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被爆体験について 
藤川 渉(ふじかわ わたる) 
性別 男性  被爆時年齢 34歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島逓信局(広島市基町[現:広島市中区東白島町〕) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 内閣逓信院広島逓信局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和一九年八月に入って空襲がはげしくなり広島市内の都市整理や疎開が始まったので我が家も安佐郡可部町字上原六三四土井一郎方へ転居して可部駅―横川駅―徒歩(二〇分)のコースで広島逓信局総務課へ通勤することになり

八月六日自分は幾分睡眠不足ながら早く目覚めた。天気は快晴で朝から焦げつく様な光りにかがやいていた。顔を洗い乍ら家中一同とお天気の挨拶を交した。当家の長男は大学在学中で不在、当主は農業会の会長で町内に勤務、次男は県庁都市計画課に勤務、親類の学生がこの家から広島二中に通学していたので自分と三名がこの家から毎日可部線の電車で広島へ通っていたのである。県庁と二中は、始業の都合で自分より何時も早い電車で出発していた。私も食事を終えてアンダーシャツの上にカッターを着てズボン下に巻きゲートルに戦斗帽という装いで手提カバンに弁当を入れ七時前の電車で広島へ向った。

広島が近くなった頃警報で電車が止ったがしばらくして動き出し横川駅に着いた。横川駅では空襲警報が出たがすぐ解除になったと話していた。たびたびのことで別に気にも留めず暑いので同僚と話しながらてくてく歩いた。途中は警備後の後らしい人々の動きで出勤時の人の波と交錯している感じである。何だかまだプロペラ音がするような感じがしていたが二〇分歩いて、やがて逓信局についた。昨夜からの警備班がそれぞれ帰途につくところで局の入口はごみごみしていた。丁度八時であった。

三階に上って総務課の自分の部屋に入った。先ずカバンを自分の机に置いて印を出し、出勤簿に印を捺すため課長室に入った。それから庶務係に立ち寄り、粟屋君らと釣りの話等をして第一人事係を通り抜けて、第二人事係の自分の机に帰って着席した。隣の石井さんは、出勤簿に印を捺しに行って空席で、私の前の席には私に向って西村君が着席していた。何分にも朝から暑い中を二〇分ほど歩いたのでよけいに汗が出るので、下着を干すためにバンドを外し、カッターをぬいで、腰かけたまま机の右側へかがみこんで頭から脱ぎかけた瞬間であった。何だかパッと光ったように感じた時にバサッとしてそのまま前に突きとばされた。全く一瞬のできごとで、音も光も感ずることができなかった。あっ!!と思ったがじっとしているばかりである。ただ燃えている火鉢の中へ鉄瓶の湯が吹きこぼれた時の何んとも言えぬ匂いがした。やられたと思った。

自分の直感では三篠橋の工兵隊の弾薬庫が爆発したなと思った。その為第二・第三の爆発があるからこのままで居ようと、臥さったままの姿勢でじっとしていた。何分たったか判らないが、誰かが「退避」と怒鳴ったが、自分はすぐに起き上れる態勢ではない。そのうち隣の文書係のタイピスト達が「助けて」「痛い」と悲鳴があちこちに起こり、ものをかきわける音がはげしくなって来た。自分もこのままではと気付いて、はじめて体を動かそうとしたが、シャツをかぶったままなので腕が思うように動かない。体を前にずらすようにして体の動きに余悠ができたので、身の抜ける方向へ這い出た。

起き上って見ると、後に並んでいた鉄庫が回転して、自分の机にもたれかかりその下敷きになっていた。正常に座っていたら頭を打っていたとぞっとした。室内を見渡すと、西側の電務課の机や、椅子等が自分達の東側の窓際まで吹き飛ばされて、何も彼もめちゃくちゃで、窓ガラスは鉄の枠にノコギリの様な歯形を残して粉みじんに西側から東の窓を吹き抜けていた。何れを見廻しても通れそうにない。とんできたガラスで怪我した者達が、血を流し乍ら室に山積した。ものをかき分けて北と南側にある階段に向って先を争って、動き始めた。皆顔と言わず手と言わず血を流しているもの許りだ。自分の怪我等考える余裕はない。

