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被爆体験について 
横川 嘉範(よこかわ よしのり) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島師範学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一九九五.一二.七 参議院厚生委員会において参考人としての意見を陳述しました。

この意見のなかに、わたしの被爆体験の一部が述べてありますので、今回はこれをもってかえさせていただきます。

〇委員長(種田誠君)ありがとうございました。
次に、横川参考人にお願いいたします。

〇参考人(横川嘉範君)広島で被爆いたしました横川でございます。現在、東京の被爆者団体、東友会の事務局長を務めております。

長い間の私たちの願いでありました被爆者援護法が具体的に審議されることができるようになったことを心からうれしく思います。とりわけ、参議院で二度可決されたこの場において参考意見を述べることができることを、まことに光栄なことに思っています。

私は、被爆の実相と被爆者の実情を通して援護法の内容について率直に意見を述べさせていただきます。

一九四九年四月、広島師範学校を卒業した私は、爆心地から四キロほど離れたところにある仁保小学校の先生となり、一年生を担任しました。この学校の校庭の周りは草原になっており、そこで子供たちとよく相撲をとったり、ごろごろ寝転がったり、跳びはねたりしたものです。小さな子供は土いじりが大好きです。だれかが土を掘り返していると白いものが出てきたというので、先生これ何と言って持ってまいりました。そこに行ってみると、もう何人もの子供が集まってわいわい騒ぎながら土を掘り返しているのです。

その白いものは明らかに人骨であり、後から後からざくざくと出てきます。先生、ここにもここにもと、あちこちで声が上がります。一年生にはそれが人間の骨であるということはわかりません。そんな一年生にすぐにはやめろとも言えず、初めに持ってきた骨をかたく握り締めたまま、しばらくは茫然として立ちすくんでいました。

一九四五年、何十何百という人がここで死に、校庭の片隅のあちこちに穴が掘られて次々に焼かれていきました。既に風化しかけた骨はもろくも壊れて、そのさらさらと鳴る音の中に八月六日はありありとよみがえってまいりました。それからしばらくして我に返った私は、ありったけの力を振り絞って一年生にもわかるようにあの日のことを話しました。これが私の被爆教師としての出発でした。

私が被爆したのは爆心地から約二キロほど離れた地点、八時十五分が少しでも前にずれていたら、私は生きていたか死んでいたかほとんどわかりません。

その日、私は学友と二人で、強制疎開によってできた木材を薪にするから持ってこいというI教官、元師範学校教官、当時比治山女学校教官の命を受けていました。比治山の西側、爆心地から約一・八キロメートルで大八車とリヤカーに木材を積み込み、六時三十分ごろよりだんだんと爆心地に近づくコースをたどって、的場町、広島駅の東側を通過して目的地尾長町に着き、帰途は大正橋から比治山の東側へ回ってようやくそこまで帰ってきていました。

朝から続いていた空襲警報は七時過ぎに解除、八時前には警戒警報も解除されていました。西側の上空にB29が一機飛んでいるなと思ったとき、黄色い閃光を目にし、ドーンと来たときには本能的に反対側の家の軒下に身を伏せていました。家の中の遠いところから何かつぼのようなものがぽんと飛び出してきて頭に当たりましたが、しばらくの間は真っ暗やみで、何がどうなっているのか見当がつきません。ただ、人々の上げる異様な叫び声だけが聞こえてくるだけでした。

私たちは至近弾を受けたとばかり思っていたし、大八車とリヤカーの上には物が倒れてきて動かせる状況にはなかったのでそのまま放置して、比治山女学校教官のところへ報告に駆けつけました。教官は直ちに大八車とリヤカーをとりに行くように命じましたが、そんなものは跡形もなくなっており、二人はさんざんしかられ、学友の記憶では余りしかられなかったと言いますが、その後、師団司令部に救援を頼みに行くようにと言われました。自分たちだけがやられたと広島の人たちはみんな思っていましたから、師団司令部へ行けば助けに来てくれると信じていたわけであります。

二人は、爆心地から少しでも遠いところへ逃れようとする人たちの流れに逆らって爆心地に向かいました。途中、全身にガラスの突き刺さった血まみれの人、やけどで皮膚の垂れ下がった人、熱線と爆風で着衣のほとんどをはぎ取られて全裸に近い人、恥部丸出しの人、道路にはガラスの破片や石ころが飛び散っているのにほとんどの人たちははだしのままでした。これはもう人間と言うことはできないようです。

