母は、私がもの心ついてきた頃から、原爆の話をよくしてくれました。母から、他人には話をしないようとめられていました。昔は、原爆にあった人を差別する人が少なくなかったからです。
母が体験した地獄のありさまを、自らの痛みや悲しみをいとわず、声をあげ続けてきた被爆者の平和への願いを受け継ぎ、使命のように感じたのです。
私の母は、19才の時、原爆にあっています。そのため、私にとって一番悲しい思い出があります。
母は、原爆にあっているため、夏に弱く、日中外に出ることが困難でした。小学生は、夏休みになると学校のプールに行く人が多く、私も泳ぎたかったのですが、母がどうしても行ってはいけないと言うのです。
私がプールに行くと、親が役員をすることになり、夏の日中、外に出るのがつらいからと言うのです。
今考えると、原爆の暑さが体を弱め、ケロイドが痛かったのでしょう。子供の私は、泳ぎたい気持ちがおさえきれず、6年間、1回だけ隠れてプールに行ったのですが、濡れた水着が見つかり、叱られ泣きました。
それ以上に、母も泣いていました。今思うと、ざんげの気持ちでいっぱいです。
76年前、宝町に住んでいて銀行に勤めていた母は、いつもなら8時すぎには家を出るのにその日に限って少し遅くなり、まだ家の中にいたのです。いつも通り家を出ていたら、母は亡くなっています。祖父は8時に家を出て仕事に行ったので、即死です。今も遺骨はありません。
爆弾が落とされた瞬間、祖母と母は家の下の土の中にうまり、もぐら状態になって長い時間苦しみもがいて土の中から出てきたようで、出てきた瞬間、目の前にうつっていた風景が一変したため何が起こったのかと思い、母は祖母が1階にいたことを思い出し、「お母さんーお母さんー」と叫び続けたそうです。しばらくして祖母が土の中から苦しそうに出てきて、祖母と抱きあって泣いたと話してくれました。土の中にいた時に黒い雨が降り、母は黒い雨を知りません。
母の妹も4才で、祖母と1階にいたため懸命に探したところ、祖母や母と同じように土の中にうもれており、もがいて出てきました。見つかった時は、ただ、涙涙でした。
女学生の妹は、学徒動員で作業中に被爆。探し対面した時はヤケドで痛々しかったと聞いています。その後、4人で橋をわたり比治山の方へ逃げて、更に大河方面へ逃げたようです。父・金次が、何かあったら大河の方に知人がいるのでと言っていたそうです。
のどがかわき暑くてたまらず、川に行った時の様子を話してくれました。
両目が胸まで1本の糸のように垂れ下がり、それでも落ちないように両手で目玉をささえるように歩き続けている人。その光景を見た母は、こんな状態になっても暑さから逃れるため、生きるため、逃げ続けているんだと感じたそうです。内臓や脳が飛び出ている人、腕の皮膚が垂れ下がり両腕を前に出し幽霊のようにゾロゾロと歩いている人達、真黒こげの人、死んでいる赤ちゃんに「乳を飲ませてー」と叫んでいる人。どの人を見ても男か女かわからないくらいひどく、死体だらけの上を避けるように、又、ふまないと移動できなかったこと。「山のように積まれた死体をいたるところで焼いていたんよ」「地獄だった。地獄だった。怖かった。怖かった。」と、震える声で話してくれました。
結局、母は川まで行ったのですが、死体だらけで一滴の水も飲むことができず、飲んでいた人達は安心して息絶え、川に浮かんだ死体はおなかが大きくふくらみ、「見たものでないと、悲しみはわからない」とふさぎこむように言っていました。
何日間たったかわからない。土の上に横たわっていた時、動ける人はむすびを配るから取りに来て下さい。との声が聞こえ、祖母は私の母のため、祖母の方が死んでもおかしくない状態なのに、赤ちゃんのように少しずつはいながら、声が聞こえる方向に行ってくれたそうです。
まさに祖母の心は仏の心なのです。
祖母は、母の手のひらにむすびを握らせてくれて、力なく「落としたら砂がついて食べられないから落とさないで」と言ってくれたと言います。母はその言葉を守り落とさなかったけど、何日も何日もたつとカチカチになり腐ってしまい、それでも手からむすびを離さなかったそうです。
私は小さかったので、「どうしておなかが空いているのに食べなかったの?」と聞くと、母は、「食べる力がなかったんよ」と答えました。私は言葉を失いました。悲しすぎたのです。
何度も、昨日のことのように涙ぐみながら繰り返し話をしてくれた母。生きざまを教えてもらい、いつしか私の生きる糧となっていることに気づき、あれだけの惨劇にあって育ててもらい、ここに尊い命をいただいていることに感謝です。
祖父母や母にはありがとうの気持ちでいっぱいです。
リニューアルした原爆資料館で、爆弾が落とされる当日の朝の様子から、落とされた直後のありさまを再現されたものがありました。人間として耐えきれない日々を、頑張って生きてくれたことに涙がとまりませんでした。
2021年6月2日 原爆の後遺症に76年間耐え、頑張りぬいた一生を終えました。
三女 田中道子(宮本道子)
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