母・七(しち)竹(たけ)チエミは、爆心地から約1.79kmに位置した、旧逓信省電気試験所広島出張所に勤務していた。この建物は当時、広島市三篠本町(現在の西区)にあり、原爆投下により被爆したものの、倒壊は免れた。終戦後すぐに業務が開始され、二度にわたって補修工事が行われた。原爆の恐ろしさを後世に伝える貴重な被爆建物ではあったが、老朽化が進み、平成23年、広島市西区中広町への移転に伴い、取り壊された。建物の取り壊しが決定されたこの年、被爆した元職員の中で、母が最後の生存者であったため、テレビ局が被爆当時の話を聞きに、母の元へ取材に訪れた。
昭和20年8月6日、この日も普段と同様に8時からラジオ体操が始まるため、屋上に上がった。当時は男子不足だったため、県立広島工業学校(現在の広島県立広島工業高等学校)から学徒動員として男子生徒も働きに来ていた。奇しくもこの日に限ってスピーカーが故障しており、ラジオ体操は中止になった。そして三次方面の空から飛行機が近づいて来たが、もう飛行機など見たくないため階段の方へ向かった。男子生徒達は手すりにもたれて、その飛行機を眺めていた。これが運命の分かれ道であった。階段を下りて仕事場に戻り、席に着いたその瞬間、青い光線が目を突き刺した。まさか原子爆弾が落ちて来たなど知る由もなく、ただ「やられた!」とだけ思った。ふと階下に目を向けると、先ほどの男子生徒達が血まみれで屋上から下りて来た。横川方面の家々からは、もくもくと煙が立ち上っていた。「ここに居ては危ない、逃げなくては。」と思い、急いで友達5人ぐらいと大芝公園に向かって逃げた。横川本線の線路を渡ると、太田川に大勢の軍人が浮かんでいた。また、大芝土手には50人ぐらいの人が倒れていた。気の毒に思っても助ける術がなく、この世の地獄を目の当たりにするだけだった。帰宅する途中、婦人会の方がカンパンを下さり、非常に有難く感じた。無事に家に着くと、心配して待っていた母が「よかった、よかった。」と喜んでくれた。しかし、姉の夫は子ども6人を残して爆死し、お国の為に亡くなったにも関わらず、何の援護もなく悔しくて辛かった。「早く軍部の方が手を打ってくださっていれば、このような悲劇は起こらなかったのに。」と唯々悔やむばかりであった。
幸いにも母は原爆の後遺症がなく、亡くなる3か月前まで自活していた。多くの方が後遺症で苦しむ中、94年間元気に過ごせたことは大変有難く、見守ってくださったご先祖様やご近所の皆様に感謝せずにはいられない。あの世へ逝っても、母は恒久平和を祈り続けているであろう。二度とこのような過ちを繰り返さないために、戦争の悲惨さを後世に伝えていくことが、被爆者の母から託された私の使命である。 |