当時私は一九才。二人の妹と弟、両親との六人で現在の広島市安芸区中野六丁目に住んでいました。兄は時の鉄道省から中国(当時は支那)に派遣され南京の対岸の浦口で機関車の運転をしていました。私も兄の職業にあこがれ国民学校(安芸中野)高等科卒業と同時に一四才で鉄道に就職。一八才の誕生日には機関士となり、広島市の東一五キロメートルの瀬野機関区(当時は広島機関区の支区)で蒸気機関車の運転をしていました。ほとんどの先輩が兵役につき、若くて少年のような機関士が多かったため、このように若くして機関士になった者は戦争のお陰で昇格したという自嘲を込め、自他ともに「蒋介石機関士」と呼んでいました。家計は六反歩程度の農業、父親が石工、兄からの仕送りに私の収入もあり、戦時下でも食料に困ることは無く、比較的恵まれた生活をしていたように思います。妹二人はともに中学(旧制)に進学、徒歩で瀬野駅まで出て広島市内に通学していました。直ぐの妹「カヨコ」は比治山女学校三年在学中で中国電力に学徒動員され、未妹の「妙子」は広島市内白島の安田女学校の一年生として通学中でした。
「妙子」が原爆死する数日前、近所の娘さんと私の三人で自宅から瀬野駅へ徒歩で向かっていたとき、不意に「兄ちゃん。遊郭は何するところ?」と聞かれ、うろたえたのを覚えています。一緒に歩いていた学校で一級下の近所の娘(佐々木ツギエ)さんのてまえ私は、顔が赤くなって「うーん大きくなったら判るじゃろ」と生返事をしたものです。当時の私は徴兵検査もすみ九月六日には入営することになっていました(兵種は情報兵)が遊郭は何をするところかは知っていたものの足を踏み入れたことはなかったし、六才も年下の妹がこうした質問をしたので面食らった次第です。その疑問は被爆死した後ではっきりしたのです。
運命の昭和二十年八月六日。私は勤務明けで納屋の二階の六畳の部屋に一人で寝ていました。納屋にはトイレがなかったので母屋についていた小便器に向かって放尿していたとき、不意に近くにいた父が大きな声を掛けました「アレを見い。アメリカの飛行機が飛んどるぞ。」しょっちゅう出ていた警戒警報も出ていないし、変だなと思いながら父の指差す方向を見ると見慣れた米軍機B29がいつもの高度よりうんと低く飛んでおり、高城山(標高六〇〇メートル)の尾根の高さに平行しているように見えました。そのうちの一機からパラシュート状の白い袋状のものが幾つか落とされ、ついで他の一機が急降下したと思った瞬間、眼がくらむような赤紫の光とも輝きとも言えない鋭い光が目に飛び込み、同時に熱線と息詰まるような圧風を感じました。
ピカドンと後に呼ばれた原子爆弾の炸裂の瞬間ですが私にはピカ・ウッという感じでしばらく息が詰まったように思いました。米軍機による機銃掃射や爆弾が落ちて破裂する瞬間は既に呉線で列車が空襲を受けたときに体験していたものの、この爆弾が原子爆弾でありその破裂の瞬間であったことは知る由もありませんでした。しばらくして母屋の炊事場にいた母親が大きな声を立てて父と私を呼びました。母は、炊事場の窓からあの原子雲が一山を経た広島市の上空にムクムクと昇っていくのを発見したのです。卵の黄身の部分に血を混ぜたようなねっとりとした丸い大きな異様な気体。原子雲が外側に少しづつ回転しながら上っていき、その下に次々と垂直の雲が浮きあがって行くのです。三人は何だろうと、初めて見る原子雲に声もなく見入っていましたが、そのうち母が騒ぎだしました。「あれは広島に爆弾が落ちたんだ。妙子とカヨコが広島にいる。二人は無事じゃろうか。」という心配で、とくに妙子は「頭が痛いので休む。」といったのを学校の成績が悪くなると叱って送りだしたのをしきりに悔みはじめたのです。二時間くらい経つと、家の前庭から見下せる国道を負傷者を載せたトラックがたくさん走りだしました。どのトラックも荷台におびただしい負傷者が載せられており、聞くとほとんどの人が自分の居たところに爆弾が落ち、やけどと怪我をしたとのことで、一つや二つの爆弾が落ちたのではないとの話しでした。
