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被爆体験について 
大上 一朗(だいじょう いちろう) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市(千田)[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
抜けるように晴れた朝八時一四分過ぎ、私は千田町にある校舎の間をのんびりと歩いていた。かすかにB29の爆音が聞えていたが、突然頭上が写真のフラッシュ以上の明るさになり、また火の玉が落ちてくるように熱くなった。シュルシュルという音がする。無我夢中で前方に数米走った時、目の前にあった渡り廊下の柱がへし折れたように感じ、その瞬間身体がすっとんだ。倒れた上から瓦のようなものが落ちて背中に当り、この世の終りと思った。時間が長かった。

暫くして静かになったので目を開けてみると真暗闇であった。手を動かしてみる。動く。次に足を動かして動く。ああ助かったと思いつつ周りが明るくなるのを待った。

立ち上りカバン等をみつけて歩く途中、腰が抜けたように坐り込んだ人影もあった。運動場には一〇人位の学生がいたけれども一体何が起ったのか誰にも分らない。とにかく負傷者の救助をと二階建ての校舎が一階半につぶれた中を恐る恐るのぞき、全身血まみれの学生をかついで校門へ行った。二〇人位の怪我人が救助を待っているが救助は来ない。中には腕の血管をたらして痛そうにしているものもいた。

火事の延焼を食い止めようと手押しポンプを準備したが風上の火事はおさまり、風向きの関係から火事になりそうもない。上空はものすごい入道雲がむくむくと立上りその下は雨のように見えた。

昼近くなり、食欲はないので弁当を水で流し込んで友と二人で帰ることとした。二〇〇メートル位行った所で両側の火事が凄く通り抜けを断念した。道路にはチョコレート色に焼けた人形のような姿が転がっていた。

遠回りしようと歩いたがどこ迄行っても火事跡が続きとうとう己斐の駅に辿りついた。途中両腕を前へ上げボロ切れのようになった皮膚をぶらさげて痛そうに歩く人々とすれ違った。結果として爆心地の周りを四分の三周して広島駅北の東練兵場へ着いた時はとっぷりと日が暮れていた。

川端を歩く時には「兵隊さん水をちょうだい」という声をふり切るのは辛かった。練兵場の真中で寝た時はネロがローマを焼き打ちするのを思い出させ、山側を除く三方は燃えていた。

翌朝早く起きて広島駅から一〇キロメートル離れた我家へ歩く途中で父が大八車をひいて来るのに出会った。私の死体でも探してくる積りであったという。もし出会はなければ父は爆心地で放射線を浴びて一ヶ月後に亡くなった筈である。

原爆の朝は通学の列車が遅れたので駅を飛び出しいち早く電車に乗った。次の電車に乗った人はその後の消息は分らない。同じ列車でも駅で被爆し全身やけどの人もいた。

その後、原爆症に苦しみ乍ら終戦を迎へた。元気であれば救助に行って死んだかも知れない。運命をいろいろ感じることであった。
  

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