まぎれもない人体実験をうけたあの日から五〇年、体調が悪ければ、これもピカの影響だろうか、とおびえながら、何とか生き延びてきました。
昭和二〇年七月末、広島市西大工町、当時中学三年だった私の生家は一週間の期限つきで強制疎開を命ぜられました。父は既に他界していたので三人兄弟の兄は広島高師の寮へ入り、私と弟・勝は母とともに母の実家、賀茂耶志和堀村の伯父の農家の離れに住むこととなりました。引越しも一段落し、私と同じ広島二中一年の弟とともに学校、といっても勤労動員ですから初出勤になりますか、芸備線志和口駅まで-里の道を自転車に二人乗りして出かけたのが八月五日のこと、ところが自転車のチェーンが切れて私は断念、弟一人を歩いて駅まで向かわせました。その後ろ姿は今でも眼に浮かびます。弟はその夜は名古屋から広島へ子供五人を連れて疎開してきながら実家を追い出されて天神町で仮住まいを始めた長姉の家へ泊まることにしていたので、この後ろ姿が弟との今生の別れとなったのでした。
翌八月六日朝、私にとっては疎開先からの初出勤です。芸備線が遅れてやきもきしながら市内電車が西大工町を通ったのが七時半、懐かしいわが家を取り壊している人たちを恨めしく思いながら動員先の三菱観音工場へ。警戒警報も解除されていたから敵機が頭上にいるとは考えもしない。モッコをかついだところであの閃光!二つの太陽に恐怖を感じて防空壕に飛び込んだから爆風に骨組だけとなった工場の割にはカスリ傷程度で助かった。
ともかくきょうは解散だと工場を出る。猛火を背にしてユウレイのような人たちが続々逃げてきます。たしか弟はきょうは中島での建物諌開作業に駆り出されてる筈だが・・・
とても市内中心には近づけそうもない。止むなく同じ芸備線の友と共に丸太棒だけの庚午橋をよじ渡り、燃え盛る己斐(コイ)駅をかすめ炎をあげる枕木をよけながら山陽線の線路伝いに歩き、黒い雨に猿股まで真っ黒に染まりながら芸備線の矢口駅からようやく出ていた列車に乗って志和堀村へ帰ったのでした。
伯父の家で母とともに不安な時を過ごしていた私と違って、弟捜しに頑張ったのは、やはり広島二中のOB兄・喜代三でした。市郊外、向洋の東洋工集で被爆した兄は、すぐ市中に入ろうとしたが断念、その夜は皆実町の四姉の嫁ぎ先へ一泊。翌七日、爆心地・中島の広島二中一年生三〇〇人の作業現場で地獄のさまの中、弟の姿を捜しました。整列したまま半分焼け残った無数の死体のなかから一人反対向きがあったので、号令をかける級長だったからこれだろう、と喉仏の骨をもらって志和堀の家に帰り、嘆き悲しむ母らとお経をあげていたのでした。ところが、わが家へ長年出入りしていた呉服の行商人から「松本さんの坊ちゃんが西へ逃げていたのを見た」という知らせが入ったのです。さあ悲しみが一転、生きとるらしい!即、兄と若い叔父二人、自転車で十里の道を広島へ向かったのが八日未明のこと。避難所を訪ね歩き、名前を見つけたのが井ノロの寺。ヤレ嬉しや!
ところが足もとにゴロンと横たわっていたのが弟・勝の遺体でした。大火傷にも耐え「お兄ちゃんが助けにきてくれる筈ヨ」といいながら五、六、時間前に息を引き取ったのでした。服の認識鉦もあり、確認した上で兄の手でダビにふすことの出来たのは、行方不明のままに比べれば有難いと思うべきかもしれません。後から思えば、その弟が瀕死の体で己斐方面へ逃げているとは露知らず、同じころ私はその己斐をかすめて結果的には-人サッサと逃げ帰ったことがいまだに悔やまれます。
名古屋からわざわざ全滅するためにきたような長姉一家、建物疎開作業で回りの空気が全部火になったといいながら死んでいった新婚の四姉、そして兄弟のなかで一番出来のよかった十三歳の弟。今日我々が平和を享受できるのは、これらの犠牲のお蔭だと思わざるをえません。
なお、広島二中一年生全滅の記録は広島テレビから「碑(いしぶみ」と題して放映され杉村春子さんの語り部が評判を呼び、その草稿をもとにした単行本「いしぶみ」(ポプラ社刊)には弟・勝の記述もあります。
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