平成26年 小学校での講話より
私は、ただいま紹介されました「松永茂」と言います。昭和3年(1928年)生れで、現在86歳です。よろしくお願いします。私は広島の原爆の被爆者と言うことは、妻以外の子供達(3人)には色々と心配させてはいけないと思い、誰れにも話していません。しかし私も年を取り、このまま原爆の惨状を知りながら、誰れにも話さずあの世へ行ったら、後悔すると思い、ここに沈黙を破り、広島で自分の体験したことを、皆様にお話しすることにしました。それは二度と悲惨な戦争を起してはならないからです。
当時私は広島の江田島の幸の浦で船舶暁部隊の基地で特攻隊の訓練をしていました。昭和20年8月6日午前8時頃空襲警報が発令され、約10分ぐらいで解除されました。やれやれと思っていたら再び空襲警報が8時15分に発令されました。その時閃光が「ピカッ」と光り「バーン」と大きな音がしました。驚いて外へ出て広島方面を見たら「モクモク」と大きなキノコ雲が大空に向ってのぼっていました。そして、広島市街地は炎に包まれ炎上し「火の海」となっていました。新型爆弾(原子爆弾)が投下されたのです。ビックリしました。翌朝軍の命令により朝早く全員救援隊として船に乗り広島の宇品港に上陸しました。岸壁には、被災した多くの人達が爆風と熱線で顔は「風せん」のようにはれあがり、火傷で両手の皮はベロンと垂れ下り、手のほどこしようもない無残な姿で立ちすくんでいました。驚ろきで声も出ませんでした。
当時近くにある「似の島」と云う島は臨時野戦病院になっておりました。そこに行く船を待っていました。船に乗り運ばれた人達は8月6日から25日まで約1万人が収容され、薬も包帯等も少なく、その内、重傷者は収容されてから約500人から700人ぐらいの人が死亡し、その後、多くの人が死亡されたと聞きました。また広島市内で倒れて死んだ身元の分からない人達は多く、広場に集められ火葬されたと聞きました。当時は戦時中で止むを得なかったと思います。
さて、陸上に上がり、市街地を見て「あっ」と驚きました。街は焼け野が原となり、多くの罪のない人達がいたるところに倒れていました。また通勤電車の中にも多くの人達が倒れていました。馬も道路のわきに横になって倒れていました。
また、広いグランドには多くの兵隊が、あちこちに倒れていました。重傷を負った人達も、手当を受けた人達も、その後、多く死亡されました。私も生れて初めて死んだ人を担架に乗せて運びました。市内の建物は無残なガレキとなり焼き払われ、住んでいた、多くの住民の人達も、あちこちに倒れ、死んでいました。そして、原爆投下後の市内全体のあまりの静けさに驚きました。その静けさはまるで「死の海」を思わせ「がく然」としました。そして原爆の恐ろしさを見せつけられました。
それから2~3日たって、どこからともなく人々が少しづつやって来ました。住んでいた人達を探しながら歩いていました。そして、あまりの悲惨な街の姿に驚き、悲しみ、ぼう然と立ちすくんでいました。また、広島駅の近くで倒れていた20歳ぐらいの女性を親戚の人たちだろうか4~5人の人達が、元気を出すよう励ましながら声をかけていました。女性は「いき」も絶えだえに力なく苦しそうに小さい声で「お母さん、お母さん」と呼んでいました。お母さんは来ていませんでした。一人のおばさんが、お母さんだよ、と云って手を伸ばし彼女の手をにぎりしめました。可哀想で思わず胸がつまり涙が出ました。その後息を引きとったと思います。どうすることも出来ませんでした。広島は、それまで一度も空襲はありませんでした。一人で旅行に来て被爆したのです。もう二度と旅行などには行かないわ、と云っていました…。また、原爆ドームの近くを流れる元安川の橋を渡って歩いていた幼い二人の男の子を見ました。
兄は小学校2年生ぐらいで弟は4~5歳ぐらいでしょうか。私が、どこえ行くのか、と尋ねました。「お父さん、お母さんが居ないので、歩いて探している」と言いました。それから二人のしっかりと手をつないで歩いている後ろ姿を見ました。どうすることも出来ませんでした。可哀想で胸がつまりました。ここでも(戦争原爆)の悲惨さを見せつけられ涙が出ました。また、ある女学校に行きました。夕方でうす暗く教室の中に30人ぐらいの生徒が倒れていました。助けて下さいと云って、うなっていました。外は暗く、2人ぐらい担架で運び出しましたが、後は暗くてどうにもなりませんでした。おそらく、あくる日は皆んな死亡したと思います。
原爆投下で罪のない多くの人の生命を奪い建物は焼きつくされました。広島で「戦争原爆」の恐ろしさを、まざまざと見せつけられました。また、アメリカのB29爆撃機は日本全国の主な大都市や軍需工場のある街や、その周辺の街など、いたるところに「焼い弾」を投下し、建物や罪のない人達を焼きつくし殺しました。東京大空襲ではB29爆撃機から雨、アラレの如く焼い弾が投下され東京は一日で焼けのが原となり住民約11万人が死亡しました。「戦争は二度とあってはなりません」
皆さん戦争は若い人達の夢や、希望を奪い去ることを忘れないで下さい。学校でしっかり勉強し先生の教えをよく守り、体を鍛え大人になったら皆さんの力で戦争のない平和で明るい日本を作って下さい。心からお願いし、祈っております。
どうも御静聴有難うございました。
(被爆直後の死亡者)
広島約14万人(誤差± 一万人)
長崎約 7万人(誤差± 一万人)
(死者は今なお確定できないそうです)
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