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被爆体験について 
宮本 耀子(みやもと ようこ) 
性別 女性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二十年八月六日の朝、学徒動員先の職場に出動する姉と共に、妹二人、友人一人の五人で疎開先(伯母の家)から、町内会長で疎開できなかった広島市内の父のもとにたどり着いた。

喜びいさんで駆け出し一番に帰宅した上の妹が、座敷で父に、「よう帰ったなァ」と頭を撫でてもらっているのが勝手口から見えた。その瞬間「ピカッ」と光り、そのまヽ気を失った。

どのくらい時間が経過したのだろうか、父と妹の助けを求める声に気が付くと、私は入口から三米先にあった煉瓦造りのかまどの前で生き埋めになっていた。下の妹の鳴き声も聞こえる。私は近所の人に助け出されて辺りの様子を見ると、父は元気のいい声とは裏腹に、目の上から血を流し、手も足も傷つき、服はぼろぼろ。身の丈ほどの垂木にすがり、折れた足を引きずり道路に立っていた。私たちは五人で帰って来たことを告げると、必死で、「藤子!藤子!」と狂ったように姉の名を呼び続けた。私達の後から下の妹と手をつないで帰って来たから、この辺にいるはずと思われる所には瓦礫が五、六〇糎ほども積もっていた。

父の指示で、助け出して下さった方達と直ちに疎開先に向かい、たどり着いたのは午後八時頃だった。火傷が真夏の太陽光線に当たると痛むので、途中、郊外のキリンビール工場で夕方まで休んで、午後四時半頃から再び歩き出した。だんだん長くなる自分達の影を踏んで三里の道のりを素足を引きずって歩いた。

長い一日であった。山手の伯母の家から見ると、山の彼方の西の夜空が赤々と燃え立っていた。朝は五人で出掛けたが、待ちわびる母のもとへ帰ったのは、友人と上の妹と私の三人だけだった。朝からの出来事を母に話して寝床に入ったが、私は一晩中、「お姉ちゃんの足の親指が見えたのに、どうしても助け出せなかった。足が見えたのに・・・。足が見えたのに」と寝言を言っていたそうだ。

翌日、母は、助けて下さった広島の隣人の避難先を探し当てて、夕方には四才の末の妹を連れて帰った。二日後、父の消息が判った。そして、三、四日目にやっと姉のお骨を鍋に入れて帰って来た。私達の話しを頼りに、焼け跡に行くと死体の腐敗した匂いで遺体の所在が判り、すぐ掘り当てることが出来たそうだ。家の大きい梁の下敷きになり、お腹に土壁の中の小舞竹が刺さっていたが、手の指は真っ直ぐに伸びていて苦しんだ様子がないので即死したに違いないとのことだった。

姉の顔は焼けていたが、頭髪にヘヤーピンがそのまゝのこっていたそうだ。このまゝにして遺体を腐らせたり、蛆まみれにしては可哀相と心を鬼にして、兄と二人で庭の築山の一番高い石灯籠の陰に運び、焼け鉄板を敷き、木切れを集めて積み並べ、その上に遺体を載せて焼いたとのこと。そして、お骨は焼け跡の鍋に入れ、満員列車の中でも胸にしっかり抱いて持ち帰ったという。

「これが藤ちゃんよ。あの子はいい子だったから、お舎利さんがきれいに採れてね・・・」と母は鍋の蓋を取った。だが、どれが何処のお骨なのか砕けて判らなくなっていた。葬式も出してやれん、と嘆きながらも、母は涙一しずくもこぼさなかった。たゞ、肩を震わせるだけで耐えていた。 耀子ちゃんが、親指が見えたというのは嘘よ。そんなはずはなかった。お姉ちゃんは頭を南に向け、足はあんたと反対の方にあったから」と説明してくれた。

父は、終戦のラジオ放送があった翌日、伯父達に運ばれて私達の所に帰って来た。暫く療養生活を送りながら、母と原爆の惨状をよく話していた。姉の遺体のすぐ上辺りでその名前を呼んだ。やはり姉の足の親指が見える道理はなかったのだ。それは、もしかしたら家が押し潰される瞬間に見た私の幻覚であったのかも知れない。
  

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