終戦の年、昭和二十年八月までは、広島にはグラマン戦斗機数機による空襲があったぐらいで、警戒警報、空襲警報があっても、他の都市への夜間の大編隊によるB29の空襲になっていた。広島が、近くの呉に対する爆撃に来たB29の大編隊の一部でも寄って、広島を爆撃しそうなものなのに、一向にそれらしい気配もないのは、当時不思議に思われていた。大きな川が何本もあるから、爆撃しても余り効果がないためかと思ったりもしていた。まさか、B29一機の空襲で、しかも昼間にたゞの一発の爆弾で全滅させられるなどとは誰一人想像だにしていなかったはず。
八月六日の朝も、官公庁は八時から勤務が始まっていて、中等学校の生徒は学校か、学徒動員で、工場か、建物疎開に現場にいっている。八時十五分といえば、朝礼が終って、各自が自分の持ち場について仕事をはじめたばかりの時である。
私は、下宿のアパートから、江波山の上の気象台に早目に行き、昼の弁当をすぐ食べてしまい、今日からはじまる天気予報についての専修科生への講義をはじめようとしていたところだった。突然の発光現象に「異常現象」と思い、市内が見える北側の窓に近づいて確認しようとしたところ、窓ガラスが映画のスローモーションのように、フワッとこわれ自分の方にスーと飛んで来るので、学生に「皆伏せろ」とどなりつゝ自分も両手で、耳と眼をおおって、床にガバッと伏せた。
何とも例えようのない数秒が過ぎて、周りが静かになった。起きようと思ったが、片足が動かない。やられたか!と思って足をみると学生の一人が、自分の足にしがみついていて離れないためだった。手を離してもらい、学生一同が、たいしたけがもないことを確かめて、室外に出た。オモチャ箱をひっくりかえしたような各室内の状況、ガラスの破片で大けがをした人もいる。急ぎ、山の下の江波の陸軍病院へつれていく事になり、数人が担架にのせて、山を下りる。やっと平地に来て、陸軍病院の塀を廻って、正門に近づいたとき、近くの朝鮮部落の一軒がボーンという音と同時に火を噴いて燃えだしたのには、ドキッとさせられた。
病院の門の前の一直線の道には、市内の何もみえない灰色の幕の中から、頭から灰をかけられ、衣服はちぎりとられ、顔、手は一皮むしりとられ、両手が痛いのか、幽霊の形、そのまゝに、両手を前に出し、手首からカクンと下に手をおろして、ゾロゾロという表現しか出来そうもないあるき方、病院へやってくる人、人、人、戦時中なので、女の人が多い。時々警防団の人らしい男もまじっている。門へ入っても、入っても、ひどい列が続いて途切れない。市内は灰色のベールで何も見えない。
気象台の重傷者はまだ病院内で順番待ちしていて、一こうに進まない。同僚に頼んで、近にある自分の下宿のアパートがどうなっているか見にいく事にした。アパートの前に来て、水道があるのに気が付き、ポンプをおして、手、足、顔を洗い、体にたったガラスの破片をぬきとって、アパートに行った。
アパートの主人も奥さんも、娘さんも、といっても主人が入隊したばかりの主婦でしたが、皆、玄関に集まっている。娘さんの主人と中学生の長男が、帰えって来ないかと、首を長くして待っている所だった。二階の自分の部屋をみたが、外からでは何ともなっていないように見えたアパートも、中に入ってみると、天井の桟はもち上がってガタガタになっているし、室内は、台風一過というところ、軽い紙、ハガキは、窓枠を飛びこして、家の外に散乱している有様、どうにもならず、玄関に引帰えしたとき、丁度、長男の中学生が帰えった所だった。頭の髪の毛は全部やけている。顔と首の上の方は完全に一皮むけていて、スベスベしているが青黒い肌になっている。一皮むけた美人という表現を聞いたことがあるが、本当に一皮むいた肌は、きれいもきれいなものかと、中学生の首の下半分に、かじったリンゴの皮のように少しさゝくれだって残っている肌の端を見ながら思ったものである。
上半身は、シャツの襟首の所だけがクッキリと跡を残している。あとは何もなし、娘さんの母親にだかれて、部屋に行ったが、後で聞いた話では「Bに直撃弾があたり、火を噴いて落ちる、落ちる」といいながら息を引きとったそうです。
当時、江波の高射砲も七サンチ砲から十サンチ砲にかわり、一万メートルまで弾がとゞくようになっていたので、直撃もありうることを、この中学生は知っていたのかも知れない。可愛らしい少年で、頭も良く、礼儀正しい、本当に良い少年だったのに、と今でも丸坊主の童顔を思いだすことがある。やはり学徒動員で家屋疎開をやっていて被爆したらしい。
アパートを出て、すぐ前のトマト畑の中を小さいが真赤にうれたトマトの実を横目に見ながら歩るいていると、隣のトマトの影から大きな山犬が、ヌッと頭を出した。その後や横にも数匹の山犬がいるらしい。山犬をこんな近くで見るのは初めてなので、どうしようかと思ったが、知らん顔して、同じ歩巾であるいていたら、サーと山の方へ姿を消した。映画で、人間をおそう山犬なども見ていたので、姿が消えてから、心臓がドキドキした。
気象台へ帰える途中の木の葉に青い色にまじって、焼けごけて斑になっている葉を時々見かけた。気象台の青い芝生にも放射線状に点々とこげた跡がすじ状になっているのをみて、広島の造船所の人が、窓から市内をみていて原爆の光で眼をつぶしたといっていたが、本当に、この葉や芝生をこがすものが眼に入れば、完全につぶれるだろうと思った。
陸軍病院は六日は入る人の列、七日からは担架にのせられ死人の列とあいなった。これいつはてるとも思えぬほど続いた。市内は三日三晩、火の海、残った江波地方では七日の夕方から海岸での火葬が続いた。風の向きによっては、山上の気象台に、例の何ともいえない匂が入ってくる。この何ともいえない匂は、当時、暖房用のたきつけがなく、ストーブがあっても寒い目に会っていたので、古い焼場のこわれた建物の木をはがして取ってきて、ストーブにまき代りに入れたことがあった。火がついていないときは何の匂もなかったのに、一旦、火がつくと、例の何ともいえない匂が噴きでて、大変こまったことを思い出させる匂である。霊よ安かれと祈るのみの日が続いた。
そのうちに、私の方が原爆病になり、死の一歩前までか、片足つっこんだ所まで行くことなった。広島から岡山、玉野、高松をへて、香川町の浅野まで、水しか喉を通さない体で、両親や弟妹のいる疎開先についたのは八月十六日か十七日だった。
三畳に七人、横になったまゝ病人の私を中に入れて暮らしたのも四十二年前ですが。
原爆が恐ろしいのは、他の被爆と違っていて、爆発の一瞬にその人が何処にいたかで、生死が決まってしまい、後での訂正がきかないというこわさである。逃げる事もかくれる事も出来ないという事です。
また、原爆病のこわさは、発病時、体に変化を来たしているのに、当の本人は普通な感覚で、特別なかわった感覚が生じないということです。
休まなければ、ならない体なのに、動き廻って、一歩一歩、死出の旅路を、本人は何も知らずに過ごすことです。
私の恢復期でも、寝ていたのが起きてあるけるまでに、赤ちゃんのように、ハイハイから、つたえあるきという順に少しづゝでないとあるくことまで進まなかったこと、たゝみの上はあるけても、道路をあるくのは、平面でない起伏に体のバランスを合せるのに一苦労があるというくらいでした。
※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
|