家族と共に自宅で被爆
一九四五年八月六日、中学四年生で十六歳の私は動員学徒として仕事場に向かうため、八時過ぎに自宅であるお寺(宝勝院)を出発しようと、本堂南側の窓辺の椅子に座っていました。
突然、飛行機が急降下する音を聞き、あれっと思った途端、ピカッと閃光が走り、その瞬間、〝がん〟と頭をなぐられ、吹っ飛ばされて気が遠くなりました。ふと我に返り、暗闇の中で四方を見回していると、光がすうーと、射し込んできました。光を目指して無我夢中で障害物を取り除き、脱出しました。建物の下敷きになっていたのでした。
小学校五年生の弟も脱出してきました。二人して父母を呼ぶと、父が脱出してきました。父は私の額の傷を見て、布を探してきて、しばって止血をしてくれました。三人で手分けして母を呼んでいると、妹らしい泣き声がします。声を頼りに、かわらなどを除いていくと四歳の妹が見付かり、助け出すことができました。
妹がいた付近のがれきを除いていくと、着物の一部が見えました。母です。太い材木が胴体にのしかかり、一歳の弟を抱いて即死しています。近所の人がのこぎりを持ってきてくださるが、とても材木を切ることができません。今にして思えば、生きながら焼かれるのではなく、死んでから焼かれたことが、せめてもの救いだと、自分に言い聞かせています。
周りを見ると、茶室から火の手が上がってきました。中庭の池の水をかけて、一度は消し止めました。火の気のない所だったので、原爆の熱線で着火したのだと思います。土蔵は爆風でひびが入っていました。茶室がまた燃え出し、四方から火が迫ってきます。もはやこれまで、と本堂の下敷きになって死んでいる母と弟を残して、避難することにしました。
避難先の河原の惨状
父は台所に転がっていたやかんを持ってきて、ポンプの水を入れて出発します。足が立たない妹は私が背負います。ようやく近所の河原に降りた途端、異様なありさまに目を見張りました。
多数の兵隊たちが上半身裸で横たわり、あるいは座り込み、中には、川の中へはって行って水を飲んでいました。近づいて見れば、帽子をかぶった部分だけ頭髪が残り、それから下のズボンまでの肌は黒ずみ、腕から手先にかけて皮がめくれ、垂れ下がっています。兵隊たちは口々に「水をください。水をください」と手を差し出しています。元衛生上等兵だった父は、多少医療の心得がありました。「あれだけやけどをしていたら助からないだろう」と、持っていたやかんの水を飲ませてあげると「ありがとう」と言いながら飲まれました。
雨が急に激しく降ってきました。雨に打たれていると、何か服が黒ずんできます。父が「何かおかしい」と言い、トタン板の下で雨宿りをしました。これが〝黒い雨〟でした。
河原の土手から寺の方を見ると大火災となり、炎が竜巻になり、天に吸いこまれています。また河原に戻って、寝ころんで休んでいました。
変わり果てたお寺の様子
夕方近くになると、火勢もだいぶ収まってきました。意を決し、父らと寺に向かいます。
山門などは燃え尽きていましたが、土蔵や本堂はまだ燃えていました。池のコイが腹を返して死んでいます。手をつけてみると、水が熱くなっていました。
真っ赤な夕日が西に、また真っ赤な月が東から現れました。本堂で母と弟が下敷きになった辺りは赤い炎、青い炎がまだメラメラと燃え立っています。母の炎はどれだろう、弟の炎はどれだろうと思い、逃げずに母らと一緒に死ねばよかったと涙が出て止まりません。
平和を願って
一九四五年当時、父母、姉、私、三人の妹、二人の弟の九人家族でしたが、原爆により母、妹二人、弟一人の四人を失いました。
現在、寺の境内で原爆の被害に耐えた被爆菩提樹の種と、被爆ツバキの苗を国内外に贈る活動を行っています。菩提樹やツバキの花の香りで世界を包み込み、核廃絶、世界平和が実現するよう祈念しています。 |