●被爆前の暮らし
私、山口聖治(さとはる)は、1935年(昭和10年)10月14日に広島県府中町で生まれました。
父・龍一(りゅういち)は、東洋工業に勤めていましたが、山口県下松市の日本製鋼所下松工場に転職し、そこで約3年働いた後、独立を目指し、昭和5年頃に広島市中広町で軍関係の鉄工所を始めました。
父、母・ツユコ、妹・紀惠子(きえこ)、上の弟・輝昭(てるあき)、下の弟・龍男(たつお)の6人家族でした。そこでの暮らしは、軍関係の仕事をしていたせいもあったのでしょう衣食住は不自由なく、今思っても太平楽で良かったと思います。
父は、中広北町の警防団長もしていたので、軍からの連絡事項を町内の方々に伝えたり、バケツ運びの指導をしたり、女性の方には竹やりの突き方を教えたりしていました。
犬好きだった父は、鉄工所の番として軍犬だったと思うのですが、大きなシェパードを飼っていました。私が幼稚園から小学校の頃、いつも帰ったら犬小屋へ入って、犬が温かいので一緒に寝ていたそうです。
父には、原爆ドーム横が現在の新天地や流川町のような街でしたので、戦争中もよくそこへ連れていってもらったことを覚えています。父がお酒を飲んでいる間、私は玉突きをして遊んでいました。帰りはいつも原爆ドーム前から天満町まで終電に乗り、天満町の電停から家まで歩いて帰っていました。そのような関係で、この辺りのことはよく知っていました。
当時の一番の思い出として、伯母(母の姉)の婿さんという人が、東京で軍の偉い人を乗用車で送迎する仕事をしており、その人が昭和17年の正月にその車で帰って来て、私と母と従妹らを三段峡に連れて行ってもらったということがありました。
今思い出しても一番怖かったのは、6歳上の従姉と市内に映画を観に行ったとき、館内で一緒に座っていると、兵隊さんが来て私の首根っこを捕え「貴様、どこへ座っとるのか、学校の名前を言え」と問われ「府中の学校です」と答えたときでした。当時、映画館では、中央の通路を境に男女が別々に座ることになっていました。
戦争が進むにつれ、父の鉄工所でも扱う鉄の量がどんどん減って、多いときで十六~七人いた工員も兵隊にとられて、最後の頃は年寄り二人だけになり、竹やりを作るようになっていました。
●縁故疎開
中広町の幼稚園から楠木町の三篠国民学校へ通い、三年生になると三篠国民学校の児童は安芸高田郡川根村(現在の広島県安芸高田市高宮町)へ集団疎開することになっていましたが、以前から、両親と府中町の母の実家(伯父(母の兄)夫婦、祖母と子どもの9人家族)との間で、私が府中町へ縁故疎開するということで話が決まっていたようです。
縁故疎開の理由は、父が私に寂しい思いをさせたくなかったということと、府中町の伯父(母の兄)夫婦が「5人育てるのも1人育てるのも一緒じゃけえの、ええじゃないか」と引き受けてくれたことでした。
疎開先での生活は、従兄妹たちが私と同じぐらいの年頃であり、私も腕白でやんちゃな子どもでしたので、楽しかったです。実家にはイチジクや柿もあり、田畑もあったので食べることに困ることはありませんでしたし、私も稲刈りや鍬をもって耕しに行っていました。日曜日には両親のいる中広町に歩いて帰っていたので、全く寂しくなかったです。
疎開先の回りは、田んぼや畑に囲まれ、東に榎川、南にカトリック幼稚園があり、世の中を広く感じることができました。近くには西国街道の目標となる埃宮や、編入先の府中国民学校(現在の府中小学校)がありました。
●8月6日の出来事
1945年(昭和20年)8月6日の朝、いつものように府中国民学校での朝礼が終わり2階の教室に戻ると、友人が「友軍機じゃ、友軍機じゃ」と北側の窓から体を乗り出し、大声を出していたので、皆でその方を見ました。私は日本の飛行機はあんなに高く飛ばないことを知っていたので「音が違う。あれはB29だ」と叫ぶとすぐに警報が鳴り始めました。上空の3機は、強い太陽の光に照らされ銀色に輝き、北の可部町方面から南の広島市方面へ向かっていきました。すると、そのうち1機が急に降下して、何か白い落下傘のような物を投下し、西の矢賀方面の山並に隠れてしまいました。あれは何なんだろう、今までに見た宣伝ビラとは違うぞ、と思いながら教室に戻ったとき、太陽の強い光りを破って、青白い光が今まで青々としていた田んぼの稲や白壁、周りの山々や校庭の砂に靄がかかるようにあたり、そこらじゅうが青紫一面に色が変わり、まるで映画館でフィルムが切れたときの映写機の強い光があたったようで、初めて見る光でした。何の光だろう、これはただごとではない、と心が騒ぎ、すぐに窓から下がりました。