比治山橋に着いたときは被爆から一時間三十分ほど経過していて、道の両側は、赤黒く焼けただれ、ぱんぱんに膨れ上がって、男とも女とも見分けのつかない無残な姿で既に死んでいる人、今息を引き取る人、苦しんで水を求める人でいっぱいでした。少し動ける人は苦しさに耐えかねて川までおりていき、水を一口飲んだ後はそのまま流れに引き込まれるように消えていきました。二人は、十時ごろより二時過ぎまで比治山橋上で師団司令部に行く努力をしましたが、猛火に遮られ、ついに任務を果たすことはできませんでした。

私と学友の本来の任務は、広島師範学校男子部部長、酒井賢さんが目の手術のため広島日赤病院に入院中で、それに伴うさまざまな世話と留守宅の警備に当たることでした。

その日、師団司令部に連絡することをあきらめた二人は一たん寮に帰り、奥海田の動員先から急いで帰ってきた同級生と再会しました。残留者の中には、農場に出ていてやけどを負った者、寮が全壊しその下で亡くなっている者などがいました。私たちは炊き出しのおむすびをいただき、そして部長官舎へ帰って後片付けをし、夕刻に近いころには、学友は広島市の出身だったために自宅に帰り、私は一人になりました。

その夜は比治山の中腹に掘られたごうに避難しましたが、うめき声と水を求める声の中で、まんじりともしないまま一夜を過ごしました。その夜、ごうの中で何人もの人が死んでいきました。

翌日九時ごろより、酒井賢部長を捜しに出かけました。比治山から宇品方面に向かい、御幸橋を渡って日赤病院に行きました。被害は中心部に行くに従って大きく激しいものになっていました。

日赤病院の病室に入ってみると、いつも座っている場所に、看護に当たられていた奥さんは、ショックによる即死でいすに座ったままベッドにうつむくような姿で亡くなっていらっしゃいました。部長の姿はありませんでした。あちこち捜し回り、二時過ぎに部長を発見し、担架で担いで仁保町本浦の久保田菖蒲さんの家へ運びました。

では、初めに述べた学校の骨はどうなったのでしょうか。私は後になって幾ら考えてみても、私がなぜその骨を掘り上げなかったか、供養しようと思わなかったのか、他の先生たちにも話しみんなの協力によって慰霊をしようとしなかったのか、全く不思議であります。

その後、私が東京に出た後、この学校は焼け、敷地も拡大して新しい校舎が建てられました。私はその骨がどうなっているのか気がかりで、いろいろの人に聞き、確かめてきましたが、確かなことは何一つわからないままです。もしや学校の記録に残っているかもしれないと思いましたが、記録にも残っていないようでした。恐らく、他の多くの事例と同じように無関心のまま過ぎ去ってしまったということに違いありません。

いつのころからか私の胸のうちに、広島の土の下で骨が泣いている、そのままでは広島の土を踏んで歩けないという思いが広がり、極限ぎりぎりのところまで来ていて、一九九〇年の初め、ろうそくと線香を持って学校を訪ねました。学校には事前に連絡し了解を得ていた私は、日曜日の校庭に立って見回すと、その骨の埋まっていたあたりは校庭の中ほどになっていて、運動している人たちが駆け回っていました。やむなく校庭の片隅に線香を立て、ろうそくをともして、摩詞般若心経を唱えて供養のしるしとしたのですが、それで心が晴れたわけではありません。新たなわだかまりが生まれ、次第に大きくなってきました。

戦後五十年、広島の町はすっかり復興し繁栄しているように見えますが、その町の建物の下で、コンクリートで固められた道路の下で骨は泣いていると思います。これをもし、そんなことはないと断言する人があったならば、ぜひともお会いしお話をお聞きしたいと思います。

このように、原爆がいかに残酷な兵器であり反人道的な兵器であるかは明らかであり、基本懇答申の中には受忍論が展開されていますが、とても我慢できるものではありません。いや、我慢してはいけないものだと思います。

原爆の最大の犠牲者は原爆によって殺された人たちです。原爆で殺された人がどんなに原爆を憎みながら死んでいったかに思いをはせるとき、私たち被爆者の願い、要求は、死者の願いを背負い死者とともに続ける運動だと思っています。死んでいった人たちの思いや願いを実現するために、この地球上に核兵器を一発も残さないこと、再び被爆者をつくらないとの決意を込め、原爆被害に対する国家補償を行うこと、つまり死者に対しての弔意を示すことによってのみ死者の死に報いることができます。この点から見ても、援護法には国家補償に基づくと明記されることが不可欠な条件であると思います。

