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原子爆弾 
中鶴 進(なかつる すすむ) 
性別 男性  被爆時年齢 33歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

1945年(昭和20年)8月6日朝、広島上空に侵入したアメリカの原爆搭載機「B29エノラゲイ号」は高度9600メートルから原爆を投下、パラシュートつきの原爆は50秒後すさましい閃光と轟音を発して炸裂した、時に午前8時15分この瞬間に広島の時は停止し街は死んだ。

広島市の建物疎開作業に県内の町村より建物疎開部隊が軍隊同様赤紙で召集され町村名をつけて何々部隊として建物壊し作業に従事していた。正規の軍隊も参加してこれらの指揮に当たりながら建物壊しの要領順序など指導していた。また各工場からも部隊を編成して作業に当たっていた。東洋工業でも7月に入って各工場毎に作業隊を編成して比治山付近鶴見町一帯の疎開に当たっていた。

建物壊し作業は汗と埃の作業で壁を壊し柱だけに建物をして柱の下部を鋸で切断してゆくのであるが20人余りが縄をかけて引き倒せる程度に鋸を入れていくのがむつかしい、鋸を入れすぎては自然倒壊のおそれがあるし鋸が足らぬとなかなか倒れてくれない、20人余りが力を合わせて大音響と土煙で倒壊する。思わず万歳があがる。疎開作業に万歳でもあるまいが各部隊の競争もあって歓声はあがる。

倒壊された家の材料は近郊の町村の人々が大八車、馬車等で薪に或いは物置小屋等の材料として或いは防空材として勝手に持ち帰っていく。

向洋の人々も大八車で朝6時ごろ出発して薪材取りに精を出している、藤吉(注:父67歳)も負けてなるかと車を引っ張って出かけていた。私も日曜日の一日藤吉と6時出発す、大洲橋頃までくると暑い日ざしは容赦なく後ろから照り付ける、そしていつのまにか大八車の列をなしていて早い人の中には一人が車のかじを取り一人が後押し一人が縄で引っ張って威勢いよく車一杯山程材料を積んでワッショイ、ワッショイと掛け声かけて走って帰ってくる。

こうなると妙に競争心が沸き立つものでつい足の運びも早くなり倒壊現場に来る。

物置ぐらい作る下心はあろうが材料選びを皆んなやっている、薪にするにしても角材のいいところや床柱がいいのかと空襲警報を気にしながらも面白い心理が働くものである。

色々な職業についた事のある藤吉は荷造りはなかなか上手で小さい大八車にうず高く角材等を積み上げた。帰りも大八車の列に引っ張られ押されているかっこうで列をなして無事に今日の薪運びは終わった。

8月6日月曜日運命の時がきた、そして地獄が

私はこの日は一小隊を引率して建物壊しに出動する予定で小隊を引率始業後直ちに宮崎兵器部部長指揮の部隊に合流して工場前の通路に整列し前進の号令で前進したところ私の部下が「組長さんちょっときて下さい」と何か分からないことがあるらしいとの事、私は隊を離れて工場に引き返す。一部昼夜交代で作業していたので今日は月曜日で、今日から昼の勤務になった作業者が少し分からない所があったので私はそれらの指導をしてそのまま工場にとどまっていた。私は現場事務所の机に向かって今日の出動状況生産計画等調べていた。隣の机には軍隊を病気で退役した私と同年配の進行係兼庶務関係の仕事をしている真面目な男が事務を取っている。

8時15分 右方向、工場でいえば西側の窓に真っ白くピカッと光った瞬間ガスでも爆発したかと思った。やがてザザザーと爆風のごとく暖かい風が西から東へと、そして東の壁に突き当たった熱風は屋根のスレートを突き破って立ち去った。窓際にいた作業員の男女はスレートの破片を頭や肩、腕に受けて表に飛び出した。これが世に云うピカドンである。

私は横の軍隊出の「組長さん机の下に」の指示で、机の下に防空頭巾かかえてもぐり込む。私も軍隊出も爆弾であろうから必ず次がくると考え次に落下した状況により退避しようとしたのである。

シーンと音一つない工場、何時間か経過したような気がする、おそらく数分の事であったろう。次の爆弾が落下しそうにないので出てみようと二人で通路に飛び出した、殆どの人は府中の防空壕に走り込み通路上にはまばらに病院に向けて肩や腕をおさえて走っている人がある程度であった。いまさら防空壕に行く事もなかろうと病院に向かっている負傷者に防空頭巾の中の薬、包帯で応急処置したりしてみんなが工場に帰ってくるのを待つことにした。

しまった、私は今朝、父が疎開材を取りに大八車を引いて出かけたことを思い出した。工場内の情報報告もまったく無く死の世界、広島市街に何か重大な事態が起きている予感がしてならない、皆が帰ってこない今の内にと向洋の家に帰る。

