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想い出 
信垣 成正(のぶがき しげまさ) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
あの日から九年目になる。私はこの原子爆弾とその後の出来事について、狭い範囲ながら自分の見聞した事を書こうと思い立った。しかも今日までそれも果し得ずにいた。住みかけた広島の全部が殆んど昔日の面影を失ってしまい、飢餓は容赦なく無数の羅災者に迫って来るばかりでなく、昨日は何百人の者が死んだとか、今日は又新型爆弾がひょっとすると落されるかも知れないとか、そういう混乱した空気と惨めな光景の渦の中にあって、実際私は何を書き得ただろう。私は幸運に我が家に帰って来られたのである。

八月六日は快晴であった。朝から相変らず警報が入り、単機の事ゆえ心配はいらないが、後続機があるかも知れないから注意を要します、との事であった。私は丁度防空要員として学校に居止りを命ぜられ、明日より授業があるので教室の掃除をやることになった。八時に大学校々庭に集合した。そして作業にかゝれの命令が出た。

そこへ突然眼前視界一面に白色光の火柱を見た。と同時に溶融した鉄の液をかけられ熱湯の中に苦しんでいる様な感じと強風がおそった。と瞬間、家屋の倒れる音、壁や瓦の崩れる音、もう耳に入らなかった。気が遠くなってしまった。ふと気がついたときそれは真暗闇であった。かすかに光が見える。それをたよりに釘の出た木をふみ、梁の間をぬけ、やっと出たのが今集った運動場だった。

私達が集合して分担を定め仕事にかかろうとした時から、ものの五分とは経っていなかったと思う。実に私達は、こんな大きな急激な異変の渦の中にいたのである。そこはどうでしょう。女の人が髪の毛を焼いて顔に手に火傷をしているではありませんか。同僚はと見ると、裸となって無残にも体中火傷をしている。又校舎はセンベイの様にペチャンコに倒れ、三四ヶ所火の手が上っています。市内には黒い煙がもうもうと上っています。何が何んでもよい、速くこの場をのがれようと宇品の方へ逃げ出した。御幸橋まで来た。市街にはもうもうと渦を巻いた煙が海の様でその上には入道の様な層雲形が広い市街を摑むかのように起っていた。

間もなく軍隊の救急車が油をつんで来た。体中火傷して道路に倒れている人々を荷物を扱う如くトラックにつんで運んで行った。

そろそろ暗くなりかけたそれにつれて、よけいに市街は火の海となる様に思われた。そしてトラックは地獄の広島を後にして東洋工場へと走っていた。

この爆弾こそ人類世界に予想しなかった原子爆弾であったのです。そしてこの原子爆弾に会えば所謂原子病になる―歯ぐきから血が出る。そして頭髪がぬける。もうその頃には、とっくに食慾はない。白血球が少なくなる。―そして永遠に帰らぬ客となる。

これが原子病でありますが、私は頸部に火傷を受け食慾はなくなり白血球は少くなりましたが、その後癒り、幸いにこの世に生き残っている次第です。

昭和二十年八月十五日の日記より

「追記」現在は甲状腺機能減少症と闘っています。


  

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