愛想なので、どうせ此の状態では助からないと思ひ、水を与へるとそれはそれはとっても嬉しそうな顔とともに、ゴックゥー!!と、一音立てゝ命絶えてしまいました。
 
炎天の為め、初めは軍手を付けていましたが、死体の体液の為、ぬれてグシャグシャーになり、終いには素手で作業をする様になりました。

3日後には死体を持つと、手や足がちぎれバラバラになる為に遂にホークにて収集し焼き残っている家屋の木材を集め数十人まとめて火葬しました。

どこのどなたとも解らずたゞたゞ一所懸命に死体の処置をしました。ビルーの中には数十体の死者を並べて肉親の確認を求めている姿がありましたが、何体の確認が出来た事でしょうかね。

上陸時に驚いたのは、生きている人々は助け求めて動いている人々の姿を見れば、どの人もどの人も両手を前に差出しているではないか!!よく見ると腕の下から衣の様なものがたれ下っているのです。よく見ればそれは火傷の為に皮膚が破れたれ下っているのでした。皮膚が固まりバリバリになっているので痛くて手を上げていたのです。今でも思い出せばそれはそれはぞっと…とします。

隊員全員が下痢になやまされ、そして鼻血になり、つかれも増して他の部隊と交替しました。復員後、昭和30年後、白内障になり手術しました。(原爆性白内障)

二度と再びあの様な戦争は引き起こしてはなりません。

人類の破滅です。

起こしてはなりません。

起こさせてはなりません。


  

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