光から5秒ぐらいあったと思うのですが、下からどーんと衝撃がきて、天井は外れごみが落ち、廊下は波打って崩れ、校舎の窓ガラスは全部割れ、空襲にあったと思いました。私は爆風をあまり感じなかったのですが、すごい爆風だったようです。飛ばされた友達もいましたし、割れたガラスが髪に入った女の子もいました。
荷物を持って皆で急いで1階へ下りると、先生が「どこへ行くか、すぐ地下に潜れ」と言われたので、友人らと校舎の床下の風抜きに入りましたが、上級生の友人は「怖いのお、逃げようや」と誘うし、私も怖かったので反対側の風抜きから田んぼの方へ抜け出しました。周りを見ると、皆もぞろぞろと学校から出ていました。
西空には、大きなキノコ雲が太陽の光に照らされ美しく見えていました。山すそには、縦に長く青い筋のかすれた線がいく筋も現れたり消えたりして、やがて黒い波の雲の中に消え、下の方からものすごい波がいく筋も沸立つような、大きな水煙が見えました。
途中、姉や従弟に出会い、一緒になって家へ帰りました。道中、壊れた家もあればそうでない家もあり、爆風を受けた建物は、風向きにより唐紙に穴が開き、ガラス戸が割れていました。
午前9時前には家に着いていたと思います。祖母や伯父夫婦とその子どもたちが私たちを案じ、近所の人たちと家の前の道まで出てきてくれ、私たちを見て「おお帰って来た、帰って来た」と迎えてくれました。祖母らは、口を揃えて「どこか怪我はしとらんか」と心配してくれ、どこも怪我をしていないことが分かると安心して、連れだって家に入りました。
大人たちは「怖いのお、何じゃろう、大きな爆弾が落ちんたんで」と話していました。家の中は、戸や障子などが少し壊れていました。
午前11時頃に艦載機のグラマンが飛んできたので、この辺りの様子を撮(と)りに来たのだと思いました。
晩に、府中町の砂原の人が、伯父の家(母の実家)に立ち寄り「あんたの(広島市内)中広の家は壊れとったが、皆元気だったぞ。お父さん、お母さんは土手へ避難しておられたぞ」と知らせてくれ、それを聞いて安心しました。
同じ晩に、近所の人が通りがかりに「伯父さんの息子(長男・正信)さんは、(市内比治山の)御便殿の所におったぞ」と知らせてもらったので、すぐに伯父が歩いて迎えに行き、正信さんを連れて戻ってきました。
正信さんは、山陽中学校の1年生で、その日、雑魚場町(現在の国泰寺町)での建物疎開の作業中に被災し、御便殿に避難していたそうです。上半身の胸の骨が見えるぐらいがひどい火傷で、このような火傷は初めて見ました。正信さんは結局、21日に亡くなりました。
●府中町から広島市内中広町へ
翌日の7日に伯父と祖母と私で、猫車を引いて、両親たちがいる中広町に行こうとしましたが、移動を管理する町内会長のような人に「おまえらどこへ行くのか、火災があるからだめだめ」と怒られ、動くことができませんでした。
次の8日の日には、(市内東部の)尾長町までは行くことができましたが、そこで道路の死体を片付けている人から「どこへ行くのか知らんが、市内へは入らりゃせんで」と言われ、先へは進めませんでした。
結局、9日の朝6時頃に中広町へ向け出発することになりました。道中、道はきれいになっていました。
府中町の埃宮の下を抜け、西に向かう途中、どの家も南と西側の戸や窓が大きく壊れ、辺りはとても静かでした。
景色が一変したのは尾長町辺りからで、傾いた家や窓枠まで飛んだ家があり、たくさんの建物が大きく壊れていました。
愛宕町は焼野原でした。コンクリートの家しか残っておらず、木造の家は跡形もありません。普通、火事で焼けた家は焦げた柱や建物の一部が残っているものですが、辺りは何もないきれいな焼野原で人影はありませんでした。この光景を見て戦争でやられたんだなという気持ちになりました。
私は、以前(山口県東部)岩国市に爆弾が落とされ地面に大きな穴があいているのを見ていたので、どこに爆弾が落ちたかと思い、穴を探しましたがどこにもそのような穴はありませんでした。まさか、あの光った瞬間、その光で建物が燃えたとは思えませんでした。
