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運命に導かれ 
守田 元男(もりた もとお) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2023年 
被爆場所 広島市吉島本町[現:広島市中区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 倉敷工業(株)広島製作所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
あの日ほど運命に導かれたと感じたことはありませんでした。
私、守田元男(もとお)は、当時14歳。尋常(じんじょう)高等小学校を卒業後、兵隊を志願しましたが、身長が足りないとの理由で却下され、広島市吉島本町(現在の吉島東二丁目)にあった倉敷航空機器製作所(爆心地から約2.6km)で旋盤工として、近くの寄宿舎(寮)から通いながら働いていました。そこで私は、兵器のナットやタップを作る仕事を担当していました。
 
〇1945年8月6日
この日、私は夜勤明けで、朝6時頃に5人の仲間と一緒に男子寮へ帰るところでした。皆と映画の話をしていたら盛り上がり、仲間の一人から、「おい守田君、これから映画を観に行っていいか、寮の舎監に交渉してこいや」と言われました。めでたく舎監から許可をもらえて出かけようとした矢先、「宏林(ひろばやし)と守田、こっち来い!」と工場の先輩から呼び止められ、寮で説教が始まりました。宏林君は寺の息子でしたが、少々素行に問題があり先輩たちに睨まれがちで、実家が同じ江田島(能美の中村、現在の江田島市能美町中町)ということで仲良くしていた私も巻き添えを食うことがしばしばあったのです。

説教が始まると他の4人は映画に出かけてしまいました。その上、先輩から外出までも禁じられ、仕方なく自分のベッドで休もうとしていると、飛行機が急上昇する音がして窓を覗いた瞬間、青白い光が走りました。一瞬で私は、寮の建物と一緒に地面に叩きつけられ、気が付くと目の前に一階のトイレの便器がありました。建物の合掌と合掌の間にいたおかげで奇跡的に無傷で、からくも助かった私でしたが、ベニヤ製の天井板が体を覆い、それを破って出るのはとても困難な状況でした。周りからは「先生、助けて~!」「お母さん、助けて~!」の声がしていました。そんな中、明かりが見えた方向へ進んで行き、やっとのことで自力で外に出ることができました。

時間がどれくらい経ったか覚えていません。あたりを見回すと、吉島の刑務所や中国塗料の工場など近所一帯が火の海になっていました。原爆が落とされたことなど知る由もない私は、何が起きたのかさっぱり分からず、「どうなったんかのう」と呆然としていました。

とりあえず、寮の舎監やその他数名の人と一緒に防空壕に逃げ込みました。しばらくすると、皮膚が垂れ下がり、顔が火膨れになった人がやってきて、「守田君…」と私の名前を呼びます。「あんた誰や?」と聞くと「上原よ!」と答えました。彼は新天地に映画を観に出かけた同僚の一人だったのです。白神社(しらかみしゃ)(爆心地から約500m)の所を通過している時に8時15分をむかえ、ひどいやけどを負いながらも、一人で歩いて帰ってきたとのことでした。上原君と他の3人のその後の消息は、分からずじまいになってしまいました。

市内の方面からは、大勢の人が逃れてきました。「水を下さい。」「お水をちょうだい」と連呼していましたが、「水をやったらいかんぞ!」と近くの吉島飛行場から来た兵隊が厳しく言っていました。

戦時中は、町のあちこちに防火水槽が置かれていました。そこに水を求める大勢の人たちが詰めかけ、水槽に頭から突っ込んで死んでいるところを目にしました。ボウフラがわいている汚い水の中に、ぎゅうぎゅう詰めになって亡くなっている人たち…なんと惨めなことでしょう。

元安川の土手の道には行き倒れた人の列が続いていました。中には、ウジがわいていながらまだ息をしている人がいて、その上、助ける人はどこにもいませんでした。原爆投下後に見たこれらの光景は、思い出すたびに心が締め付けられます。今でも本当に涙が出てくるのです。

その後、寮から少し離れたところにある倉敷航空機の工場の様子を見に行きました。火事は起きていませんでしたが、スレートの屋根が落ち、ぺしゃんこになっていました。工場の上司がどうなっているかも分からない状態でしたが、工場の近くにあった食堂は残っていて、その日、白米のご飯を出してもらいました。その時は、「これほどの緊急事態だと白いご飯が食べられるのだ」と思ったものです。私はそれから二日ほど防空壕に留まり、まだ十分に育っていない根っこ状態のサツマイモを、周りの畑から調達してきては、炊いて食べて過ごしました。
 