ふと見ると自分の前の席に、頭から血を流している者が突然立ち上がった。西村君だ。!!「おいしっかりせい」と声をかけたが返事がない。よろよろとして倒れそうだ。自分は、シャツをそのまま着て、机を飛び越えて西村君の体を支えた。私の体も血にまみれた。よく見ると西村君の眉間に巾三センチ長さ一五センチ程の棒のようなものが深く立ちこんでいて血がむくむくと湧き出していた。抜いてよいか何うか判らず、とにかく一刻も早く避難させようと背負うようにしてもろもろの山を踏み分けて中央階段に向い、一段一段と人並に押されながら三階を降りた。右側の手すりは血だらけで、下へ向って流れている処もある。左の壁側は、手でふれた跡が血の筋になっている。これは永い間消えなかった。

ようやくにして、階下に降りた。私は第二の爆弾か爆発を予期して裏庭へ出るよりもこの一階に居る方が安全と思ったので、西村君を座らせて一階通路にかがんでいた。愈々西村君も弱りきって来た。このままではいかぬ、早く手当をしなければと思って、再び背負って隣の逓信病院の玄関に向った。玄関を入るとここも大事である。何もかもめちゃくちゃで、足のふみ込み場もない。医者や看護婦も目についたが、皆血みどろで診てくれそうにない。誰も彼も何う逃げるかの土壇場だ。我々と同様傷ついた者が、逓信局から附近の住民までぞくぞくと集って来る。診てくれるのを待つより他ない。西村君を降して待たすより他ない。西村君も全く気力がなくなっていた。

やがて私は元の三階の自分の席へ引返した。何だか他にも動けない者が居るような気がしたからだ。渦高く積った机や椅子等の下からまだ這い出る者もいる。うつ臥して泣いている娘らもいる。機嫌をとるどころではない。「早く逃げろ」と活を入れるのみだ。顔に傷を負った者も居る。出る血をふく余悠のある者は一人も居ない。下敷になって動けない者が居ないかと総務課を次々と調べて見たが、皆退避したようだ。

私は、爆音も無いようだから血だらけの手摺を伝って四階から屋上へ出た。市内全部見渡せた。屋上にある逓信神社は根こそぎふっとんでいる。何だか空は金色であたりがキラキラとして大夕焼けのようだ。隣の幼年学校の大きな建物も、兵機庫のレンガ建ての幾つもの大きな建物も、全く何れもペシャンコに潰れて嵐の後の静寂だ。広島城も石垣からこちら側へ崩れ落ちている。爆弾が落ちた様子も形跡もない。やはり火薬庫の爆発だなと思った。次の誘爆がいつあるか分からないので長居は出来ぬと思った。煙が立ちこめて遠くは見えない。饒津の森や双葉山が金色に輝いて異様に光っている。兎に角一分も居らずに引返し階下に降りた。しばらく階下の郵便ポストの台石に腰をもたせて何だか放心した様になっていた。ふと足の節節下が痛いのでゲートルを解いた。ぼろぼろとガラスの破片が一握り程出て来た。片方の足からも同様である。一応ズボンを脱いで裏口から外に出てよく振って見た。またゲートルを巻き靴も脱いではき改めた。

急に西村君が気になり、病院玄関に行ってみた。横になり眠っていたので引返した。途中、病院の垣を出たところで血にまみれた大男が両腋の二人(事務長の世良さんと井沢君)に支えられて、逓信局の前を横断して病院へ向うのに出会った。病院長の蜂谷さんと直感した。寝巻のままで前が開き一物がぶらぶらとゆれていた。つづいて奥さんも誰かに支えられてすぐ後につづいていた。多分近くの院長官舎で災害に会って出て来られたのだと思った。皆不安と焦燥で声を出す者は一人も居ない。全く地獄の入口のようだ。子供の時甘茶を飲みに寺に詣り本堂に下っている地獄の図を見て恐しかった事があるが、あの時の画のようだ。何だか私はじっとしているに耐えられない気にかられて来て、もう一度屋上へ上がって見ようと思って走って屋上へ出た。