(市内中心部)/京口門辺りから死体が目に付くようになり、死体を片付ける人を目にするようになりました。(市内中心部)銀山町から八丁堀辺りでは、亡くなった人が集められ、雑積みにされているのを見ました。
満潮時に橋を渡ったのですが、木造の橋げたにたくさんの人が折り重なるように引っかかっていました。道中、祖母が「可哀そうに」と念仏を唱え、伯父は「急ぐんで、急ぐんで」と言い、私たちは中広町へ行きたいばかりでした。
私は、亡くなった人がごろごろしているのを見て、うあー、すごいな、と感じましたが、恐ろしいとか可哀そうという気持ちは全然ありませんでした。
死体や傷ついた人が所々におられました。
兵隊さんが、とび口で人間の首を引っ掛け、動かしていました。体にさわると皮がずるっとむけ、手が滑って持てないのでとび口を使っているのです。「水をくれ」と生きておられた人にも、とび口で死んだものと同じように扱われ、一緒に焼いている光景を見て、その頃から、戦争いうのは怖いもんだなと思うようになりました。
電車通りにあった護国神社では、焼くために参道をずーと掘って死体が並べてありました。
●父との再会
中広町に着いたのは午前9時頃だったと思います。町の様子が以前の町並みを残したままだったので、少し、心がざわめくのを覚えました。我が家の南側に着くと、周囲は、焼けた家、全壊、半壊の家で、ほとんど人の手が入っていませんでした。父は、作業着を着て家の近くで片付けをしており、私を見て「よう来てくれたの」と言ってくれ、顔にちょっと火傷して赤く腫れていましたが元気そうでした。
父とは、私が8月4日の晩に中広町に一泊しに帰っていましたので、4日ぶりの再会でした。
●父から聞いた話
父は、西引御堂町(現在の十日市町)の親方の鉄工所を手伝っていたときに被爆しました。壊れた建物の天窓から抜け出し、燃えていた北広瀬橋の橋杭を伝って、泳いで対岸の中広町へ渡って帰ったそうです。父が中広町の自宅へ着いたとき、母は壊れた家の下でした。父が「どこにおるか」と声をかけると、倒れた土壁の下から母の声がするので、土壁の竹を引き抜きその隙間から母がいるのが分かりました。梁が重く一人では動かせなかったので周りの人に声をかけ、母を救い出すのを手伝ってもらったそうです。母は、太ももに梁の割れたのが突き刺さって、動けなくなっていました。それから、近所の人の手を借り、母を川土手の避難先に連れて行ったそうです。
●母との再会
私たちは、その後すぐに母が避難していた福島川左岸の川土手へ行くと、母は「あんたも来てくれたんか」と言ってくれました。私は母のその姿を見て、ああ、けがをしたんだな、と思うだけでそう感情的なものはありませんでした。
そこには近所の人と一緒に妹弟二人も避難していました。上の弟・輝昭は壊れた自宅から自力で抜け出し、妹・紀惠子(きえこ)は爆風で飛ばされたところを近所の人に助けられかすり傷を負う程度でしたが、下の弟・龍男は大柱の下敷きになって即死だったそうです。母が亡くなった弟をタンスの引き出しのような箱に入れて飾ってやった後、父が河原の下の畑で焼いてやったそうです。弟はすでにお骨になって小さな化粧箱の中に収められていました。その時は、そのお骨を見て、早うに亡くなって、というぐらいの感情しか湧きませんでしたが、その後、年をとるにつれ弟の死を深く感じるようになりました。
川土手はずらーと避難した人でいっぱいで夜店みたいな光景で、川土手の下は死体がごろごろしていました。避難先は、むしろで仕切りを作っただけの簡単なもので、今でいうブルーシートのようなものがないので、屋根はありませんでした。
辺りの様子は、中広町の土手の辺りは壊滅状態でしたが、中広町の北の方は建物が一部残っていました。(南の)天満町に入ると、小学校は焼けたようでも下の方は残っていたり、焼け残っている建物が見えました。光の向きがあったと思います。己斐(市西部の地区)の方は見通すことができました。
母へは「明日、大八車を借りて、手伝ってくれる男性を探して、迎えに来るけえ」と伝え、母から、弟・龍男(たつお)のお骨が入った化粧箱を預かり、弟・輝昭(てるあき)、妹・紀惠子(きえこ)を連れて、その日の夕方に中広町を出発しました。
●再び府中町へ
帰りは、中広町の北側にある中央橋が修繕され通れるようになったことを聞いたので、この橋を渡って、横川駅前から常盤橋へ抜ける北側の道を通って帰ってきました。行きと違って横川駅の方から帰った理由は、府中町への近道だったからです。