上の妹「カヨコ」は当日広島駅から東約一キロメートルの国鉄操車場の地下道を通っていたとき爆撃にあったものの無事な姿で午後二時ごろ帰宅しましたが「妙子」は終日消息が不明でした。国鉄に勤めていた私はこの爆撃によって列車が運転出来ないため事情を話して休暇をもらい、翌七日から両親とともに探すことにしました。七日は市内が炎上中で近寄れないため学徒が多数負傷収容されているとの情報で似島まで探しにゆきましたが発見できませんでした。八日朝からは両親と二手に別れ、私は海田市・向洋・広島駅前・白島を経て安田女学校の校門に辿り着いたのです。
広島駅西の常盤橋のたもとで赤ん坊に乳を含ませるよう姿で死んでいる母子を見ました。トタンの切れ端のようなものが申し訳程度に被せてあり、白島橋のたもとには多くの死体が川に浮いていました。岸辺で助けを求めてわめいている多くの負傷者と共に凄惨を極め、まさに生地獄という感じでした。
並行して川にかかっている鉄橋の上では蒸気機関車と貨車とが脱線しており、復旧作業が行なわれていました。旅行者は徒歩で白島橋の上を歩いてきて惨状を目のあたりにし、川の中で助けを求める人に救いの手を伸べる人もいましたが、瀕死の状腰の人に抱き付かれ途方に暮れている人が多くいました。手の施し様が無いという状態でした。
私たちには妹を探す目的があったので、申し訳ないという気持ちを持ちながらも、このような惨状には目をつむりながら安田女学校を探して歩きました。やっと捜し当てたとき、校門は倒れ「安田女学校」の標札が瓦礫の中に埋もれているのが見えたのです。ここで学校の関係者らしい人に「一年生はどこにいますか?」と質問したところ、中島本町付近で建物疎開の瓦運びに動員されていたとのこと。この的確な案内によって妹の遺体を発見することが出来たのです。いまでもこの方に感謝申し上げたい一心です。
中島本町を目指して南に向かって進むと被災した陸軍幼年学校の校舎の一部が残っていました。校庭には怪我をして気のふれた学生が軍人勅諭を片手に大きな声で朗読しながら「歩調取れ」の行進をし、倒れては進み、倒れてはまた起き上がり一、二歩進んではまた倒れている姿が哀れでした。軍人はいち早くどこかに収容され、怪我をした軍人に出会うことはありませんでしたが、こうした生徒は放置されていたように思います。途中、男子校の中学の校庭らしいところでわが子の死体を見付け、これを抱きかかえて泣き叫んでいる母親に出会いました。校庭には芋が植えてあり、母親はたずねたずねて吾が子を発見した様子で、カバンをあけ、弁当箱をあけて死んでもの言わぬ子を繰り返し繰り返し確認し抱きかかえては嗚咽していた姿が今でも眼に浮かびます。広島城のあたりを通り、二抱えも三抱えもある楠の大木が何本も根こそぎ倒れては燃えている姿、たくさんの軍馬の死骸も眼に焼き付いています。人の死骸は至る所に転がっており、西練兵場を経て相生橋に至ったとき、白島橋を渡ったときにも同じことを感じたのですが橋の欄干が同じ方向に倒れているのを見て爆弾の威力の凄まじさを感じさせられました。一五キロ離れた自宅でのあの息詰まる感じの熱風が橋の欄干を一定の方向に倒している。凄い力だ。あの大きな楠も根こそぎ引き抜かれている。相生橋を渡り中島本町に近ずくと一緒に歩いてきた近所の人がこの辺りに西遊郭があったのだと言いました。妹はこの付近に来ていたのです。だから遊郭は何をするところかと質問したのです。一三才の女の子には、大人たちの言葉のはしはしに何故ここで瓦を運ばなければならないのかが疑問であったに違いないと思いました。
中学生たちが大量に動員され、遊郭の建物疎開跡の瓦運びをやっていて原爆の直撃をうけた現場の姿はまさに地獄でした。五~六千人の動員学徒が死んだと聞きましたが、ほとんど同じ姿で死んでいたのです。なぜなら同じ場所で、同じ年頃の、同じ背丈の子達が同じ作業をしていたのですから、天から降り注いだ原爆は同じ条件であれだけ多数の子供を同じように殺したのです。現場についたとき、いずれの子供も即死でないことがすぐに判りました。
まず、何千度もの熱線で体を焼かれたのです。夏に着ている白いシャツや上着、作業のために指示されてはいていたモンペ、これらの着衣の一重の部分は熱線で一瞬に燃え、露出した皮膚は黒焦げになり着衣の二重の部分のみが僅かに残り、体のほとんどが焦げ茶色の裸同然の死体でした。夏のため帽子は全員被っていたようで、頭のてっぺん部分の髪だけが残っていました。