誰にも会わなくなった。先の金色の輝きは少なくなってうす暗くなって来た。西の方は昼前なのに暗く赤い炎が見え始めた。近くのつぶれた家から煙が上りはじめた。これは火事になると思われた。牛田の山からも二ケ所程煙が昇っているのが見え、鉄道線路とこことの間に増田の伯母が一人で居るが、何んなにしているかと気がかりになって来た。急に常盤橋のこちら側にある白島消防署がものすごい火を吹いて燃え出した。いよいよ当白島も火事になるなと思われた。これはじっとしておれないと思いだした。アンダーシャツ一枚血みどろである。やがて三階の自分の席に戻り、カッターを着てついでに側にあった戦斗帽をかぶり総務課長室を尋ねた。粟屋君や保田君に会った。御眞影を移すことで相談しているように見えた。潮課長の奥さんも近くの官舎から助けられて居た。私は、この時はじめて局内の窓ガラス一枚も余さず吹っとんでいるのに気がついた。追々と火の手が増して来た併し逓信局は建物疎開で倒れた家屋よりは、大分離れているから焼けることはあるまいと思った。階下へ降りて見ると余り人が居ない。皆それぞれに行動に移っているようだ。

ちょっと伯母を見に行って来ようという気になり、もう一度屋上に上って退避の道を見極める必要があり上って見た。全く火の手がひどくなって開いた方向が無くなって来た。白島小学校の校舎がつぶれて未だ火が廻っていない。ぐずぐずしていると逃げ道がなくなると思った。小学校の屋根伝いに行って、山陽線の線路に出るほかないと思って三階の自分の席に引返し、自分の手提げカバンを持って急に身軽くなり、一目散に裏門から火の粉をかぶりながら白島小学校へ走った。漸く燃え初めた校舎の屋根を走った。校舎には軍隊が沢山宿泊していた関係で下敷になっている者が多く、あちこちから「助けてくれ」の断末魔のような声が耳にひびいたが、一々取合っていられる情勢でもなく、大怪我をして歩けない者が、倒れた家や道に溢れていて、通る道もないので臥っている家の屋根伝いに鉄道線路に向って歩いて、伯母の家へたどり着いた。

逓信局から百五十米位いのところである。この辺の家も一様に潰れて、丁度トタン張りの藁葺きの家が、パッと燃え上っていたので隣側の伯母の家の裏口から入った。天井が畳から四〇糎位のところで止っていた。大声で呼んでみたが、さっぱり返事がない。腹ばって台所から表の間を見たが見つからない。便所にも居ない。伯母は軽い神経痛で朝は九時頃でないと起きない習慣であったから寝床を見たが、居ない。何時も手元に置いている非常袋が見つからないので外を見ると、山陽線路の土堤の上から寝巻のままで呼んでいるのが目についた。直ぐに袋を持って走り出た。出る時に隣の火事が玄関に移って仏壇が燃えかけたが、何うすることも出来ない。伯母は爆風に魂消て走り出ては来たが脚が立たなくて失神した様に土堤に座っていた。顔を見て安心したようだ。

早く逃げないと火に囲まれるので半分背負うようにして線路に沿って東へ向って歩いた。復線で巾があり相当の高さもあったので、火に囲まれる心配はなかった。鉄橋にかかるところで線路から降りて、京橋川の洲へ出た。丁度、潮が引いて洲は広かった。一万人位の人が集っていた。赤鬼の集合である。泣いている者は居ない。泣けないのである。親を尋ね、子を尋ね、焦燥と不安の極点に達して、皆ぼんやりと洲を手で掘って飲んでそのまま死んでゆく者、また子を背負っている母の顔は、皮がはげ脱皮しかけている者、誰一人知った者に会わない。会っても分からないお互いの容貌である。やれここまで逃げて来たと思うと疲れが出て来たので、砂の上に腰を降した。十時半頃であろう。パラパラと夕立が来たが直ぐ止んだ。西の方で雷が二、三回鳴った。牛田側の向岸の家がどんどん燃え出した。段々と火災が激しくなった。逓信局はどうなっているのか一度行って見ようと伯母を待たせておいて線路まで上って見たが己に火の海の彼方である。あきらめて伯母のところへ引返した。

