一、救援部隊の規模
イ、広島市を東西南北の四地区に分け、各地区に司令官をおいて救護活動を行った。
ロ、救護所は次の所へ分散して軍医が長で救護を行った。
ハ、看護兵・看護婦をこれにつけた。
ニ、施設は材料倉庫を使用した。
ホ、場所―金輪・鯛尾・似ノ島・楽々園・宇品等に分散配置。
二、被爆直前の患者収容状況
なし
三、被爆の体験(船舶司令部内にて被爆)
イ、閃光の感受状況
凱旋館内にて二階廊下を通行中、眼前十メートルに写真のマグネシウムをたいたような強烈な閃光を感じた。
ロ、轟音の聴取状況
同時にドンという轟音を聴取した。
ハ、炸裂直下の状況
その数分後、屋上に上ってキノコ雲を見た。
ニ、一時間位の後には市内各所に火災発生。
ホ、収容患者の状況
現六管一階(元凱旋館大広間)に続々として、負傷者百数十名が自力で徒歩で来たが、ここで気力尽き、身動きができなかった。
ヘ、船舶司令部の破壊
ガラスがこわれた程度である。
ト、病院従事者の被害状況
軍医二名・衛生兵三名・看護婦五名程度が服務していたが、被害はなかったと思う。
チ、負傷状況とその後の行動
私自身は負傷しなかった。
炸裂直後二時間、私は第五師団司令部へ連絡を命ぜられ、市役所前まで来たが、附近は電柱や倒壊物が燃えており、路上の前進は不可能であった。
四、臨時救護所の状況
船舶司令部では、軍医・衛生兵を増員して、凱旋館の患者の応急手当を行った。
五、救護活動の状況
イ、八月六日から八月十三日まで
佐伯司令官訓示
「船舶作戦の本務をすてても、広島市の救護に立て。」
ロ、場所
広島市内を四地区に分かち、船舶司令官自ら市役所南側空地に天幕を張り、一週間泊り込みで、救援・復旧作業を指揮し、都市機能の早急回復にあたった。
金輪・似ノ島・鯛尾・楽々園・坂・宇品各方面に臨時救護所を設置し、負傷者の輸送につくした。収容人員は、不明なるも、六千人を下らずと思う。
ハ、死体の処理
焼却・埋葬(数は不明)
六、その他書きのこすべき事項
イ、当時大阪中部軍司令部より救護活動のため
防疫給水機関 若干
野戦病院 一個
救護班 五個
を急きょ広島へ応援派遣することになった。
ロ、広島駅前に、探索者の便宜をはかり、戦災相談所を設けた。収容負傷者の氏名・年令などの記録簿を置く。
ハ、佐伯司令官が、市役所に対して、上水の給水能力の復旧を要請した。
出典 広島市役所編『広島原爆戦災誌第五巻』広島市役所 1971年 pp.421-425
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