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幼き日の記憶 
小林 美鈴(こばやし みすず) 
性別 女性  被爆時年齢 4歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2023年 
被爆場所 広島市大洲町[現:広島市南区]] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私が生まれた久保田(くぼた)家の自宅は広島市大洲町にありました。父・唯夫(ただお)、母・マツヱ、長兄・宏温(ひろはる)、次兄・孝之(たかゆき)、私、生後3か月の妹・明美(あけみ)の6人家族です。原爆が投下された当時、私は4歳でした。

自宅は、浅野(あさの)家の別邸だった建物を買い付けて大洲町に移築したものだったらしく、とても大きな家で12部屋くらいありました。玄関は4枚の扉で二間ほどの幅があり、玄関の間やそれに続く控えの間はそれぞれ2~3畳の広さ、庭も広かったことを覚えています。自宅に防空壕はありませんでしたが、三軒隣の大洲配給所にはあり、そこを使っていました。

父はその大洲配給所の責任者として配給の仕事をしていました。裕福ではありませんでしたが、配給所の従業員2~3人をよく自宅に呼び、一緒に夕食のカレーライスを食べていました。

配給所の仕事をしていたため、近所の人から「いくらでも米があるのだろう」と言われたことがありましたが、その都度、父母が「私達も米は政府から買っている」、「決められた量しか食べていない」と言っていたところを聞いたことがありました。

母は専業主婦でした。母の実家は広島県安芸郡府中町山田にあり、大洲の家から歩いて20分程度の近さでした。長兄の宏温は県立広島第二中学校の1年生で、学徒動員で建物疎開作業などに従事していました。次兄の孝之は広島師範学校男子部附属国民学校の児童で、学校は東雲町にありました。私より5歳年上で、原爆が投下された時は9歳でした。2年生の頃から夏休みなど学校のない時、頻繁に母の実家に行っていたと思います。

自宅の西隣に大原ゴム工場というゴム草履を作っている工場があり、私は毎日のように、朝8時すぎから遊びに行っていました。大原家には、長兄の宏温と同い年か少し年上のお姉さんがいて、私のことをかわいがってくれていました。大原家に、木製のひよこ数体がロープでつながっている玩具があり、私はいつも、それを引っ張って遊んでいました。
 
●いつも通りの朝
8月6日の朝も、いつもと同じように大原さんのお宅に遊びに行っていました。大原家は、浴室から玄関の間までが直線廊下で、台所と居間が続いており、大原のお姉さんは浴室で洗濯をしていました。私がひよこの玩具を引っ張りながら、丁度、玄関あたりにいた時です。突然ピカっと光ったことを覚えています。そして気がつくと、左のこめかみと左膝を負傷していました。こめかみからは1メートル近く血が噴き出ていたそうです。こめかみと膝の傷跡は、薄くなりましたが今も残っています。

大原のお姉さんも無事でした。その後、大原のお姉さんが、泣きながら私を抱きかかえ、自宅まで連れ帰ってくれました。家の中がどうなっていたのかは覚えていません。客間の床の間が傾いていたと後で聞きました。家は崩壊せず火事も起きていませんでした。火事が無かったのは、比治山が盾になってくれたからだと思います。

自宅の門の外には井戸があり、被爆した人たちが「どこも水を飲ませてくれないから」と言って水をくみに来ていました。また、後から聞いた話かもしれませんが、市内からゾロゾロと避難してくる人たちが「水をください」と言って、水を飲んで府中町の方に逃げて行かれました。
 
●家族の被爆状況
原爆投下当時、自宅には長兄の宏温だけがいました。本当であれば勤労奉仕で東練兵場に行くことになっていましたが、前日の広島県庁附近の建物疎開作業でアイスケーキを食べ過ぎ、下痢ぎみであったため、母親が休ませていたのです。自宅の座敷で仰向けに寝転んで本を読んでいた時に被爆し、近くにあった本棚から飛散したガラス片で右膝を負傷しました。傷は7センチくらい横に切り裂けて、血が噴き出たそうです。

母のマツヱは妹の明美を背負い、お腹を下していた長兄の宏温のため近所の松林薬局に薬を買いに行っており、近くの煙草屋辺りで話をしている時に被爆しました。その後、すぐに自宅に戻ったそうです。母も妹の明美もけがはありませんでした。

父の唯夫は勤務先の大洲配給所で被爆しました。父もけがはなく、原爆投下後すぐに自宅に戻ったそうです。

次兄の孝之がどこで被爆したのかはよく分かりません。次兄は定期的に広島県安芸郡府中町の母の実家に行ったり来たりを繰り返していましたので、原爆投下の当日も母の実家にいたと思います。次兄もけがはしていなかったと思います。

父母、長兄、私と妹は、被爆後、割とすぐ集合できたと思います。
 
●被爆後
その後、私は負傷していた箇所をおしめ(布おむつ)で止血され、大八車に乗せられて母の実家の府中町に連れていかれました。家族全員で行ったのだと思います。母の実家は、原爆の被害はありませんでした。

そこで治療を受けたのだと思いますが、府中町にどのくらいの期間滞在していたのか覚えていません。ただ、大洲の自宅に戻ったのは、まだ暑いころだったと思います。
 
 
●戦後、小学生のころ・母の死
終戦後も配給制度は残っていたようで、米穀通帳を見た記憶があります。父は配給所の経営を続けていましたし、食生活に苦労した記憶はありません。