饒津のお宮が燃え出した。大きな樟が火の玉のように焼ける。その時である。東の方双葉の里の練兵場で大爆発が起こり、火柱が双葉山の高さに達し、益々ものすごくなって来た。じっとしておれなくなり、河向うの牛田へ避難しようと思った。河を渡らねばならない。河の流れのみでも五〇米はある。伯母にカバンと袋を持たせて背負って流れに入った。渡るにしたがい益々深くなる。水は私の胸まであった。牛田の二股土堤に上って橋の下に踞んで休む。塩田係長が局で見かけなったので、家へ立寄って見た。奥さんが出てきて塩田さんは、爆発前一〇分位に出たから途中であろうとのことだった。家の天井が落ち窓がズタズタで大さわぎで途方にくれていた、文書係のタイプ娘の一団に会った。助かってよかったなと言合ったが、市内にも行けず市外にも行けず行く先が定まらずうろうろとしていた。自分らも可部へ帰るほかなくとぼとぼと太田川の東側を川に沿って奥へ奥へと歩くことにした。

異様な人の波は市外へ市外へと歩き反対に市に向って来る人は〇〇街は何うか△△町の方はと呼びかける自分らも何回か尋ねられたが誰も返事ができないそのうち赤鬼が黒鬼に色を変えてきた道端で乳を飲ませている黒鬼も見ておれない牛田の水源地まで来た。牛田の山は山火事が続いている。新庄の山も火事になっている(後で分ったが原爆の光源によるものである)ここで広島の方を振り返って見る。火事は最高潮に達し全市に火焔の波が穂立っている。考える何物もなくただ茫然として一休みすることにした。

時計を見ると午後二時である。ふとカバンの中に弁当があるのを思い出して伯母と二人で分けて食べた。可部までは相当の道のりがある。元気を出してとぼとぼと川上へ向って歩く。突然火事中の牛田の山の高射砲陣地の弾丸が爆発すると言い出して、騒ぎだしてあぶないから向岸へ渡れと言い出し人波に追われ渡し場へ急いだ。丁度舟が出かかっていた。我先に乗り込む。皆真剣な顔であるが向岸へ着いて見るとそんな気配はないので、気を落ちつけて可部線へ向って歩く道端の畑で「あんた達ひどい目にあったなトマトでも食べて歩き」と言ってモンペのおばさんが言ってくれた。こんなに美味しいトマトは食べたことがなかった。ポケットにも入れて歩く。古市橋の駅について疲れて歩けなくなった。

電車が通っているのか何うか判らない、そのうちトラックでも来たら乗せてもらおうと思って石垣に腰を降ろした。もう全く歩く気がしない程疲れ果てて眠い位だ。牛肉のようになった人間を積んだトラックが何台も来た。怖しいようで乗せてもらう気がしない。もう午後四時になる。可部からの電車が来た。ここから折返すと言うので伯母を無理やり乗せた。シーツも床も到るところ車内は血だらけもう大分負傷者を運んだらしい仕方なく血の上に腰を降ろす、お互顔を合すわけにゆかない気の毒な顔の負傷で見ておれない。

何の駅も肉親の安否を気づかう人らで満員だ。私共は打ちのめされた気持ちで可部の駅に降りた。とぼとぼと誰も声をかけてくれる人もなく伯母と脚を引きずりながら可部の我が家土井家に入った。義姉や妻子が驚き乍ら大騒ぎをして呉れた。皆私の血みどろのシャツや服で大けがをしている様に見たようだ。戦斗帽を地に投げつけて裸になって体を洗った。疲れ果てて横になり寝てしまった。何時間か寝て目が覚め伯母と共に皆に状況を話した。

土井家の次男および二中は遂に帰来しなかった。
                                                        以上

 


  

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