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下光ヨシエの原爆体験記に寄せる追悼文 
下光 博之(しもみつ ひろゆき) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2024年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
お母ちぁん、ごめんなさい。でも、あの時は必死だった。何とか小学校での原爆体験のお話会を実現させよう。綺麗な服を選んで晴れ舞台にしてあげよう。これを口実に施設から外出許可をもらって、お父ちゃんと二人で建てた我が家をもう一回見せてあげよう。そればかり考えていたんだ。 
 
それも中止になり。ならばと新聞掲載をめざして聞き取り書きに臨んだのがこれでした。原稿を確かめて「これでいい」と言ってくれた時も、僕はまだ気づいていなかった。独りよがりだった。できることはした、と思っていた。 
 
今になって気づきました。これはとても大切な体験記です。そのことが分かった時、自分の愚かさと語って聞かせてくれた有難さが身にしみました。 
 
本当にありがとう。 
 
僕もできるだけやってみるよ。 
お母ちゃんの息子でよかった 
 
2024.04.23(Tuesday) 
 
 

私の被爆体験
三和町 下光ヨシエ
 
それは、昭和20年8月6日の朝の事でした。私は、朝ごはんをお父ちゃん、お母ちゃん、弟、妹といただいていました。夏休み中です。
 
私は、みんなより一足先に食べ終えて「ごちそうさま」と玄関に行くと……
 
うちの前にある久保井おばあさんが一人で住んでおられる家のてっぺんに稲光のようなものが見えました。思わず「あれは何?」と叫ぶと、それを聞いて家のみんなが外へ出てきました。次は警報が大きく鳴りました。お父ちゃんは「広島の方で何かあったんかも知れんで」と言いました。
 
それから、その頃はラジオが各家庭にあったのでラジオ放送で爆弾が落ちたということを聴きました。「ヨシエに呼び出しが来るかも知れんで」とお父ちゃんが言いました。「明日の朝、塩町駅前広場に来るように」と、お父ちゃんの言った通り、知らせがありました。
 
私は、塩町にあった広島双三実業学校の1年生で14歳でした。学校からは、広島に奉仕活動に行くから、昼ごはんの弁当と着替えを持って集まれという話でした。
 
報せのあった次の朝、お母ちゃんがこしらえてくれた、大きめのおにぎり3個、これは梅干しを入れてくれていました、と着換、といってもパンツ位です。を準備しました。それを持って塩町駅に行きました。
 
私の家は石原で、近所には実業学校へは2年生の先輩が一人いただけなので、その先輩についていきました。塩町駅に着くと、しばらく不通になっていたという芸備線も列車が通っていました。
 
広島から着いた列車からは怪我人や具合が悪そうな人がいっぱい降りていきました。そこの広場に集まった1年生、2年生5~60人くらいで広島に行きました。「広島に爆弾が落とされておおごとぢゃ。どうする」と車中で話し合いました。
 
広島に着いたら、酷い臭いでした。人を焼いていたからでしょう。広島駅からみんなで袋町小学校に向かいましたが、とにかく臭いがすごいので鼻をハンカチで押さえていました。袋町小学校に着くと、校庭に兵隊さんらが穴を掘って人を焼いているのが見えました。看護婦さんたちは怪我人、病人の手当てをしていました。
 
私達の班の役割は、水を探すことでした。瓦礫をどけては水が滲みている所を探すのです。時には死体が出てくることがあります。見つけると、その場所を見失わないように二人を残して、水だったら看護婦さんに、死体だったら兵隊さんに報せに戻るのです。
 
袋町小学校に泊まったのは一日だけ。その晩は星空を見て寝ました。二日目からは基町に移動して室内で寝ることができました。鉄筋の建物でした。
 
食べものは、持って行ったおにぎりからは、配給か何かをもらって食べたのでしょうけれど、よく覚えていません。
 
当時は1年生と2年生の上下関係は絶対で、基町に移ってからは、どこからか風呂釜を見つけてきて、2年生が勝手に風呂を沸かしたりもしていました。入れるのは2年生だけ。後になって、入られた方は早死されたようなことも耳にしました。一週間位居たはずでしたが、とにかく毎日、水探しで、覚えているのはこれくらい。
 
でも、嬉しかったこともあります。それは、私らが水探しをしていると、兵隊さんの一人が「こんな小さい子に、こんな仕事させて、ひどいもんじゃ。あんたらは偉いの」と、頭をさすってくれたことです。大きくて、温かくて、とても優しく感じ、嬉しかったのです。帰ってからは下痢がしばらく続き、髪も抜けました。誰か一人は亡くなったようでした。それでも9月になると2学期は始まり、私も登校できました。
 
【これが、私の原爆体験です。】

令和3年8月24日から9月18日聴き取り
 
(三次市原爆被害者協議会会報『百日紅』127号掲載記事より一部修正抜粋) 

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