街も人影はない皆退避しているのであろうか。

我が家への坂を登る、妻は4、5日前から胃痛が激しくなって浜の家(注:妻の実家猿猴川河口の大原町の入り江)の前の仮小屋(周りに家もなく警報発令でも退避せず寝ていることができたので)に寝泊まりしていたが丁度この朝は気分も少し良かったので家の表で子供といたので近所の奥様も総出で父の帰りを待っていたところであった。「とうちゃん」と子供が迎えてくれる「じいちゃんは」?まだ帰らない。わが家も隣の家も裏の窓ガラスは全部割れ余勢で我が家では玄関のガラスも一部割れた。とにかくここでも広島に大きい爆弾が落ちたのだろうと不安で藤吉の帰りを待っている。何の情報もない不安な時が流れてゆくと火事場を通り抜けて来た様にすすけた顔でシャツもボロボロ、ズボンも後ろの方はボロボロで空の大八車を元気に引っ張って坂を登ってきた。「じいちゃん元気で」と皆が喜んで迎えてくれた。そのじいちゃんの首の後ろから背中にかけてやけどの様に水膨れみたいになっている、やけどか何かさっぱり分からない。じいちゃん自身何か分からない、とにかく街は燃えていた熱くておれなかったと云うだけ、後日の話をまとめてみるに、何時もの如く鶴見橋付近の疎開材を大八車に満載して大正橋を渡って間もなく後方で例のピカドン、道路わきの家屋は燃えていなかったが吹き付ける熱風にたまりかねて、また背中のやけどらしい傷も痛むので近くの川に入って様子を見ることにした。一瞬にして広島は火の海になったのか黒煙は高く燃え上がり熱風は川面に吹きつける、ますます熱風は激しくなるので危険を感じ思いきって川から出る。ほかにたくさんの人が川にいたように思うと言っていた。そして車の荷物を道路の隅に投げおろして走るように帰ってきたと云うのだ。

坂の上の住人も藤吉が帰ってきたのでひと安心、火傷らしいので油がよかろうとシマ(注:母)とカツノ(注:妻)と二人で傷の手当てをして藤吉を寝かす。そして私は再び工場へ。

防空壕に退避していた連中も帰ってきていた。また疎開作業組もボツボツボロ衣をまとって帰ってきた。ピカッの一瞬の出来事の為立っていた状態で顔、背中、手足とさまざまな所が黒くブヨブヨに膨らんでいる。自分の家に帰れる人は油を塗って帰す。遠くの人は一応食堂の机の上に寝かせて油を塗ってやる。張り詰めた気もゆるむ、痛みはだんだん激しくなるらしく顔をしかめているがどうにも手当のしようがない、ただ女子挺身隊の若い人々が警戒警報の鳴り響く中この負傷者をおいて退避する事は出来ない、一緒に死んでもいいと待避もせずに看護してくれた。私の組の者も5名ほど帰ってきた。私とよく将棋を指した魚屋の徴用工さんは顔を真っ黒にして自分の機械の横に座り込み「組長さんやられました」とつぶやく様に言った。一応の手当てをしてもらってどうにか我が家にたどり着いたが気力も使い果たしてそれまでであったと後で聞かされた。

私は夜は工場警戒の為出動、食堂の屋根に設けられた監視台に上がって友と3人野焼きの如く一面に赤い炎がパッとひときわ激しく乱舞するのを眺め、日本中がこの様に焼き払われていく、生きている事が不思議にさえ思える長い一日が明けた。何事もなかった如くさわやかにそして次第に炎の如く照り付けてきた。

会社に出社してくる人も10人余りしかいない、元気な人の大部分は肉親を或いは友人、知人、隣組の人等帰宅しない人々の消息を求めて広島市内の瓦礫の中や近郊の特設救護所等をさまよっている事であろう。私も同僚と二人防空頭巾を肩に組員を捜しに行く、汗をふきふき大正橋を渡ってすぐ左側、焼け残りの家屋もすこしあったがその道路わきに陸軍の臨時の救護所が設置されてテントが張ってあり中には台の上に戸板が置かれ何の注射液か白い液の入ったアンプルが戸板一面に並べてあった。

テントや家の周りに30~40人位の負傷者が横になったりうずくまったりしてしている。

家のひさしの僅かの日陰を求めて争ったのであろうが日陰もお日様の移動で位置が変わるしもう動く人もいない。私と同僚は「東洋工業関係の方はおられませんか」と負傷者に向かって叫ぶ、道路のすぐそば中年の男、上半身裸、顔、肩と黒くブヨブヨで触ればペロリとめくれそう、その枕元に奥様か奥様らしい人には外傷はなかったがひどく苦しそうに見えた。主人を日陰にと思われて丁度通りかかった私達に「すみません日陰にやって下さい」と蚊の鳴くような声で言われる。私は同僚と家のひさしの僅かの陰を見やったが人の入れる隙はない又たとえ何とか割り込ませてもらってももうすぐ西日が当たり陰は無くなる。この肩の傷、とても抱えて移動は出来ないよと私と同僚は目で話して聞こえなかったふりをして先へ急いだ、私は今も処置はなかったかと胸が痛む。