私は東雲にある広島師範学校男子部附属小学校、現在の広島大学附属東雲小学校に進学しました。当時、東雲はブドウ畑やレンコン畑だらけで、通学路は畑に囲まれていました。大洲の自宅から東大橋を渡り、猿猴川沿いの土手を通って学校に通っていました。小学校と中学校の9年間、30分から40分かけて土手を通い続けることに精一杯だったことと、給食のコッペパンが美味しくなかったことを覚えています。私のことをかわいがってくれていた大原のお姉さんとは、私が小学校に進学するまではよく遊んでいたと思いますが、その後の交流はありませんでした。

小学校5年生の時に肺結核で母・マツヱが亡くなりました。商売を続けなければならず、また、私たち子どもがまだ小さいということもあって、父は母の死後、約半年後に再婚しました。養母の名前は芳子(よしこ)と言い、とても子どもたちに優しい人でした。養母の実家は鶴見町で、竹屋国民学校の目の前にあったそうです。旧姓は清木(せいき)といい、実家で和裁の仕事をしていました。実家では養母の母と養母の弟一家が一緒に暮らしており、弟は建具師の仕事をしていたそうです。原爆が投下された時、家族全員で自宅の防空壕に避難していたため、無事だったと聞いています。

妹の明美は、養母の姿が見えないと「おかあちゃん、どこ行った?」、「おかあちゃん、どこ行った?」と養母を捜しまわりました。家にいたおじさんたちには「ひっつきさん」と呼ばれていました。母の死後、母の実家に預けられ寂しい思いをしたことがとても堪えていたのだと思います。妹は母の実家に預けられていた時に府中小学校に進学しましたが、それまで大嫌いだった琴の練習を口実に、週一回大洲に帰って来ていましたので、それほど寂しかったのだと思います。

週一回、私は妹を府中小学校まで送った後、30分以上走って東雲の小学校まで通うという日々を続けていましたが、父の再婚後は、妹は大洲の自宅から大洲小学校に通うようになりました。
 
●その後
広島大学附属東雲小学校、中学校を卒業し、高校は県立広島皆実高等学校に、大学は鈴峯女子短期大学に進学しました。勉強が嫌いで行きたくなかったのですが、大学では栄養士になるための勉強をしました。合わせて、中学校の理科の教員免許を取得しました。

卒業した20歳のころ、教員不足だった祇園中学校から声を掛けられ、3か月ほど教壇に立ったことがあります。短い期間でしたが、どんな質問が生徒から出てくるか分からない中、質問に全て答えられるよう沢山勉強しました。この時が人生で一番勉強したように思います。

大洲の配給所はその後、東広島食糧企業組合という「トーショク」と呼ばれる会社に名前を変え、父が代表者を務めていました。昭和42年、仕事で従業員の運転する車に乗って因島に向かう途中、尾道か三原の辺りで自動車事故に遭いました。この時、父・唯夫、養母・芳子、長兄・宏温、次兄・孝之、長兄の息子(誠貴(のぶたか))が乗車していましたが、この事故で父が亡くなりました。また一週間後に、養母の芳子も父の後を追うように亡くなりました。トーショクの代表者は長兄の宏温が引き継ぎました。

私は昭和41年4月に結婚し、2人の子供に恵まれました。上は男の子で、下は女の子です。初めの5~6年は大洲の家で暮らしていましたが、息子が小学校に進学するのをきっかけに、1年生の夏休み、今の住所に引っ越しました。

私の夫は段原末広町で生まれ育った人ですが、夫の父親が豊田郡豊栄村(現在の東広島市)出身だったこともあり、原爆投下当時、夫は豊栄村に行っていました。夫はその後、入市被爆をしたかもしれませんが、そのような話はあまりしなかったので詳しいことは分かりません。「自分も被爆者健康手帳もらえるかな」と話をしていた矢先、昭和54年に肺がんで亡くなりました。私は結婚前、大洲にいたころ、家族でそろって被爆者健康手帳を取得しています。
 
●被爆による後遺症や差別
私には被爆の後遺症はありません。後遺症と言えるかどうかわかりませんが、私の家族では、妹の明美だけが結婚後に頭髪が抜ける症状がありました。姑が厳しい人でしたので、そのストレスかもしれません。

また、私は、被爆者として差別を受けたこともありません。遠い親戚が建物疎開作業中に被爆し大変な火傷を負い、顔の半分と手にケロイドが残ったのですが、彼女はたくさんの差別を受け嫌な思いをしてきたと思います。一時期、「原爆乙女」でアメリカに行く話も出ていましたが「私は見世物じゃない」と言って断っていました。
 
●平和への思い
ロシアによるウクライナ侵攻のような戦争のニュースを見ると、どうして戦争をするのかと思います。本当に戦争は止めてほしい。喧嘩をしても何一つ良いことはありません。テレビでウクライナの泣いている子供を見るととても苦しいです。泣きながら親を捜している子供の姿を見ると、78年前の日本、広島もそうだったのだと思います。私の命を差し出せば戦争が終わるのであれば、私は喜んで自分の命を差し出します。 

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