〇実家への道のり
火事もおさまってきた8月8日頃、私は実家のある江田島(能美)の中村(爆心地から約19.3km)へ帰ろうと、宏林君と宇品港を目指しました。

吉島本町から宇品へ向かうためには、まず南大橋を渡る必要がありました。しかし、木造の南大橋は、ほぼ水面ぎりぎりまで落ちかけている箇所もあり、欄干につかまりながらやっとのことで渡り、千田町に出ました。日赤病院や広島電鉄本社は火こそおさまっていましたが焼け落ちていて、辺りはひどい臭いがしていました。

その後、鷹野橋を通り御幸橋を渡りました。京橋川上流の平野町の川沿いには兵隊の馬のための厩舎があり、馬が川に流されていました。

私たち二人は宇品港を目指し御幸通りを南に進みましたが、カンカン照りでとても暑く、長く感じました。やっとのことで宇品の商用桟橋にたどり着き、船に乗ろうとしたものの、江田島の能美行きの船はないと言われました。しかし、江田島の南部、大柿(現在の江田島市大柿町)行きの船なら出ているとのことで、とりあえず乗ることにしました。船は番船のような民間客船で、乗客に被爆者はおらず、私と同じ普通の元気な人ばかり数十人が乗っていました。江田島の北端の切串の付近を通る際には、壊れた軍艦や航空母艦が停泊しているのを見ました。

下船した大柿から実家の中村までは十数キロ、宏林君と真っ暗な中、歩いて進み、家に帰り着いた時は夜中過ぎでした。母はとても驚いていましたが、息子の帰宅を心から喜んでくれました。
 
〇その後
元々我が家は、東京の杉並区で暮らしていたのですが、父が若くして脳溢血(のういっけつ)で亡くなったため、母の実家、広島県山県郡壬生町(みぶちょう)へ引っ越してきました。その後、私が6歳のときに母が再婚し、江田島へ移り住んでいましたので、幸いなことに原爆投下時、家族は全員江田島にいて、皆無事でした。東京で空襲の被害に遭うこともなく、私以外の家族が被爆もしなかったのは、本当に幸いだと思います。

小学校は、江田島の中村国民学校に6年、中村尋常高等小学校へ2年通い、1945年3月末に卒業して、14歳のときに広島で働くことになったのでした。

江田島に帰ってからは一年間ほど気分が悪い日が続きました。被爆者の中には、無傷なのに赤紫の斑点ができたり髪の毛も抜けたりして亡くなる人がいると聞くと、次は自分かもしれないと大変不安になりました。幸い体調は回復し、その後、いくつかの木工所で50年以上働くことができました。私が今住んでいる家も、私自身が会社を経営していた頃に自分で建てたものです。
 
会社の先輩から呼び出されてお説教を受けた私たち二人が無事帰宅し、映画に行こうと出かけた友人たちは皆亡くなりました。人の運命とは本当に紙一重で皮肉なものだとつくづく感じます。その後の私の人生を振り返ってみると、運命に導かれてここまでこられたと思うときがしばしばあります。

私は現在、90歳を超えてとても元気に暮らしています。広島カープの勝敗に一喜一憂し、釣りや神楽鑑賞を楽しみ、週に3回は温泉施設に行き健康維持に努めています。私の妻や同級生たちの多くは、私を残して逝ってしまいましたが、運命によって生かされた私は皆の分までがんばって生き続けようと思っています。そういう想いもあって、自分の被爆体験記を残そうと考えました。
 
〇核兵器や戦争、平和への思い
とにかく絶対に戦争はしてはいけない。昨今、ロシアの侵攻やイスラエル問題など、世の中がよくない方向へ進んでいますが、戦争だけは絶対にしてはいけない。原爆はもちろん絶対使ってはならない。ロシアが使用をほのめかしているようですが、一度でも使えば地球が無くなってしまいます。他人のものを自分のものにしようとするのではなく、問題が起きたら国同士で話し合いをして解決しなければならないのです。

私が子どもの時分は、小学校の先生が「突撃ぃ~!」と号令をかけ、生徒が西軍と東軍に分かれて竹刀を持って“戦争ごっこ”をやらされたものです。私自身や友達たちも疑問を感じず、それがあたりまえのように思うようになっていました。一旦戦争が起きてしまうと、子どもですら巻き込まれることになります。私もまだ14歳の時に、原爆投下で本当にひどい目に遭いました。こんな経験を次の世代の若者たちにさせるのは、何としても食い止めなければならないと思っています。
 
  

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