道中、常盤橋の北側に死体がたくさん置いてありました。橋のたもとに葦が生えている大きな洲があり、そこから死体を引上げ、焼いていました。100体ぐらいが山積みにしてあり、燃やしているのが見えました。
●母を迎えに
翌日、近所の人と大八車を引いて川土手に残した母を迎えに行き、鉄工所で後片付けをしている父を残し、府中町へ帰りました。
父を除く家族4人で母の実家に住まわせてもらうことになり、伯父家族は変わらず親切にしてくれました。母から、世話になる上、長男なのだからと諭され、畑仕事や家事の手伝いが増えました。
●終戦
8月15日に中広町の川土手で父と共に昼ご飯を食べていたところ、近所の人から「玉音放送がある」と知らされて河原に向かいました。そこで近所の人達と、電蓄から流れる天皇陛下の言葉を聞きましたが、これで戦争が終わったんだな、と思うぐらいのことでした。雑音が何もないので川岸から澄んだ声がはっきりと聞こえました。
私は日本の敗戦より、これで爆撃から逃げなくていい、夜中に電気を点けたり消したりしなくていいと、ほっとした事を覚えています。周りには涙する人、逆に喜ぶ人もいました。父は戦争前の生活に戻り鉄工所を再開したいと意気込んでいました。「これからは玩具がええ、玩具を作ろう。戦争のない時代だから機械だけでなく子どもが喜ぶ鉄の玩具作りも始めよう」と将来を考え楽しそうな様子でした。
●父の死
8月19日まで一人でずっと中広町の鉄工所の後片付けをしていた父が、府中町に歩いてやって来て「急に体がだるくて動かない」と言い、それから、高熱が出て寝たきりになってしまいました。頭の毛が抜け、紫斑が体中に現れ、私は父が恐ろしい病気になったことを悟りました。依然として、母は安静が必要な体でしたので満足に動くことができません。伯父家族の助けもありましたが、私が井戸水を汲んだり洗濯を手伝ったり懸命に二人を看病しました。父は、容体が悪化すると熱の痛みで苦しみ、優しかったはずの気性が荒ぶり、怖いとさえ感じました。
倒れて10日目、亡くなる前にはふっと穏やかな顔になり、父が「ああ落ちるのう。黒くなってもう落ちるのう」と呟きました。布団からはみ出た手を握り「どうしたの、お父さん、何か用事」と聞くと、「おう、頼むぞ」と一言だけ言いました。昔に戻ったような父の様子と言葉に、これからは私が家族を支えていくよう託されたのだと感じました。それが最後の会話となり、翌日の8月30日、39歳で亡くなりました。大きな怪我もせず無事だったのに、なぜ父が、というくやしさでいっぱいでした。
その頃、府中町でも亡くなる人が日ごとに増え、町営の火葬場は順番待ちで、何日も待たないと焼けない状況でした。中には隣の安芸郡温品村(現在の広島市東区)の火葬場まで行く家もあったようです。夏場で急ぐ、ということで伯父と町内会の方が話し合い、父には昔使っていた(府中町)新宮の火葬場を使用することが決まりました。
亡くなった日の翌日の葬儀では、正午頃、町内会の方に手伝ってもらい棺桶を担ぎ、山の中腹の火葬場に向かいました。火葬場まで行った親族は私だけで、着いた先は草が生え人気もなく、周囲にいくつかのお墓と小さなお地蔵様があるだけでした。最後の読経が終わると、突然町内会の方から「もう10歳を超えて長男で山口家の跡取なのだから、この後は一人で火の番をして、焼け終わったら知らせなさい」と言われました。そして、最初の薪をくべると私だけを残し、皆、下山してしまいました。
体に着火するブビュブビュブビュという音が怖くてたまりませんでしたが、務めを果たそうという思いでいっぱいでした。次第に青い炎があちこちに表れ、掛けた油を伝って垂れるように火が広がりました。そのうち、チューッ、ジューッとかパンパーンッとか、聞き慣れない音が鳴り始め、何の音だろうと恐る恐る近寄ってみると、燃えている体中に幾筋もの線が文様のように浮き上がっていて、その線が弾けて火花が散っているのが分かりました。当時は分からなかったのですが、血管は中に血液があるため他の組織より遅れて着火するのだそうです。私が見たのは皮膚の下にあった血脈であり、聞いた音は血液と火が反応して飛び散る音、血管が弾ける音だったというわけです。その時はたった一人で、ただ見つめるしかありませんでした。4時間ほど経った後も臀部が残っていたので薪を足して燃やし続けました。全て骨になって下山したのは夕方でした。
