前夜からの空襲警報で敬宗(息子)には焼夷弾が落下した場合、火がついた時のことを思い、むつきを3枚、ゴムのカバー3枚、肌着白のガーゼを3枚着せて寝かせていました。
朝になり警報解除の様子でほっとし、肌着だけ一枚にし、障子を開け放し、朝食を済ませました。
公さん(預かっていた親戚の中学生)が警報解除だったら、このまま学校に行くからと言って家を出ました。これがこの世での別れとなりました。
主人のネクタイを締め終わって何気なく主人の顔を見ますと、いつもの顔と違って神々しいまでにやんわりとした容貌で、あらーっと思い、その事を告げようと思いましたが声に出ませんでした。
原子爆弾が未だ落とされない前にもうこの娑婆世界での寿命は尽きると云うことは決まっていたのだなーと今ごろ思われます。
出勤時間ぎりぎりでしたのに、玄関先で敬宗を抱いてあやして、早く行かなければ遅刻するのにと思いました。
やっと私が抱き取り、回り門で振り返って行きました。これが最後の別れとなりました。
見送った後部屋に入り、図書館より借りていた5冊の本を見ていて、敬宗は玄関の境の連子につかまり立ちして、化粧クリームの空瓶をポーンと投げたと同時に、その方角の障子の開いた方から、2糎丸位のコバルト色の玉が入ってきて、シューと白い光を放ちましたので、反射的に敬宗を右手で引き寄せようとしましたが届かず、左手も出して引き寄せ、伏せました。
この時全然音は聞こえず、押さえられたような痛みもなく、公さんが夕べ、クリームの空瓶で理科の実験をしていたので、何か残っていたのかしらと思いました。
気がついたら、倒壊した家の下敷きになっていました。
光は障子の方から入ってきたので燃えているかも、私は生きている、このまま焼け死ぬのかなー、主人が引き返して助けに来てくれるかも等々色々な思いがかけ巡りました。
このまま死ぬのだなと思った時、小さい時、おばあさんが、死ぬ時南無阿弥陀仏と言うんだよと言っていた事を思い出し、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と3回称えました。
一寸身体をゆすった所、私の身体が出るだけの穴があきました。
敬宗を下に置き、先に私が出て、敬宗を引き上げました。
顔が泥だらけになっていました。
私の手は皮がはがれて白身が出ており、右手がひどく、左手もむけて、両膝も皮がはがれていました。
この時は痛みを感じませんでした。
周りはベージュ色のもやがかかったようで、遠くまでは見えませんでしたが、わたしの家の筋は皆倒れ、大きい道路の向かい側の家も全部倒れ、川べりの家だけ倒れないで傾いていました。
私は両手を見て、敬宗の顔がと、隣家の庭を通って川辺に行き、敬宗の顔を拭おうと水に手をつけようと思って息を飲みました。
いつもきれいな川水が真茶色の濁流で、ゴウゴウと流れているのです。
手のひらをちょっと濡らして、口や顔を拭き、何の傷もなくて安心しました。
倒れた家に帰りますと、押入れだけはそのままで、蒲団・蚊帳・おむつ・配給の下駄等そのまま残っていました。
膝のとこが焼けていたモンペを押入れにあったのとはきかえ、おむつをさいて帯にして敬宗を負い、下駄を履き、平素避難場所とされていた大河の方に逃げようとしたら、近所のご主人の声で、ここの木をのけてください、そうしたら出られますからとおっしゃいましたが私ではどうする事も出来ません。
どうしようかと思っていたら、軍人さんが隣家の家に入ろうとしていましたので、お願いしたら後でと云われ、隣組の方が通られたので声をかけましたが気もそぞろの風情で反応がありません。
南のほうから燃えていると誰かが言っておられるのが聞こえてきましたので、私も、敬宗が煙に巻かれてはと逃げました。
途中で、伯父・伯母と出会い、川に浮かんでいた伝馬船に細いロープを伝って乗りました。
上から、その船はうちの船だと言う声がしました。
どうしようか、皆あがればいいのに、他所の船だからと思っているうちに、舟に水が入りだし、また細いロープを伝って上にあがりました。
今考えると、よく出来た事と、火事場の馬鹿力とはあの時の事かと思われます。
それから、比治山の南斜面に逃げました。
背中全面焼けた人など、大勢が無言でゾロゾロ登って行きました。
偵察機が飛来し、皆伏せました。
たいぎくて起き上がれない。
二度目、またB29が飛来し、また伏されと云う事で伏さりましたが、今度は仲々起き上がれなかった。
比治山では、兵隊さんが、火傷には油がいいと初めは薄茶色のドロッとした油を、二度目は黒い油を塗ってくれました。
大河へ行く道はフラフラしながら歩き、のどが渇いて仕方がないので、途中の家で水をいただきましたが、飲んではいけないと言われ、口に含んで吐き出しました。
やっと、夕方、大河の家に着き夕食をご馳走になりました。
白いご飯だったけれど、この時ばかりはおかゆが食べたいなぁと思いました。
夜になり焼夷弾を投下されるかもと言う事で、大河の山に野宿しました。
朝は大河の町の方々の炊き出しの朝食を頂き、大変世話になりました。
この頃から私は身体がだるく、火傷の痛みが段々ひどくなりました。
大河の山で知り合った人がトラックを持っていたので、伯父が話をつけて、五日市まで乗せてもらうことになりました。
御幸橋、明治橋と渡りましたが、まだ火が燃えたりくすぶったりしておりました。
橋を渡る時、伯母があれを見てみんさいと申しましたが、私には起き上がる元気はありませんでした。
ですから、死体の累々と重なっていると云う惨状は目にいたしておりません。
途中は探しに行く人、避難する人で今の二号線はぞろぞろ人が歩いていました。
五日市の里には午後着きました。
私はジャガイモの汁が効く、南天の煎じ汁の渋が効くと、つけて貰いましたが、痛くて痛くてどれも我慢出来ませんでした。
ホー酸軟膏が一番気持ちよく、終わりまでそれをつけていました。
右手首の針の先で押した位の穴から膿が出ていました。
麦刈りの頃、ようやく外に出て見ようかと土手にしゃがみこんで仕事を見ていましたが、身体のだるいのは仲々直りませんでした。
傷が全快したのは21年6月頃でした。
敬宗は両足かかとの上を火傷していて、言葉の言い始めは、「いたいいたい」でした。
足首を曲げて歩くので衛生兵の方に診て貰いました。
いくら足首を伸ばそうとされても伸ばしませんので、親が再々動かしてやらなかったから動かなくなったのだとひどく叱られました。手術しかないとのことで帰って行かれました。
その後、私が足首を動かそうとするとすんなりと動かせましたので、ほっとしました。 |