鶴見橋のたもとには5~6人の男の子の全裸の死体が並べられていた。二人は比治山に向かった。ゆるい坂を登ってゆく、あちこちの防空壕内には人の気配がする「東洋工業関係の方おられませんか」と叫んでみるが答えはない。

道路右側の谷には全裸、半裸の死体がころがっている。比治山の山頂近く大きい木の陰に35~6歳位のきちんと着物を召した奥様が横たわりその枕元に2歳ぐらいの全裸の男の子が座っていたのがたった今倒れたと云う格好で死んでいる。奥様は外傷はなく異常は感じられないがもう息するさえ苦しそうであった。そして私達にとぎれとぎれに今さっき兵隊さんが来て乾パン3個置いて行った事、そしてすぐ来るからと言って立ち去った事、「子供はたった今息を引き取りました、私の主人は…学校の校長(よく聞き取れなかった)ですが等話されたが聞き取れず、兵隊の来るのを待ってみたがなかなか来ないので頂上の方に探しに行く、木陰に戸板一杯に注射液が並べてあるが兵隊の姿は見当たらない。

比治山から西方を望む、遠い日赤病院がさえぎる何物もない瓦礫の原すぐそこに見える、そしてその裏手の家は煙に包まれて時々パッパッと炎を上げている。

私は友を誘って日赤病院に行く事にする。途中川土手を下りて壊れた橋の陰に入って昼食の大豆飯のにぎりをほうばる。すぐ近くで材木を抱いたかっこうで全裸の男性がうつ伏せに沈んでいる。ずーと川の中に目をやると次から次とほとんど全裸の男女の死体で一杯である、二人は大豆に口をもぐもぐさせながら歩く事にする。ふと見ると瓦礫の中からこつ然とユーレイでも現れたのかと思う程突然若い女性二人が派手なのぼりか旗か何かの布を身に巻きつけて肩を支えあってふらふらと比治山の方に行くのが見えた。

多分瓦礫の下の防空壕の中から出ていくところであったろう、まだ動いているところがあった。警戒警報のサイレンが鳴っている、動く人間はもういない、私達もまさか瓦礫の山に爆弾をとあほらしくなったが二人とも防空頭巾は肩にかかっている。

日赤病院では私たちの如く捜している人もあちこち見受けられた。病院入口のコンクリートブロック塀には学生の一団であろう30人位が彫刻像の如く同じぐらいの間隔をとってゲートルの足を投げ出して塀にもたれている。一様に顔は黒く膨れ上がっている。或いは?(注:不明)かも知れないが無表情に無言で…

病院の内部は無論焼けたことであろうしそして今は負傷者が横たわっているであろうが静かで人声はなにもない。兵隊が4人でタンカを担いで無言で病院に入っていった。タンカの上には女性が横たわっていた。

はるか比治山の下の道路を救援に駆け付けた兵隊であろう100人ばかりの一隊が軍歌を歌いながら広島駅の方に進んでいた。

私たちは何の成果もなく瓦礫の中を帰途につく、そして私はこの爆弾が何であれ戦争であれば負ける方が負けでいつの場合も悲惨である、だから勝たねばならなかったが残念ながら万が一の望みもあるまい、戦勝に酔ってビルマから雲南省へと攻め進んで祖国の勝利を信じてその礎となりマラリヤに倒れていった弟、好(注:昭和17年5月ビルマで戦病死22歳)はこの惨状をどこから見ているであろうか。

会社に立ち寄って今日の報告をして帰途につく、青崎国民学校の校庭から数条の白煙が立ち昇っている、青崎国民学校に収容されて死亡した人の肉親や知人が校庭に穴を掘って薪をあちこちから拾い集めて焼いている煙である。

昭和51年広島・長崎両市長の国連本部に提出の広島・長崎被爆の実態に依り両市の被爆地からの距離別死亡率、被爆当時の米穀通帳及び復元調査資料、人口の推移等から死亡者を推定。広島には軍人が約2万人死亡していることから、死亡者広島14万人、長崎7万人、誤差プラスマイナス1万人と報告す。

なを東洋工業は爆心地から5.3キロメートルで工場内での死亡者はなし。負傷者は落下物等でかなりの数であったろうが疎開作業出動者が約200名死傷す。


被爆体験記録者 中鶴 進
被爆当時 33歳 東洋工業に勤務
当時の住所 広島市向洋中町

「自分史」(執筆年不詳)記載の中の「原子爆弾」より転記す 

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