遺骨は白色ではなく気味の悪いオレンジ色や青色に染まっていました。翌日、お骨拾いの際、他所でも被爆者の遺骨を見たという近所の人が「やっぱりこっちも色が付いたのお」と話すのを聞きました。
父は、そのまま中広町に残って作業し、そのせいで光の残留物を吸い込んだに違いない、と思うと胸が痛みました。
お墓は、やっと七回忌のときに作ることができ、それまでお骨はお寺に預かってもらっていました。
●戦後
母の怪我は近所の元衛生兵の方に治療してもらい、秋頃には歩けるようになりました。そして、私たちを養うため府中町役場で働き始めました。子ども3人を抱え、苦労したと思います。
戦後すぐは食料が足りず、母と二人で尾道の方へ芋の買出しに出かけ、焼けずに残った着物と農作物を交換しました。母が時折「いい着物だったんよ」と口にすることがありました。戦前父に買ってもらった大切な着物を、生きるため手放してくれたのだと思いました。
住まいは約2年間伯父の家を間借りした後、離れに納屋を作ってもらい家族だけで暮らしはじめました。私が就職した後は、母と私が資金を出し、伯母から土地を譲ってもらい近所に一軒家を建てることができ、今も住んでいます。
●差別
両親が揃って当然という時代だったため、母親しかいないことで理不尽な扱いを経験しました。言外に匂わせて青年団の役職に就かせてらえなかったこと、はっきり「片親の家庭へ嫁に出せない」と言われて見合いが破談になったこともあります。戦争がなければ父はいたのに、と何度も思いました。父がいない悲しみと、原爆が父を奪ったせいで不当な差別を受ける歯がゆさで二重のつらさがありました。
●仏教での学び
前々から菩提寺である(府中町)龍仙寺で門徒として毎月勉強会に参加しており、仏教に関心がありました。50歳の時、職業病の顔面神経麻痺になったのを機に、その仕事を辞めて本格的に学ぼうと思いました。衆徒(住職の代理を務められる役)になってからは法要や説教を任されました。寺に常駐する役割で旅行にも許可が要りますが、縁あって75歳まで続けさせてもらいました。(広島県)竹原市忠の海にある禅宗の勝運寺の勉強会に参加もしましたし、浄土真宗の教えを極めたいと考え、(広島県)三原市にある光徳寺の勉強会へ約12年通いました。皆さんから高齢になっても行動的だと驚かれますが、学びたい気持ちが活力の一つだと思っています。
●健康被害
入市以降、軽いすり傷でも膿が出て1、2か月も治らなかったので不安な日々が続きました。医者にも見せず、誰にも言えずにいましたが、2年ほど経って回復力が戻ってからは病気もなく、現在に至っております。町役場に勤めていた母が手続きしてくれたお陰で早くから被爆者健康手帳を持っていました。50代で肺がんを疑われたとき以外は、被爆のことを意識するような病気はしていません。母をはじめ、妹や弟までが、がんや心臓病を経験していて、私だけが元気でいられたのは珍しい方だと思います。
●平和への思い
戦争中は情報規制で「日本軍勝利」とだけ報道され、戦況はよく分かりませんでした。配給や竹やり訓練などじわじわと生活が変わっても、日本が勝つと信じていたのです。戦後、軍の苦境や兵士の苦労を知りおどろきました。被爆前は、呉大空襲の話を聞いても現実味がありませんでしたが、私自身が被爆し生活に苦労したことで被災者の辛苦を理解することができました。知ることの大切さを痛感しているからこそ、皆さんには原子爆弾の悲惨さを知ってもらいたいと思っています。
仏教では、人が持つ「争いの心」が、他人と競ったり優位に立とうとする欲となり、現実の争いを起こすと考えます。ロシアのウクライナ侵攻のような、自分の欲を増長させた戦争は今も世界中で起きており、現代の戦争は大量破壊兵器が使われるため、多くの一般人が犠牲になります。無差別攻撃の足元には私のような体験があり、被害者の数だけ苦しみがある事を想像してもらいたいのです。
若い人には、争いが起きない世界のために身近なことから考えてほしいと思います。自分だけいい思いをして相手に嫌な思いをさせていないだろうか、自分の心は平和だろうか、と立ち止まって考えてみてください。多くの人が平和を望み、自分の争いの心を越えて、互いに仲良くしようと相手の考えを受け入れる気持ちを持ってくれることを願っています。
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