プロローグ
昭和二十年(一九四五年)五月、小学校一年生の私は、祖母に連れられて山県郡に縁故疎開しました。その直後、四歳だった妹も三原の母方の実家に一人で預けられたそうですが、余りにも寂しがるために、わずか半月足らずで再び両親の元に戻されたそうです。
私も、やはり同じような寂しい毎日を送っていました。それを察したのか、祖母が時々広島に連れて帰ってくれました。そして二、三日家族と過ごし、元気を取り戻すと再び疎開先に戻るということを何度か繰り返しました。最後の広島帰りは原爆が落ちる一、二日前でした。
〝ピカッ〟ものすごい光が私を包みました
八月六日の朝、教師だった父はいつもの様に自転車に乗って学校に出かけました。原爆が落ちる少し前、父を除く六人の家族は涼しい居間に集まり、一歳の弟をあやしていました。
やがて母が弟をトイレに連れて行きました。退屈した私は外に出てみようと思い、一人で玄関に行き、靴を履き終えた瞬間でした。
〝ピカッ〟ものすごい光が私の周りを包みました。
驚いた私は靴を履いたまま先ほどまでいた居間に走りこみました。居間に逃げ込むのと建物が倒れるのは、ほとんど同時でした。柱が倒れ、天井は小学生の私でも手の届くところまで落ち、舞い上がった埃で辺りは一瞬で真っ暗になりました。母が弟を抱き、手さぐりで居間に戻ってきました。私たちは皆、家に直撃弾が落ちたと思いました。しかし、いくら待っても助けの来る様子がありません。そこで、母が玄関に行き皆の履物と非常鞄を抱え戻って来て、私たちは道路に面した窓から外に出ました。周りの家は同じように倒れており、埃で薄暗くなった道路には、多くの人がすでに外に出ていました。しゃがみこんで子供の傷を調べている人、家に向かって何か叫んでいる人、子供は皆、泣いています。
逃避行
大人たちが相談して、とりあえず西の方に避難することになりました。途中、両側の家は全部倒れ、瓦やガラス、木切れの飛び散った道路を、ケガや火傷を負った大勢の人に交じって避難しました。頭をケガして血が流れフラフラ歩いている人、肩を支えられながら歩いている人、背中が血に染まっている人、上着がボロボロに焼けている人、大勢の人に交じって西大橋を渡って避難しました。太田川放水路の工事をしている所の草むらには、大勢の人がケガや火傷を負い、力尽き、座り込んだり倒れたりしていました。
その後、己斐の街に入り、しばらくすると突然、煤を水に溶いたような黒い雨が降ってきました。神社の境内で一時休んだ後、竹藪や田んぼ傍の細い農道を可部方面に避難しました。その辺りに来ると、右手に見える広島市街は大火災が発生していましたし、たくさんのケガや火傷を負っている人とすれ違いました。小学一年生にはとても恐ろしい光景です。
可部町の親戚宅に夜遅く着きました。学校へ行った父は数日後、大火傷しながらも助かって、その親戚宅に運び込まれました。
エピローグ
当時七人だった家族は、被爆後五十年くらいの間に、祖父、祖母、母、弟、父の順に「歯が抜けるような感じで」亡くなり、今では妹と私の二人だけになりました。父の火傷と不自由になった目、耳は死ぬまで治りませんでしたし、母は心筋梗塞で、弟は癌で亡くなりました。また、現在生きている妹も大動脈剥離や卵巣摘出などの大手術をし、私も心筋梗塞を発症、何度も手術を受けました。いずれも放射線被曝の影響が色濃く出ている症状です。
「一滴の水」の気持ちで証言活動
私は「無色透明」「無味無臭」な「一滴の水」になったつもりで証言活動をしています。それは、政治、宗教、人種、国境など人間の作ったルールに染まることなく、「方円の器に従う」素直な水であり、それでいて「点滴石をも穿つ」エネルギーを秘め、そしてその点滴も集まれば「愚公山をも動かす」大きなエネルギーを持っている水。それが私の証言活動のバックボーンなのです。そしてその一滴の水のはるか前方には、「まだ見ぬ私たちの子孫が安心して暮らせる平和な世界」があると信じています。 |