熱風による火傷で瀕死の生徒たちに周囲の建物の火災の熱風が押し寄せてきました。そこで、熱を避けようとしてしゃがんで手を握り拳をし、これを握り締めた姿で息絶えた子がほとんどでした。防火用水のコンクリートの水槽のなかに火災による熟さを避けようとして片手を突っ込んだまま鈴なりになって死んでいる子がたくさんいました。
このような多くの子達も八日の午後には次第に焼却されようとしていたのです。消火に使うトビ口ようのもので死体を積み上げ油をかけて焼く大人たちがいました。遺体は瓦礫のなかに残ったわずかな道幅の道路に沿って並べられ、探しに来た人が覗きこんでいましたが、動いている人の数より死体の方がはるかに多かったのです。動いている私達が申しわけないような感じで祈るような気持で妹を探しました。一〇〇メートルの先までも二〇〇メートルの先までも延々と死体が並べてありました。私が鶴見橋のたもとから北の方角を向いたとき、二・三〇メートル先のある死体にかげろうがたっているのを感じました。
無意識のうちにその死体の側にしゃがみ、首にまとわりついている白いシャツの切れ端の泥を落とすため両手でこ擦ったのです。そこに出てきたのが「六年 佐々木妙子」の文字でした。死体の色や姿は周囲の子達と全く同じです。黒焦げ、しゃがんで握りこぶしを上向きにした哀れな姿でした。帽子を被っていたため髪の毛が僅かに残っていました。いつも見慣れている赤味がかった細い毛。身長や体の大きさ。母から聞いて預かってきたモンペの柄が腰まわりや足首の二重の部分に残った布切れと照合して一致したことから妹に間違いないと断定、近所の人にその旨告げて連れ帰ろうとしました。死体を運ぶにはタンカが必要です。あの焼野ガ原にそんなものはあろうはずがありません。ムシロは死体片付けの人から分けてもらい、近くに適当な運搬具はないか探していたところ橋の近くに浅い古井戸があり、梯子がかけてありました。それを引き出してムシロを敷き死体を載せていたところ、軍人のような人がやってきて「焼いてやるから骨にして持ち帰れ」と言うのです。そのとき私には母の声が聞こえてきたです。母は私が妹を探しに近所の人と出掛けようとしたとき「どんな姿になっていても見付かったら連れて帰れ」と厳命したのです。そのことを説明して了解してもらい近所の人と共にその場をたちました。いまでもはっきり覚えています。鶴見橋を渡って旧市役所の建物に向かって歩きはじめたのです。八日の午後二時か三時頃でした。妹の死を悲しむというより、見付かって良かった。母に妹を会わせることが出来る、といった感じだったように思います。
市役所の前から電車通りに沿って向洋駅に到着。駅には貨物列車が停まっていました。同郷で知り合いの細川助役さんがホームにいたので事情を話し、石炭車のうえに載せてもらい瀬野駅で下車、自宅に連れ帰り八月九日に葬式をしました。母の言い付け通り遺体を持ち帰ったものの炎天下で三日も経ち、腐乱が甚だしくて余りの酷さにわが子を抱き締めることも出来ず、小さな棺に抱き付きながらいつまでも泣き叫んでいる母の姿を見て、むしろ遺骨にして持ち帰った方が良かったかとも考えました。近所でも数人の方が原爆の犠牲になりましたが遺体が見付かったのは妹だけだったと聞きました。
いまでも判らないのは何故あの時あの遺体に触れ、シャツの切れ端の泥を落とし、そこに妹の名前が出てきたかという点です。数多くの動員学徒たちの遺体の唯一つに触れ発見出来た。あのときの陽炎(カゲロウ)は肉親への呼び掛け「兄ちゃん。ここにいるよ。」の呼び声だったのでしょうか。
本人の墓碑の死亡日付は昭和二〇年八月六日、広島市安芸区中野六丁目に葬っています。母校の安田学園の慰霊碑にも刻名され、動員学徒としての丁重な取扱いを受けたと既に他界した両親から聞いています。国からの被爆者に対する丁重な取扱いに感謝しています。
(以上)
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