途中、特別葬祭給付金のところについては省略をいたします。

被爆者の実情。あの日の広島は一瞬にして地獄になりました。無傷で助かったと思った人たちが急性の放射能症にかかり、次々に死んでいきました。原爆は人間を殺し、今も殺し続けています。辛うじて生き延びた被爆者も、体と心と暮らしに大きなハンディを背負って四十九年を生きてきました。

体の問題。ある医師は、被爆者を対象にした話の中で、被爆者は一〇〇%がんになると言い切っています。九三年度には東友会で五人の自殺者がありました。その中の二人は五十代の男性で、病気を苦にしての自殺です。この資料の一番最後の六のところに、性別と年齢、自殺方法が出ております。

五の一番右下ですが、離婚をしたのは私が怠け者だったからだというふうにある人は言っておりますが、怠け者だと言うけれども、原爆ブラブラ病だったのかもしれません。

左の一番上です。原爆症の夫を抱え、輸血の血を買うために売春までしなければならなかったということを話しております。これは本当に何と言っていいか私自身もよくわかりません。

心の問題。肉親を見捨てて逃げ自分だけが生き残った。水を求める人に末期の水一滴もやらなかった、私は人間と言えるのか。飲ませてはいけないという水を与えてその日私は何人も殺したと、こういうふうに同じ水をめぐっても一人一人の思いは極めて深刻で、今も続いております。

暮らし。体が弱く病気がちであれば半失業状態でありました。原爆症とわかれば就職もできませんでした。

ある年、二、三年前、助けてくれるかと電話をかけてきた人がいます。相談員が訪ねていって病院へタクシーで連れていきましたが、財布の中には五百円しかありませんでした。電気もガスもとめられていました。東友会が身元引受人になり、親族に電話をかけ連絡をしましたが、生きているうちは会いたくないという話であります。その人は五月に入院し、十二月三十一日に亡くなりました。その日にさまざまな手続きをして、そして一月四日に葬式の一切を行いました。棺にくぎも打たないまま、一番小さいところのガス室へばっと入れて終わりでございます。私たちは一万円花を入れました。葬祭料は私たちがもらうことになるかと思いましたが、カード破産で、親族が来たとき私が計算したら百五十万円ありました。何とかしますかと言ったら、私たちは何ともできませんと言うのです。後で調べましたら、四百五十万円ありました。この処理もしなければいけませんでした。

私たち東友会としては、遺骨を広島へ、長崎へ届ける仕事をしています。移転に伴う費用がどんなにかかってもそれはしなければいけない。たとえ東友会に対して余り協力的ではない、運動に反対した人であっても、被爆者であれば、死ぬ寸前に何としても見つけ出して、ひとり寂しく死ぬ、自殺する、死んでから何日も後にわかるようなことになってはいけないと思います。

東友会には専従相談員が三・五人います。年間八千件の相談をしています。地区相談員は約二百人いて、身近にいて親身な話し相手になることに努力しております。

このような状況は、全被爆者に対して被爆者年金を支給する制度と相まってでなくては打開できないと考えます。

私も直接被爆と間接被爆の両方を受け、歯茎からの出血、激しい下痢、吹き出物などの症状が続きました。そして、全く無傷で助かったと思った人々が次々と死んでいくのを見ては、あすは我が身という思いに駆られて死ぬことばかりを思い詰め、いつどんな方法で自殺するかを考え、それでもあと五年は生きられるだろうと、五年を一区切りにしてその後の歳月を生きてきました。

一九八九年に悪性リンパ腫の手術を受け、一カ月ごとの血液検査と三カ月置きのCTなどを受けて、三カ月を一区切りにした生き方を強いられるようになりました。苦しむだけ苦しみ、死と近しい関係を持ってきましたので私は少しも慌てませんでした。いや、私の周りには私よりももっと困難な中できちんと生きてらっしゃる、私よりも二十歳も年上の、きょう来ていらっしゃいます最高の人は八十五歳ですが、きちっと生きていらっしゃることに励まされながら私も強く生きていきたいと思います。被爆者がどのように生きがいを持って生きるかということが、今本当に助けることになるんだと考えておるわけであります。

衆参両院議員の賛同署名は既に三分の二を超えました。地方議会の促進決議は七五%に達しています。国会請願署名は一千万を突破しました。国民の支持と合意は十分に成り立っていると思います。

初めに申しましたように、参議院の二度可決の原点に立ち返って審議を進め、被爆者が生きていてよかったと思える被爆者援護法を制定していただくことを強く期待して、私の参考意見を終わります。ありがとうございました。




  

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